江東区千石に行く用事があり、その後で清澄庭園の周辺をリハビリサイクリングで散策しました。最初に出合ったのが龍光院です。
★ランドマーク龍光院: 慶長16年(1611)、現在の中央区馬喰町に雲光院塔頭として創建され、明暦3年(1657)の大火で全焼し、いくどか移転の後、天和二年(1682)に深川に移りました。
龍光院が現在地に移った際、境内地の東北角が鬼門に当たるので、鬼門除けとして毘沙門天の石像をお祀りしました。昭和11年(1936)には境内の東南角に一間半四方の毘沙門堂が建てられ、参詣者でにぎわういましたが、戦災で焼失、昭和49年に檀信徒有志の寄進により新たな毘沙門像が道立されました。現在は深川七福神の一つとして信仰されています。(江東区の民俗深川編より)
本堂です。
石造五輪塔 貞享3年在銘(江東区有形文化財)
ここから隅田川方面に向かってサイクリングしました。平賀源内電気実験の地の碑が建っていました。日本で初めてエレキテルの復元修理に成功した地 です。
★ランドマーク平賀源内電気実験の地:平賀源内は享保13年(1728)高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者(げさくしゃ)でもある。平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行ない安永8年(1780)51歳にて没した。 昭和51年(1976)1月16日 江東区 第31号
平賀源内の墓は台東区にありますが2016年に訪れています。
上之橋跡がありました。
仙台堀川が隅田川に合流する手前にありました。今は暗渠になって陸続きで橋の下に川はありません。
仙台掘川です。海辺橋から見ています。奥に見える橋は清澄橋です。
海辺橋のところに芭蕉旅立ち前の姿象があります。採茶庵跡です
★採茶庵跡(さいとあんあと)
碑文
芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出点した。
昭和33年(1958)10月1日 江東区第7号
。
帰りは隅田川沿いを堅川まで戻り、二の橋に寄りました。
鬼平犯科帳に登場する二ツ目橋です。
五鉄もこの辺にあったようです。
三つ目通の反対側には
★小林一茶居住の地
享和3年(1803年)、一茶は本所五ッ目大島愛宕山(江東区大島5丁目)に住んでいた。文化元年(1804年)4月、両国の近くの本所相生町5丁目(墨田区緑町1丁目)に引っ越した。この相生町5丁目の家は間借りではなく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、垣根には季節になると朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着きが出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。この相生町5丁目の家は、一茶が遺産相続問題に本腰になって取り組んだ文化5年(1808年)、200日以上という長期間、留守にしていたために他人に貸し出されてしまうまでの約4年間、生活した。
この頃、一茶が詠んだ俳句の中には江戸の下町暮らしを髣髴とさせるものがある。
文化元年(1804年)の作である、梅の季節、誰が訪ねて来ても欠けた茶碗でもてなすしかないと、貧乏で孤独なわび住まいを詠んだ
梅が香やどなたが来ても欠茶碗 や
文化3年(1807年)の作で、今年もまた役立たずの邪魔者(娑婆塞)なのだと、己と草ぼうぼうの自らの家を自嘲した
又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家 などが挙げられる。
今の二之橋、堅川は高速京葉道路が走っています。千葉方面
隅田川方面です。
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