ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

五條天神社(上野公園)江戸名所図会めぐり

2017年07月20日 14時57分52秒 | 江戸名所図会めぐり

不忍池のハスを見てから上野の山に向かいました。斜めの坂道を自転車を押して登ると最初に五條天神社がありました。五条天神社は、景行天皇の御代(110)日本武尊が上野山内天神山(摺鉢山)に創建したということで、寛永18年に菅原道真公を合祀、寛永寺創建により、神職瀬川邸に殿座、昭和3年旧地へ環座したということです。

動物園側からは花園稲荷神社と五條天神の参道になっています。

不忍池のところから直接つながっています。江戸名所図会

によると上野の山より離れて左下のところが五條天神です。

切絵図で確認すると天神と書かれているところが五條天神で

写真のところは稲荷と書かれてある場所に移転しています。稲荷の所に穴と書きましたが、ここは、五條天神の隣にある花園稲荷(穴稲荷)神社となっているところです。

★ランドマーク花園稲荷神社:この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山]を太田道灌が勧請したとも、天海が勧請したとも、のちに木食浄雲により再興されたとも伝えられるが、社伝では、承応3年(1654年)に天海の弟子晃海により再興されたとされる。幕末には上野戦争(黒門・穴稲荷門の戦い)の舞台ともなった。1873年(明治6年)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の花園稲荷神社の社殿などが整備された。本務社である五條天神社に管理されているものの、花園稲荷神社は独立した法人格を持つ兼務社であって、五條天神社の境内社ではない。

手前は穴稲荷

穴稲荷神社(忍岡稲荷神社):花園稲荷神社の元宮であり境内社。「忍岡稲荷神社」が正式名称である。花園稲荷神社の整備後も元宮(旧社地)である当神社はそのまま残されている。

弥佐衛門狐:花園稲荷神社の境内社。穴稲荷の向かって左奥にある社。寛永寺建立の際に忍が岡の狐が住むところが無くなるのため、一洞を造り社を祀ったと伝えられる。(以上ウイキペディアより)

花園稲荷神社の社殿は奥にあります。

花園稲荷神社の不忍池よりが五條天神社の拝殿になります。拝殿や神楽殿なども含めて昭和3年に建てられたもののようです。

★ランドマーク医薬祖神五條天神社:第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ昭和65年には御鎮座二千八百八十年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和3年9月に御遷座になりました。

薬祖神二柱とは: わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。

  大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)

 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。

ということで、医薬祖神五條天神社は、御祭神が 大己貴命(おおなむじのみこと)と  少彦名命(すくなひこなのみこと)が主神で相殿が菅原道真命となっています。

 御利益  無病健康・病気平癒 学業成就

 七福社:五條天神社の境内社。江戸時代に上野山内の各門に作られたものの一つ。五條天神神楽殿銀杏の大木です。五條天神社と花園稲荷神社の間の碑

「一山霊神」の石碑。「一山霊神」とは、木曽御嶽神社の行者・一山のことであるそうです。

こちらの案内板は動物園口からの参道にあります。

参道に五條天神社の額が掲げられています。

額堂:伊藤博文揮毫の扁額「神徳惟馨」が掲げられています。

五条天神社手水舎

古地図で稲荷の上に「時ノ鐘」とありますがこちら

★ランドマーク時ノ鐘:時の鐘は石町時の鐘にできて以降、多くの鐘が市内にできた。最初の鐘は1666年にできた。その後、1787年に現存する鐘ができた。谷中感応寺で製造され、正面には「東叡山大銅鐘」、裏側には「天明七丁未歳八月」と彫られてある。

また、享保撰要類集には時の鐘が鳴る順番として上野、市ヶ谷、赤坂田町円通寺、芝切り通しとの順番で鐘が鳴ったという。その後、1996年6月に環境省の残したい日本の音風景100選に選ばれた]。今でも時の鐘は午前・午後6時と正午に撞かれている。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」松尾芭蕉が詠んだ俳句 芭蕉が詠んだ時代は最初の時の鐘だったそうで、芭蕉が聞いた鐘の音を上野の時の鐘か浅草の時の鐘かと思案している。

ここの反対側に上野大仏があります。

★ランドマーク上野大仏:上野大仏(うえのだいぶつ)は、現在の東京都台東区上野恩賜公園内にあった大仏。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。度重なる罹災により損壊し、現在では顔面部のみがレリーフとして保存される。薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設される。

