ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

土佐堀川・淀屋橋

2015年05月20日 23時15分04秒 | 訪問地周辺散策

大阪に出張でした。初日は吹田駅前の施設で、いつもは7月下旬にいっているのですが、今回は早めました。施設は駅のすぐ前にあるのですが、真夏はそこまで歩くのが大変と思うくらいでした。今回も気温が上昇し暑かったのですが7月下旬とは比べて楽でした。

初日の点検を終えて、宿泊した場所は肥後橋の所でした。この宿から目の前に大阪フェスティバルタワー、フェスティバルホールが見えます。下は土佐堀川になっています。

2日目は宿を出て肥後橋を渡り、タワーの下を通り淀屋橋に向かいました。下から見たフェスティバルホール

振り返ると宿が見えます。上流が淀屋橋になっています。淀屋橋を渡って少し行ったところに本日の訪問する施設があります。

土佐堀川の堤にバラ園がありました。バラの花は盛りを過ぎてしまっていましたが、まだ少し元気そうなバラを撮りました。淀屋橋のところに日本銀行大阪支店旧館がありました。

じゃらんにこんな説明がありました。「土佐堀川、堂島川、そして大阪のメインストリート・御堂筋に面して建つ近代建築。明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建設された、緑青の色が美しい円屋根をもつレンガと石造りの3階建て本格的洋風建築だ。設計は東京駅舎や中央公会堂を手掛けた辰野金吾らによる。江戸時代この地には島原藩大阪内屋敷があり、明治初期には関西財界の指導者五代友厚の別邸があったそうだ。昭和の時代、業務空間拡大のため、一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、西側敷地に高層棟を新築した。予約すれば、旧館の内部や新館の営業室などを見学することができる。」中には入らず写真だけ撮ってきました。こちらが正面玄関だったのでしょうか。

淀屋橋の上の花壇の花です。

橋を渡ったところに淀屋橋の由来?淀屋の碑、と淀屋の屋敷跡の碑が立っていました。

『淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった。淀屋の豪富と闕所のことはあまりにも有名である。
  淀屋の本姓は岡本氏、通称三郎右衛門。城州岡本の出身。辰五郎の称もあった。豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出て十三人町(今の大川町)に卜居し淀屋と称し、材木を商う。元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋-常安町の名がいまにのこる。   初代常安の長子(養子)喜入善右衛門、常安町家、斉藤町家の祖となる。次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり、言直から六代までつづく。   心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり。その宅地内の小路を淀屋小路という。四十八戸前のいろは蔵有り。町人蔵元の元祖といわれたが、巨大なる米商人と目すべく、淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。淀屋橋であり、こゝで行われた淀屋米市の盛大さは、この碑の絵が表現する通りであった。
  日本学士院会員 宮本又次 記』

コメント
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