ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

鬼越神明社(市川市)

2017年06月22日 23時24分17秒 | 社寺仏閣

船橋市に行く用事があたので、途中鬼越駅降りてで江戸名所図会に掲載されている高石神社に向かいました。駅の近くに神社らしいものがあったので寄ってみました。鬼越神明社でした。

★ランドマーク鬼越神明社:当神明社は天照大神様が御祭神である。
古老の口碑によれば約700年前より鬼越村に鎮座ましました。
境内には元和2年(今から368年前)伊勢の皇太神宮より遷宮されたとの石碑によれば現在の社殿は明治年間の造営である。
境内には道祖神(耳の神様)天神様(学問の神)お諏訪(商売の神様)与力与直(鎮世)浅間神社(富士信仰)が有るが、これは大正年間の区割整理の為村内に散在した神社を遷座したものである。現在ある宮神輿は大中二基であるがお御神輿は皇紀二千六百年を記念し行徳の浅子周慶氏に依頼したもので、当村旧家中村勝五郎氏と浅子周慶氏ごの特殊関係から氏子の浄財に倍する作品を得たもので神恩のしからしむ所と氏子一同感激した作品となった。又、中神輿は文久二年(今から百三十六年前)神田平永神輿師村田惣吉、寅吉の合作である。当時江戸では将軍直許の二十数基の神輿のみといわれていた時代で、当社にこの神輿が存在したことは異例のことであった。
尚太鼓山車上の神像は天皇初代の神武天皇様のお姿である。
昭和五十六年十月四日記 神明社 右の記述は氏子総代 山田 不二男氏に依る

社殿神輿殿

狛犬

道祖神(耳の神様)天神様(学問の神)お諏訪(商売の神様)与力与直(鎮世)浅間神社(富士信仰)が有ると書かれていますが、どれがどの社かよくわかりませんでした。

とりあえず浅間神社はわかります。

富士塚とは:「富士山を信仰の対象としている富士浅間信仰という信仰がある。この信仰では富士山に登山することが修業にあたるのだが、江戸時代にはなかなか実際の登山はできなかった。そこで地元に富士山のミニチュアを作り、そこに登ることで富士登山を疑似的に体験する施設が作られた。それが富士塚である。

富士塚は大きいもので高さ十m程度で児童公園の築山ほどの大きさであるが、富士山から運ばれた溶岩が積み上げられ、本物の富士山同様の登山ルートと要所要所の信仰対象が再現されている。」ということのようです。石碑にある中道大行と書いてありますが、「中道めぐり」というのがあるそうです。中道めぐりというのは、富士山の中腹(標高2300~2600m)を一周することで、大沢崩れという今なお崩壊の続く侵食谷を通るので、非常に危険の伴うものだそうです。

これは「猫のあしあと」さんによれば「与力与直社」のようです。

与直社は江戸時代末期の世直しと関わりがあるようです。

こちらはなんでしょうか。

その他にもなどがありました。こちらは三日月が描かれているので「三日月信仰」の祠のようです。

石碑はたくさん立っていました。

いつも行き当たりばったりで写真を撮っているので、次回に行く機会があったら由緒書きに基づいて散策してみたいと思います。

次は目的の高石神社です。

 

 

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大島稲荷神社(江東区大島)

2017年06月21日 14時14分21秒 | 社寺仏閣

ICコーダー修理のの代理店に行く途中で、小名木川沿いに大島稲荷神社があったので、散策してみました。石造鳥居(明治25年在銘)(江東区登録文化財)

この場所には関係ありませんが芭蕉の有名な「五月雨をあつめて早し最上川」の句碑です。

入り口の左手に松尾芭蕉の像がありました。ここに寄って読んだ句があるようです。女木塚碑其日庵社中造立(江東区登録文化財)です。

★ランドマーク大島稲荷神社:慶安年間(1648年- 1651年)、小名木川近くの海辺が度々津波に見舞われて、耕地が荒廃し住民が苦しんだことから、伏見稲荷大社の分霊を奉遷し産土神として奉ったのに始まる。後に、近くにある愛宕山勝智院境内の愛宕神社と、柳川藩下屋敷の邸内社であった太郎稲荷を合祀した。

元禄5年(1692年)9月29日、松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で当社に参拝し、「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだ。境内にはその句碑「女木塚」が建立されている。

合祀前の愛宕神社には享和3年(1803年)から1年間小林一茶が居住していた(ただし、大島2丁目の愛宕神社とする説もある)。昭和20年3月10日の東京大空襲で社殿・社務所を全焼した。(ウイキペディアより)

