ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

ニコライ堂・湯島聖堂

2015年01月16日 23時57分54秒 | 近郊地散策

腰部脊柱管狭窄症の治療のため、新しい整形外科を受診してみました。理学療法士が丁寧に症状を見てくれてリハビリの処方箋を書いてくれました。クリニックはニコライ堂の南側に面しているビルの3-5階にありました。

ニコライ堂の名で知られる東京復活大聖堂教会は、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会です。主イイスス=ハリストス(イエス=キリストのギリシャ語読み)の復活を記憶する聖堂ですが、ロシアから正教伝道のために来日し日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライ(1836-1912)がその建立にあたったことから「ニコライ堂」の名で知られています。

 関東大震災(1923・大正12年)で甚大な被害を被ったものの、聖ニコライの後継者であるセルギイ府主教と信徒達の努力により、1929年、一部外観と内装に変更を加えた上で再建されました。高台にあるので戦後間もなくから昭和50年代まではかなり遠くからも見えたようですが、今は周りを高層ビルに囲まれています。

建築面積は約800平方メートル、緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴で、日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。1891年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。1962年6月21日、国の重要文化財に指定されています。

4時からの鍼灸治療まで、少し時間があったので、聖橋を渡って湯島聖堂に寄ってみました。

入徳門です。木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2宝永元年(1704)建造。
入徳門-入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」によるそうです。中に入ると

奥が大成殿です。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。
大成とは、孔子廟の正殿の名称です。

湯島聖堂屋根瓦の両端は火除けの守り神、鬼頭(きぎんとう)だそうです。

HPには、「湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

こののち、寛政9年(1797)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整った。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱・緑・青・朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。

現在のものは、大正12年(1923)9月1日関東大震災により、罹災、入徳門・水屋を残し全て焼失、これを斯文会が復興計画を立て、昭和10年(1935)に再建したものである。復興聖堂の規模結構すべて寛政9年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを御下賜された御物である。」と書かれていました。椿の奥にあるのは楷の木です。

楷 かい 学名 とねりばはぜのき うるし科
PISTACIA CHINENSIS,BUNGE(Pistacia Chinensis Regel):楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、今日まで植えつがれてきている。枝や葉が整然としているので、書道でいう楷書の語源ともなったといわれているものです。

奥に孔子銅像があります。

これは、昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈されたものです。
丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大だそうです。

右側の花壇に蠟梅が咲いていました。

奥の建物のところに立てかけてありました。

意味は:子日わく、教え有りて類無し。孔子云う、「人は教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない」ということのようです。

鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。延面積10.73m2、昭和10年(1935)4月竣工。
仰高門-仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によるものでだそうです。

御茶ノ水の駅に戻ると

昔、京都の東南、山城国の一口(いもあらい)の里に「宇迦之御魂神」を祭神とした一口稲荷神社がありました。
このお稲荷様は本来、五穀の神(日々の糧となる五つの穀物の恵みを与えてくれる神)でありましたが、その上、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということからも「えもあらい稲荷」と呼ばれ、近郷近在の人々の信仰を集めておりました。
 室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行し、この地に在った太田持資(後に道灌)の姫もその病いに罹ってしまいました。
持資がこの噂を聞き及び、さっそく山城国に出向き「一口稲荷」に平癒を祈願したところ、姫は全快したと伝えられております。
後に寺社奉行でありました持資は、相模国の守護上杉定正の命により江戸城を築く時、その鬼門(鬼の出入りする方向、即ち東北、江戸城を基点とすると私たちの地がその方角になる)除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を移し奉りました。

ということで、太田姫稲荷神社がここにあったようです。昭和6年(1931年)総武線開通工事の為に、現在の駿河台一丁目二番地にそのままの形で移されたということでので、そちらにもそのうち寄ってみようと思います。

 

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