4月19日 昨日、アブドゥラ・ギュル大統領はトルコ大統領として29年ぶりに、東部のムシュ県を訪れ、大群衆の歓迎を受けました。
大統領がクルド系住民の多いムシュを訪れたのは、クルド問題解決のための平和プロセスの一環ということでしょう。
大統領がクルド系住民の多いムシュを訪れたのは、クルド問題解決のための平和プロセスの一環ということでしょう。

ギュル大統領はトルコ大統領として29年ぶりに東部のムシュを訪れました
広場に集まった群衆はトルコ国旗と紅白のカーネーションを手に、「トルコはあなたの誇り」というスローガンを叫びました。
県庁のバルコニーから群集に挨拶したギュル大統領は、「これが私の最初で最後のムシュ訪問です」と言いました。
クルド問題解決に関して、大統領は、解決の気運は強まっていると言いました。
「トルコの兄弟たちは平和を熱望しています。私は人々の顔に幸せを見ました。私はとても嬉しい。トルコは大きな国だから、人々の間に民族、宗教、宗派などの違いがあるのは当然です」
ムシュ・アルパルスラン大学の学生、ジェブライル・バシュプナル君は「大統領閣下、平和プロセス後、私は愛する女性と結婚できるでしょうか?」と書いたプラカードを持って広場に立ち、人目を惹いていました。トルコ系のバシュプナル君はクルドの少女との結婚を家族に反対されたそうです。
県庁のバルコニーから群集に挨拶したギュル大統領は、「これが私の最初で最後のムシュ訪問です」と言いました。
クルド問題解決に関して、大統領は、解決の気運は強まっていると言いました。
「トルコの兄弟たちは平和を熱望しています。私は人々の顔に幸せを見ました。私はとても嬉しい。トルコは大きな国だから、人々の間に民族、宗教、宗派などの違いがあるのは当然です」
ムシュ・アルパルスラン大学の学生、ジェブライル・バシュプナル君は「大統領閣下、平和プロセス後、私は愛する女性と結婚できるでしょうか?」と書いたプラカードを持って広場に立ち、人目を惹いていました。トルコ系のバシュプナル君はクルドの少女との結婚を家族に反対されたそうです。
ディヤルバクル刑務所を人権博物館にという10万人の署名
悪名高いディヤルバクル刑務所を人権博物館に変えたいという10万人分の署名を、「78年基金」が国会の「請願委員会」に提出されました。
「あらゆる社会同様、わが国も、その社会も、向き合うべき時代がある」と、78年基金のジェラハッティン・ジャン会長は言いました。
「あらゆる社会同様、わが国も、その社会も、向き合うべき時代がある」と、78年基金のジェラハッティン・ジャン会長は言いました。

ディヤルバクル刑務所に投獄されたクルド人たちは、非人間的な扱いと激しい拷問を受けたと、ジャン会長は言っています。
1984年、ディヤルバクル刑務所で、ハンスト中に死んだジェマル・アラトの父親サキネ・アラトは、刑務所で死んだ若者たちの母親たちは、刑務所を博物館にすることを希望していると言っています。
ディヤルバクルの忌まわしい刑務所では、拷問と虐待が、とくに1980年9月12日のクーデター直後に、当局によって行なわれました。
収容者に対する残虐な拷問が、クルド紛争をエスカレートさせる大きな要因になったはずです。
刑務所の収容者が釈放後、PKKに参加したのは、多くの場合、刑務所での虐待が原因になっていたことが明らかになりました。
1984年、PKKのメンバーはクルド独立のために武器をとりましたが、その後、南東部にクルド自治区をつくることが目標になりました。
・・・不当な虐待を受けたからといって、無辜の市民を、赤ちゃんや子供まで、殺していいということにはなりませんよね。
1984年、ディヤルバクル刑務所で、ハンスト中に死んだジェマル・アラトの父親サキネ・アラトは、刑務所で死んだ若者たちの母親たちは、刑務所を博物館にすることを希望していると言っています。
ディヤルバクルの忌まわしい刑務所では、拷問と虐待が、とくに1980年9月12日のクーデター直後に、当局によって行なわれました。
収容者に対する残虐な拷問が、クルド紛争をエスカレートさせる大きな要因になったはずです。
刑務所の収容者が釈放後、PKKに参加したのは、多くの場合、刑務所での虐待が原因になっていたことが明らかになりました。
1984年、PKKのメンバーはクルド独立のために武器をとりましたが、その後、南東部にクルド自治区をつくることが目標になりました。
・・・不当な虐待を受けたからといって、無辜の市民を、赤ちゃんや子供まで、殺していいということにはなりませんよね。