由緒書きがありますが榧が茂っていて読めません。

「和銅4年(707年)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに2月初午の日、初めて伊奈利山の験の形に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶5年(蒼稲魂神)に正一位という再興の神位階に昇られました。明正15年(※江戸時代で15年以上続いた年号は、慶長・寛永・元禄・享保のみ、明正という年号は存在せず)江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の国、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉遷して産土神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓国造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり」このように書いてあるようです。

拝殿、石造燈籠(大正8年在銘)一対も江東区登録文化財のようです。史跡の広報には良いかと思いますが江東区登録文化財はたくさんあるので、あまりありがたみを感じなくなるではないでしょうか。石造狛犬(一対)(江東区登録文化財)

右手に昭和63年に造営された佐竹神社があります

百度石も茅に覆われています。

茅は茅の輪くぐりのでも使うのでしょうか。

西側の出入り口です。ここから出て裏に回ってみました。するとこんな建物がありました。お寺さんのようです。

調べて見たら勝智院でした。慶長元年(1596)に創建、栄鑁(延宝5年1677寂)が開山し、昭和41年勝智院は佐倉へ移転、当地は出張所として残されているようです。小林一茶が住んでいたのはこちらのようです。「江東区の民俗城東編」よると、井上脩之介の「江戸の一茶」によれば、享和三年(一八〇三、一茶四一歳)のころから文化元年(一八〇四)まで小林一茶が勝智院に住んでいた。句を詠んだのは隣の大島稲荷神社のようです。

ぶらり旅ではありませんが、区内を移動するとき、気づいたところに寄ってみるといろいろな発見があります。計画的でなく「犬も歩けば棒に当たる」的に散策しています。

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志演尊空神社・妙久寺(大鵬関墓地)(江東区北砂)

2017年06月20日 22時19分13秒 | 社寺仏閣

ICレコーダーが壊れたので修理に北砂7丁目にある代理店まで行ってきました。境川というバス停の近くに気になるところがあったので行ってみました。

清洲橋通りと明治通りが交差するところで清澄橋通りに面して明治通りから見て手前が志演尊空神社で奥が妙久寺でした。

由緒書きがありましたがよく読めません。

★ランドマーク志演尊空神社:寛永元年、深川郷唐島開発の際当地に訪れた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。 元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。 又正徳2年の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたとこと病は止まりこれによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして寛文3年12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。 親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。 昭和20年3月9日の戦災により両者焼失。 昭和22年3月志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。拝殿

と鳥居

この石造鳥居(昭和3年在銘)と石造燈籠(明治39年在銘)一対は江東区登録文化財です。水盤(文政11年在銘)も登録有形文化財です。手水舎

こちらは力石力石(寛文4年在銘)有形民俗文化財

砂村は促成栽培の発祥地だそうです。境内にはアジサイが咲いていました。

石田波郷宅跡があり隣が

妙久寺でした。

妙久寺山門本堂

★ランドマーク妙久寺:天霊山妙久寺は、日蓮宗の寺。境内に石田波郷(いしだはきょう)の「はこべらや焦土の色の雀ども」の句碑もあります。日領上人の創建。第48代横綱大鵬幸喜の墓があることにも注目。大鵬は生前の平成20年にこの寺を墓所と決めていたそうです。(平成25年1月19日没)。

「はこべらや焦土の色の雀ども」波郷の句碑です。

第48代横綱大鵬幸喜の墓

法華経供養塔 享保3年在銘・享保14年在銘

馬頭観世音供養塔 昭和3年在銘

百度石と同じでしょうか

百万遍と書いてあります。

墓石です。墓石には古い年号が刻んでありました。

戦災受難者供養碑1945年3月10日の東京大空襲では多くの人がなくなっていますので、江東区の寺院ではどこでも戦災受難者の碑や塔があります。

帰りがけに横十間川で京葉道路に架かる橋の上から南を見ると火災の煙が押し寄せていました。

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6月の花々(ノウゼンカズラ他)・公園由緒

2017年06月19日 23時35分15秒 | 季節の花

5月下旬から6月にかけて撮った花々をまとめてみました。最初は、いつものリハビリウオーキングしている猿江恩賜公園のノウゼンカズラ・アメリカノウゼンカズラが見事に咲いているのでこれをアップしようとおもいましたが、せっかくなので撮り貯めたものを載せようと決めました。アメリカノウゼンカズラは色が濃く自己主張しています。ノウゼンカズラは花も小さく奥ゆかしく咲いてます。なんの花かわかりませんでしたが調べたところアガパンサスのようです。まだ咲き始めたところです。

二日後に撮りました。だいぶ咲いてきました。

アガパンサスの咲いている近くの花壇にはこんな花が植えられていました。

花壇になかなか情熱的な花が咲いていたので撮りました。ワスレグサ属のヘメロカリスという花です。この花の隣に長く咲いている花があります。名札が付いているのですがなかなか覚えられません。名札の写真を撮ってきました。アルストロメリアと書いてあります。