往年の上野大仏:仏頭は関東大震災で落ちてしまい、寛永寺で保管されていましたが、仏体は解体され第二次世界大戦に献納されたようです。

かつて存在した上野大仏殿(以上ウイキペディアより)切絵図のように大仏殿があったようです。

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木母寺・梅若塚(墨田区堤通)江戸名所図会めぐり

2017年07月19日 09時50分40秒 | 江戸名所図会めぐり

木母寺はリハビリ病院の近くにあるので何度も訪れていますが、タイタンビカスを見に行ったついて再度散策したので、江戸名所図会めぐりとしてまとめてみました。

★ランドマーク木母寺:木母寺は平安時代中期の貞元2年(977)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。

当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。

毎年、4月15日は梅若丸の御命日として、梅若丸大念仏法要、古典芸能である「隅田川」の芸能奉納及び梅若忌芸能成満大護摩供を執行します。(木母寺のHPより)

江戸名所図会より隅田川東岸

手前が水神、真ん中が木母寺、奥に若宮八幡宮が見えます。

キャプション:木母寺に歌の会ありけりけふの月 其角

『回国雑記』 いにしへの 塚のすがたあはれさ いまのごとくにおぼえて  

古塚のかげ行く水の すみだ河 聞きわたりても ぬるる袖かな  道興准后

古地図

池波正太郎の剣客商売の秋山小兵衛とおはるが住んでいるのは古スミ田川を入ったところのようです。おはるの舟で浅草に出かけます。江戸名所図会3連でみると左手に古スミ田川が描かれています。錦絵では広重『江戸名所百景』[木母寺内川御前栽畑]

★梅若念仏堂:このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。

四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します。(木母寺HPより) 

建物の説明書きには、梅若堂(梅若塚拝殿)とあります。

 梅若塚の沿革:「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治25年)佛式に復帰しました。

現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

梅若塚の沿革:「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治25年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

白髭防災団地の前にある榎本武揚像の広場のあたりがもともと梅若塚があったところのようです。きれいに整備されていました。左手奥が梅若塚跡、建物もここにあったようです。右手の白いところに説明書きがありました。

★梅若伝説:京都の貴族の子である梅若丸が、人買にさらわれ、連れ回された後に、隅田川のほとりで亡くなりました。

そこに居合わせた高僧が、梅若丸の供養のために柳の木を植えて塚を築きました。梅若丸の死後1年が経ち、息子を捜し求めていた梅若丸の母親が、塚の前で念仏を唱えると、そこに梅若丸の亡霊が現れ、悲しみの対面を果たした。という伝説です。なお、伝説に登場する塚は、梅若塚として、現在、木母寺内に再現されています。

梅若塚

【梅若塚】能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。 

貞元元年(976)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されていました。

本堂です。

木母寺のご本尊は、「慈恵大師良源」で、正月三日にご入滅されたことから、元日の元に、数字の三を取りまして「元三大師」と呼ばれています。元三大師は、霊験の強いことで知られ『角大師』或いは『厄除大師』として有名です。(木母寺のHPより) 

境内に諸碑があるというので散策しました。華笠文京翁碑

幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。天下之糸平の碑

高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

 

★ランドマーク天下之糸平の碑(墨田区登録文化財):「天下之糸平」とは、幕末から明治にかけて活躍した実業家田中平八のことです。平八は天保5年(1834)信濃国(長野県)の農家に生まれ、尊王志士として水戸天狗党の筑波山挙兵に参加しました。その後横浜の生糸売込問屋で働き、慶応元年(1865)に独立して「糸屋」と称し、生糸売込と洋銀売買で巨利を得ました。明治時代には金融・貿易関係で活躍しながら、伊藤博文を資金面で支援し、明治17年(1884)50歳で没しました。

 

 本碑碑石は仙台産粘板岩で、都内最大級の大きさです。正面の文字は伊藤博文筆で、碑石裏面には平八の生涯と事跡が刻まれています。建碑の理由としては、自己のために絶大な墓を造るようにという平八の遺言に沿い建てられたと考えられています。建立を手がけたのは三囲神社隣に仕事場を構えた石工・3代宮亀年で、本碑は彼の名声を大きく高めました。建立直後から本碑は評判となり錦絵などに多く描かれ、向島の観光的歴史性も示しています。(墨田区役所のHPより)

