ICコーダー修理のの代理店に行く途中で、小名木川沿いに大島稲荷神社があったので、散策してみました。石造鳥居(明治25年在銘)(江東区登録文化財)
この場所には関係ありませんが芭蕉の有名な「五月雨をあつめて早し最上川」の句碑です。
入り口の左手に松尾芭蕉の像がありました。ここに寄って読んだ句があるようです。女木塚碑其日庵社中造立(江東区登録文化財)です。
★ランドマーク大島稲荷神社:慶安年間(1648年- 1651年)、小名木川近くの海辺が度々津波に見舞われて、耕地が荒廃し住民が苦しんだことから、伏見稲荷大社の分霊を奉遷し産土神として奉ったのに始まる。後に、近くにある愛宕山勝智院境内の愛宕神社と、柳川藩下屋敷の邸内社であった太郎稲荷を合祀した。
元禄5年(1692年)9月29日、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだ。境内にはその句碑「女木塚」が建立されている。
合祀前の愛宕神社には享和3年(1803年)から1年間小林一茶が居住していた(ただし、大島2丁目の愛宕神社とする説もある)。昭和20年3月10日の東京大空襲で社殿・社務所を全焼した。(ウイキペディアより)
由緒書きがありますが榧が茂っていて読めません。
「和銅4年(707年)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに2月初午の日、初めて伊奈利山の験の形に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶5年(蒼稲魂神)に正一位という再興の神位階に昇られました。明正15年(※江戸時代で15年以上続いた年号は、慶長・寛永・元禄・享保のみ、明正という年号は存在せず)江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の国、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉遷して産土神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓国造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり」このように書いてあるようです。
拝殿、石造燈籠(大正8年在銘)一対も江東区登録文化財のようです。史跡の広報には良いかと思いますが江東区登録文化財はたくさんあるので、あまりありがたみを感じなくなるではないでしょうか。石造狛犬(一対)(江東区登録文化財)
右手に昭和63年に造営された佐竹神社があります
。
百度石も茅に覆われています。
茅は茅の輪くぐりのでも使うのでしょうか。
西側の出入り口です。ここから出て裏に回ってみました。するとこんな建物がありました。お寺さんのようです。
調べて見たら勝智院でした。慶長元年(1596)に創建、栄鑁(延宝5年1677寂)が開山し、昭和41年勝智院は佐倉へ移転、当地は出張所として残されているようです。小林一茶が住んでいたのはこちらのようです。「江東区の民俗城東編」よると、井上脩之介の「江戸の一茶」によれば、享和三年(一八〇三、一茶四一歳)のころから文化元年(一八〇四)まで小林一茶が勝智院に住んでいた。句を詠んだのは隣の大島稲荷神社のようです。
ぶらり旅ではありませんが、区内を移動するとき、気づいたところに寄ってみるといろいろな発見があります。計画的でなく「犬も歩けば棒に当たる」的に散策しています。