★ランドマーク都立猿江恩賜公園:新大橋通りをはさんで野球場、庭園のある落ち着いた雰囲気の南園とテニスコート、広場、遊具のある開放的な北園に分かれています。
大正13年に昭和天皇の成婚を記念して、現在の南側地区が明治政府より東京市に下賜され昭和7年に旧猿江恩賜公園として開園し、北側地区は昭和21年の計画決定から38年、昭和58年に全園開園となりました。

猿江公園にもアジサイが咲いています。ミニ木倉の脇に咲いています

ミニ木蔵

貯木場を再現し、下町の掘割がある風情を残す作りとなっています。
使用されている約千個の切石は実際の水中貯木の際の丸太の「重し」を再利用したものです。
水面の広さは約1,600m2、水深は70cm~1mです。
初夏から秋にはスイレンが咲き、涼しげな装いになります。
風の無い日には水面の木々に建物が写しだされ、さながら大きな鏡のようです。(公園のHPより)

ミニ木倉の中には水蓮が咲いていますし、花は次から次と咲いていますが、この時オタマジャクシだったのは見事にカエルになっています。

 

猿江公園の北の入り口に近くにクチナシの花が咲いていました。

ポプラの木の所に

キョウチクトウも咲いています。

半年ぶりに黒猫さんと出会いました。キンシバイもたくさん咲いています。キンシバイに似ているビヨウヤナギです。

タチアオイも少しありましたが猿江公園では撮っていません。タチアオイは東白髭公園やら大島小松川公園で摂り、別に特集してあります。東白髭公園では何といっても強烈だったのはカシワバアジサイでした。黄色い百合でしょうか。

★ランドマーク都立東白髭公園:墨田区の北端、隅田川に沿うような南北に細長い公園で、緑とレクリエーションの場です。
公園の東側には、13階建の高層住宅が並びます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災が起きた時には、公園は避難広場となります。(公園のHPより)

こちらは光明寺のニッコウキスゲです。

大島小松川公園には朝鮮朝顔・エンゼントラペットが咲いていました。

★ランドマーク大島小松川公園:東京都立大島小松川公園は、防災市街地再開発事業により、設置された公園です。
江東デルタ地域の東端に位置し、旧中川を挟んで江東区と江戸川区にまたがり、平常時はレクリエーションの場として利用され、災害時には20万人の 避難場所となる防災公園です。
スポーツ施設を中心としたスポーツ広場、わんさか広場、自由の広場、季節の広場(北側と南側)、風の広場の五つのブロックがあります。
自由の広場に隣接してお子様に人気のアスレチック広場とバーベキュー広場あり、駐車場(有料)も完備しています。

このタチアオイも大島小松川公園で摂りました。

★ランドマーク向島百花園:江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
 
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑 波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。

百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
 
民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。(公園HPより)

向島百花園ではホタルの袋やシモツケソウなどがありました。

★ランドマーク都立水元公園:水元公園は小合溜に沿って造られた、都内で唯一水郷の景観をもった公園です。昭和50年まで、このあたりは都立江戸川水郷自然公園に指定されていました。 小合溜から引いた大小の水路が園内を走り、水郷景観を作りだしています。園内にはポプラ並木やメタセコイアの森、ハンノキなど水辺に強い樹木が生育し、ハ ナショウブ、スイレン、コウホネといった水生植物を多く見ることができます。(公園のHPより)

水元公園には花菖蒲の他にもヤマモモなどがあり、散りかけている皐月にキアゲハが止まっていました。

錦糸公園には赤い木の花が咲いています。アメリカデイゴというようです。

★ランドマーク錦糸公園:当公園は1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものである。当地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備され、1928年7月に開園された。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。こと1945年の東京大空襲においては、1万余の遺体が当公園に仮埋葬された。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきた。また公園の北側には隣接して長く精工舎(SEIKO)の工場があったが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006年にオープンした。当施設を始め付近を行き交う人々にも多く利用されている。また、錦糸公園もそれにあわせて現在再整備が進行されている。(ウイキペディアより)

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柳島妙見堂(墨田区業平)江戸名所図会めぐり

2017年06月18日 23時28分35秒 | 江戸名所図会めぐり

今年も6月8日に柳島妙見堂を散策してきました。昨年のブログに新しい写真を加えましたので、興味のある方が見てください。

 
法性寺(柳島妙見堂)
江戸時代の物語や浮世絵などにも出てくる法性寺・柳島妙見堂を散策しました。江戸名称図会にも掲載されているので、江戸名所図会めぐりにカテゴリーを変えました。6月6日と6月17日に境内を......
 

 

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