三遊塚

三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。

脇には浄瑠璃塚がありました。

亀田鵬斎の作ならびに書 「題隅田堤桜花」

 長堤十里白無痕  訝似澄江共月渾  飛蝶還迷三月雪  香風吹度水晶村

「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たると。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年清水孝の書です。文政12年(1829年)建立。」

★ランドマーク亀田鵬斎「題隅田堤櫻花」の漢詩碑(墨田区登録文化財):本碑は、江戸時代後期の儒学者亀田鵬斎が文政3年(1820)に隅田村名主坂田氏に贈った漢詩を、石工窪世祥が懇請して制作したものです。墨堤の桜を称えた七言絶句の漢詩に続き、鵬斎の子亀田梓によりまとめられた詩の内容と石碑建立の経緯についての文章が、鵬斎の孫弟子清水孝の書で刻まれています。この詩は墨堤の風景を賞賛する象徴的な詩として、『江戸名所花暦』の挿絵にも掲載されています。

 建立当初は墨堤上にありましたが、明治30年代(1897~1906)までに木母寺旧境内に移され、木母寺の移転に伴い現在地に再移転されました。(墨田区役所HPより) 

身代わり地蔵尊

この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかりの深いお地蔵様です。そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。 

地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)オン・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶(オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ)へび観音

東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑

紀恩之碑 明治 4年建碑

 

長松幹撰文 巌谷修書 谷鐵臣隷額

華渓先生禿筆之蔵銘并序碑

 

文政三年(1820)の建碑

賛奎運碑

 

明治28年頃の建碑

 

山井先生神遊之表碑文化二年 ( 1805 ) の建碑

烏山勝忠成篆額、桂林縄惟直撰文并書丹、中慶雲刻

 

恆山先生武藝勒石記天保二年(1831)の建碑

 

綾瀬亀田梓撰文、杉山懿篆額并書丹、窪世祥鐫

その他にも歌碑や石碑が建っていますが調べ切れませんでした。

15年7月から9月と16年1月から3月と2回入院していた東京都リハビリテーション病院は空き地を挟んで隣同士となっています。

 

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タイタンビカス(アメリカフヨウ×モミジアオイ)

2017年07月18日 21時27分07秒 | 季節の花

昨年、リハビリ病院通院中に初めて知ったタイタンビカスを見に行きました。

昨年はもっと背が高かったような気がしますが、まずまず綺麗に咲いていました。

調べて見たら、赤塚植物園HPにいろいろと説明がありました。やはり昨年は3m近くあったと思います。

★タイタンビカス:タイタンビカスとは、株式会社 赤塚植物園が開発したまったく新しい植物で、ある特定のアメリカフヨウとモミジアオイの交配選抜種です。 その性質は、驚異的なほどに強健で、日当たりさえ良ければ特に植えつける場所を選びません。特に暑さには非常に強く、強い西日のあたる場所でも大丈夫です。また、宿根性のため、秋には、地上部が枯れてしまいますが、根が地下に残り翌年の春には、また芽を吹いて、初夏には、花を咲かせてくれます。とても強健なので、一度植えつければ、毎年、夏にお花を見せてくれます。

生育は驚異的なほどに旺盛で、春に芽を出した後、晩夏には、大きいときで草丈3mにもなります。花期は、7月から9月の間で、一輪一輪は、一日花ですが、次から次へと開花し、1株でのべ200輪近くの花を咲かせます。しかも、花の大きさは子供の顔(直径15~25cm)ほどもあり、全盛期の真夏には、巨大な花が次々と咲き乱れ、その美しさと存在感に圧倒されてしまうほどです。
この圧倒的な存在感と驚異的な強さ、ハイビスカスのような花姿から『巨神タイタン』にちなんで、『タイタンビカス』と名づけられました。(株式会社 赤塚植物園のHPより)

 

