ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

三島散策・広小路周辺

2014年07月24日 23時08分18秒 | 訪問地周辺散策

三島では三島大社や桜川を見て、訪問施設の近くも少し散策しました。前に行った寿楽園に入ろうと思いましたがあいにく休園日でした。その先の浅間神社と芝岡神社です。清流の流れている源兵衛川です。川のところにいくつかの神社がありました。蓮馨寺です。芭蕉の墓や聖徳太子堂がありました。さらに下ると三石神社があります。パワースポットで売り出しているようです。神社の前に時の鐘の鐘楼がありました。この後、山梨の甲府に向かいました。特急ふじがわに乗って行きました。途中はほとんどが富士川沿いを走っていました。車窓から撮りました。後で調べたら富士川は甲府盆地に降った雨は富士川しか逃げ道がないことがわかりました。広い河川や急流など厳しい川の様子が見て摂れました。甲府では午前・午後と忙しく散策する余裕がありませんでした。甲府駅前の武田信玄像だけ撮ってきました。

甲府の宿の前の商店街は甲府の七夕で飾ってありました。花は蓮馨寺の境内で咲いていたものです。

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三島散策・桜川

2014年07月24日 00時07分13秒 | 訪問地周辺散策

三島大社以外にも少し散策してみました。駅から愛染通りを下って白滝公園です。公園の出口のところにこんな碑が立っていました。富士の白雪 朝日の溶けて 三嶋女臈衆の化粧水 と書いてあるようです。その脇に「白滝観音堂」です。下は三島大社に行く途中の桜川です。桜川沿いは文学の道ということで、松山の正岡子規やこの間静岡で見た弥次さん喜多さんの十返一九のものなどがありました。桜川の清流に鴨が泳いでいました。川に面して西福寺がありこんなお地蔵さんがありました。境内には一遍上人の足跡地と本堂です。

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再訪・三島大社

2014年07月23日 23時36分34秒 | 社寺仏閣

三島の施設、2年ぶり3回目の訪問です。

ランドマークとしては重要な三島大社に再度寄ってみました。今回は正面の鳥居から入りました。大鳥居です。

神社のHPに由緒書きがありました。

★ランドマーク三島大社:「御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました。この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られています。頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。その後、明治4年の近代の社格制度では、官幣大社に列せられています。又、平成12年には、御本殿が重要文化財に指定され、当社の文化的価値の高さも再認識されています。」ということだそうです。

入った右手に頼朝の旗揚げの碑がありました。

★源頼朝旗挙げの碑:治承四年八月十六日源頼朝は、北條時政を招き旗挙げの相談をし「先づ八牧判官兼隆を夜討ちにすべし急ぎ相計へ」時政「但し今夜は三島社の御神事にて、国中には弓矢とる事候はず」(源平盛衰記)との意見を入れ、十七日夜討と決定した。十七日藤九郎盛長を奉幣使として戰捷を祈請し(東鑑)旗挙げに成功したのである
   二日後、すなわち八月十九日報賽のため神領寄進の下文を寄せた。現在この下文は宝物として社蔵されている
      三嶋大社宮司原勝治撰
        同権宮司渡邊清次郎書

参道は枝垂れ桜が並木になっていました。左手の赤い社は神池に浮かぶ厳島神社です。

これは総門です。

中に入ると神門があり、神門を入った右手に樹齢1200年と言われる天然記念物のの金木犀木です。

★三島大社金木犀:昭和9年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けました。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴です。樹齢は1200年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなモクセイとして知られています。円形に広がり、地面に届くほど垂れている枝先がこの木の生きた歳月の長さを物語っています。

薄黄色で可憐な花は甘い芳香を発し、それは神社付近はもちろん遠方までにおよび、時には2里(約8キロ)先まで届いたと伝えられています。

正面に舞殿と本殿です。

これれは、重要文化財になっているようです.

★ランドマーク三島大社本殿:1854年(嘉永7年)11月4日の東海大地震によって、三嶋大社の建物のは悉く倒壊した。神主だった矢田部式部盛治は、10年の月日を費やして復興に努力し、1866年(慶応2年)9月9日に総欅造の本殿が完成した。本殿の妻飾りや、幣殿と拝殿との接合部などの形式や細工に趣向が凝らされ、江戸時代末期の装飾豊かな複合社殿として価値が高いものだそうです。(国重文)。

境内には大木がありましたが、この木は祀られていました。

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神田青果市場跡・松尾神社

2014年07月16日 23時01分24秒 | 訪問地周辺散策

神田にある施設を訪問しました。近くに神田青果市場(旧)市場の跡地がありました。秋葉原の北側に移るまえの神田青果市場です。

千代田区観光協会のPHには、「このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物ガ荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500㎡)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。」と書かれてありました。

近くに松尾神社がありました。

松尾神社は旧神田市場の総鎮守だったようです。

近くにはお稲荷さんが二つほどありました。

お稲荷さんは、今は商売繁盛の神さまとして知られていますが、もともとは農耕の神さまです。ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、「うか」とは食物を意味し、五穀豊穣をもたらす神さまということです。
 この稲荷神を氏神として祀っていたのが、古代山城の豪族、秦氏でした。『山城国風土記』逸文によると、秦一族の長者、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が富に奢り、餅を的として矢を射ると、その餅は白鳥となって山の峰(稲荷山)に飛び去り、そこに稲がなったということで、「イナリ」は「イネナリ」がつまったものと考えられています。

真徳稲荷神社の創建年代は不詳ですが、神田明神の鎮座と同時期に京都伏見稲荷大明神の御分霊を勧請したものと伝えられています。明治6年に神田明神の兼務社となり、第二次世界大戦では戦災により焼失、神田司町内の2稲荷神社を仮社殿に合祀したといいます。
昭和27年に町会結成禁止の解除に伴い、3稲荷神社を伏見大社へ還座、改めて御分霊を勧請し、真徳稲荷神社として発足しました。(境内掲示より抜粋)

お稲荷さんの脇で梅干しを作っているおばさんがいたので、美味しそうですねといったら食べませんかと1個いただきました。和歌山の有名な梅だそうです。

こちらは豊潤稲荷神社です。

このあたりは昔、神田市場があった場所。商家ではどこでもお稲荷さんを祀っていたけど、関東大震災ですべて焼けてしまった。その後の昭和5年(1930)、住民や市場関係者が保留地(区画整理の際に余った土地を集めて一緒にしたところ)に勧請したのが、この豊潤稲荷だったようです。

 

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北小金・東漸寺

2014年07月15日 23時00分35秒 | 訪問地周辺散策

北小金の施設を訪問しました。こちらも2年振りです。近くの東漸寺を散策しました。

こんなものが立っていました意味がわからなったのですが写真だけ撮ってみました。家で調べたら、勅願所とは、天皇の発願によって建立され,また天皇の帰依を受けた寺。古代には御願寺(ごがんじ)のうちで,鎌倉時代以後御願寺が増え,この勅願寺の呼称がおこる。普通は本尊の脇に天皇の寿牌(じゅはい)または位牌を安置して,聖寿無窮を祈願する。 と書いてありましたがこの文書もよくわかりません。

また、東禅寺のHPには【東漸寺の沿革】
東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。   檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。と書かれていました。

広い境内で、松並木は「三保の松原の神社への道」を思い出させるようなものでしたし、今日は枝垂れ桜の葉が茂って本堂が見えなくなっていました。六地蔵と貝塚の跡その裏に昔の無縁墓をまとめたところがありました。あまりに広くあちこちに墓が散らばっていたのでまとめたようです。本堂と寺の前の道は小金宿と書かれていました。

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