退院予定日が一週間延びて、今回が最後の一時帰宅になるかと思いますが、金曜日の夜から帰宅しています。昨日今日とリハビリを兼ねて周辺を自転車で移動してきました。昨日は鬼平犯科帳に関係する法恩寺に行ってみました。
★ランドマーク法恩寺:開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。道灌公長禄2年(1458)江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主となり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時この付近を平河村と称したものである。当山には秀吉家康共に小憩され又、朱印地も与えられた。家康江戸城に入り、城内拡大に当たって当山は神田柳原、谷中清水町にと移され、元禄8年現在の地に移されたのである。当時塔中二十ヵ寺、末寺十一ヵ寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭遇するも檀信徒並地元の外護により再建され昭和29年10月現在の本堂落成をみたのである。経石塔(三重塔)は昭和7年650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当時新様式鐘楼として名高いものである。
墨田区の鬼平情景という案内板がありました。
法恩寺は太田道灌が祈願所を設けたのが起源となっています。
★ランドマーク道灌公記念碑:太田道灌道灌の山吹伝説【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】
太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。
その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。
本堂の脇に平河清水稲荷がありました。
これは三重塔の鐘楼です。
団地周辺は雪柳がもう少しで満開というところです。
桃の花も咲き始めています。
夕方テニス仲間のところに顔を出してみました。コートから夕日が見えたので自宅に戻りました。
いつも見ている病棟の窓からの夕陽とは少し違い開放的に見ることができました。
これから病院に戻り22日~24日の3日間リハビリをして25日に退院となります。