以上は都立東白髭公園の管理事務所の脇に咲いています。

こちらは木母寺前の花壇に咲いていました。

途中で多門寺を散策して、東武スカイツリーラインの東向島駅に向かっていたら、ガード下に咲いていました。

公園に咲いていた花はしっとりしていましたが、コンクリートの道路脇に植えられていた花は乾燥気味です。

こちらは街路樹で植えられていたフヨウの花です。

百日紅もだいぶ咲き始めました。出かける途中、横十間川河川敷きに咲いていたものを撮りました。

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かっぱ寺(曹源寺・台東区松が谷)・隅田川堤のノウゼンカズラ

2017年07月15日 23時03分09秒 | 今日の写真から

不忍池の花を見て上野東照宮などを散策して、帰宅途中でかっぱ寺に出合いました。

本堂

★ランドマーク曹源寺:曹源寺は1588年(天正16年)5月現在の和田倉門付近に開創され、1591年(天正19年)11月江戸城拡張により湯島天神下に移転、1657年(明暦3年)1月いわゆる「振袖火事」により大半が焼失し、現在地に移転して続いています。

1814年(文化11年)雨合羽商の喜八が葬られました。喜八は私財を投じて水はけ工事を行い、これに感動した河童が手伝ったと伝わり、その後河童を見かけれと良い事があるといううわさが広まり、「かっぱ寺」とも呼ばれています。(お寺のHPより)

合羽川太郎の石碑?

★かっぱ大明神:文化11年(1814)、新堀川(現在の合羽橋道具街通り)の堀削工事に私財を投じて尽力した合羽屋喜八が没し、菩提寺である曹源寺に葬られました。

この辺の土地は低いうえ水捌けも悪かったため、住民たちの難渋は見るに堪えなかったようです。そこで喜八が工事をはじめたそうです。その工事のおり、かつて喜八に命を助けられた隅田川の河童が協力したといい、この河童を見たものは不思議と商売が繁昌したと伝えられています。

この河童大明神は、 商売繁昌・火水難除などに霊験著しいといわれ、今も厚い信仰が寄せられています。(お寺さんのHPより)

古地図では新堀川(今の合羽橋通り)が残っています。

左手の上野山下から曹源寺の前を通って浅草寺の裏手に出ました。

波乗福河童大明神

曹源寺の本尊は十一面 観世音菩薩のようです。

 

合羽橋通りを横断して桜橋に向かいました。

台東区側の隅田公園に着きました。台東体育館のある浅草側堤に咲いているノウゼンカズラです。南風墨田区側から吹いてくる風にあおられて小ぶりの花になっています。

東京スカイツリーの脇のビルはそらまちのビルです。30階31階に飲食街があり隅田川が見渡せます。

墨田区側堤のノウゼンカズラです。

高速道路もあり風にさらされることなく、大きなノウゼンカズラの花が咲いていました。

対岸が今ほどいた台東区山谷掘川が隅田川に合流する地点です。今は暗渠になっています。

白い建物が台東体育館です。

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不忍池蓮花(江戸名所図会めぐり)

2017年07月14日 20時02分17秒 | 江戸名所図会めぐり

不忍池の蓮の花が咲き始めたということで、リハビリサイクリングで行ってみました.

上野公園の手前上野広小路です。わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵より古地図を重ねると下谷広小路のところにかかる三橋です。ちょうど横断歩道のところに橋が架かっていたようです。

不忍池に到着です。あまり花は多くありませんがまずまずの見頃です。

不忍池の蓮の説明がありました。

「東京名所四十八景 不忍弁天はす取」

歩道のところを流れたいたのは忍川というようです。

歌川広重 「江戸名所」 「不忍の池」 弁天島の参道ですね。絵師不詳

東都名所 不忍池

ニ代目 歌川広重 「三十六花撰」「東京不忍池蓮花」  

江戸名所図会 不忍池蓮見より

キャプション:不忍の池は江府(えど)第一の蓮池なり。夏月に至れば荷葉累々として水上に蕃(はん)えんし、花は紅白色をまじへ、芬々人を襲ふ。蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)、凌晨(しののめ)をことさらの清観とす。

わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵より

江戸時代から蓮見が観光だったようです。朝一番でないとしっかり咲いているものを見つけるのは難しいようです

弁天島です。渓斎英泉

江戸名所盡し 不忍池弁天蓮看の景

今はハスi池は一面蓮で覆われていて船を浮かべる余地がありません。デッキが出来いるのでちょっと中まで入れます。

デッキの上で近くから撮れます。

中の道にキョウチクトウが咲いていました。

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