ありがたき毎日(⌒‐⌒)

今年は神様と、、( - ө - )

軽く紹介 頼朝、、。戦って、生き延びて、流されて、、 鎌倉時代〜

2023-11-07 22:28:52 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
ここで軽く頼朝について紹介いたします。超有名人の部類ですかね、頼朝は。義経も同じく超がつく有名人。二人は兄弟。義経は、頼朝の弟なのよ。父は源義朝。ああ、やだわ、やっぱり似てるわ、皆名前が(# ゚Д゚)。
頼朝は、まだ小さな頃から戦に参戦してました。その年13才。ヒエ〜。今で言う、中1だど。あの有名な平治の乱や。あれが、頼朝の戦デビューや。こん時は父の義朝と一緒。親子で平清盛と戦ったのだ。が、、みなさんもご存知の通り、この頃の平清盛は、実に強く、結局義朝、頼朝は負けてしまいます

。、、負けてどうしたか→逃げました🏃父と共に。が、運悪く、二人ははぐれてしまいました。まだ子供だった頼朝は、平氏に捕まっちまいました。絶体絶命、かと思われましたが、ここに菩薩のような救世主が現れます。敵の清盛の継母。名は池禅尼。尼ですからねえ、、。情に厚かったんすかねえ。

何はともあれ、頼朝、命だけは助かりました。そして、伊豆の蛭ヶ小島に流されました、蛭ヶ小島って名前がついてるくらいだから、、蛭がたくさんいる島だったのかなあ🐸。ケロケロ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モテ男頼朝 仕事もできますがな。 鎌倉時代〜

2023-11-07 21:43:20 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
始まり始まり〜🪭。鎌倉時代の前は、言わずと知れた平安時代、、。実際は平安ではなかったようですが、とにかく平安時代。平安時代の終わりころ、源氏🆚平家 そこに藤原も絡んでの大変な争乱があり、何が平安だと言う感じでしたが、実は源氏と平家がやりあったあと、つまり平家が滅びたあと初めての武家政権となった鎌倉幕府はメキメキと力をつけ、朝廷と対を張るようになります。どうだどうだ、と言わんばかり。それにしても、です。平家や藤原と必死こいて戦っていたにも関わらず、何故鎌倉での政権づくりもできたんでしょうね。それは、、源平の争いの真っ最中、源頼朝は、源義経や源義仲などに戦いを任せ、本人はその間せっせと鎌倉で政権の基盤づくりに励んでいたようなのです。様々な政権の機関を設置し、さらには後白河上皇におねだりまで。そのおねだりというのは、「ねえ上皇様。政権運営する上で、治安を守るっつーのは非常に重要なことでしょう。その役職を各地に置かしてよ。いいでしょ?」上皇も「オッケー👌」と言わないわけにはいきませんでした。このへんは、また少し複雑な事情もあったようです。下準備も整い、晴れて源頼朝は武家政権の親玉となり、鎌倉幕府を成立させたのです。正真正銘、初めての幕府政権、の誕生です。鎌倉幕府万歳!\(-o-)/て感じですかね。
さて、そんな頼朝の正室、つまり奥さんですが、これがまた、何と言う因果かよりによって「平氏」を祖先に持つ北条政子というかたです。何で?何でまた敢えてそんなかたと、、(・・;。と首を傾げたくなりますが、とりあえず二人は恋愛結婚だったようです💕。頼朝には元カノなどもおったようで、実際おモテになったようです。そうかそうか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女傑登場、。 鎌倉時代

2023-11-07 05:59:46 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
鎌倉時代って、、学んだはずなんだがな、確か。でも、人間は忘れる生き物。特に忘れやすいのが私。、、そして、登場人物の多さと似たりよったりの名前にまたまた混乱。何だってみなこんなに似たりよったりの名前をつけるのか。この似た名前、は少し前に学習した徳川などもそうなよねえ、、一文字被りですぐに混乱🌀。やめてほしい、マジで。でも、グダグダと文句を言ってても始まらないので、鎌倉時代、始めます。鎌倉時代のキーワードと言うと、何が浮かぶでしょうか。北条政子。はい、確かに重要な人物ですね。源頼朝。このかたも、重要人物で彼なしには鎌倉は語れませんね。そして、他にもまだまだいます。有名どころ。源義経、義家、義仲。後白河法皇。他には、非常に不安定だったこの時代に生まれた鎌倉新仏教、とそれを説いた法然。日蓮、親鸞、、て!すごい、超豪華な顔ぶれやん!(゚д゚)!、さらにはあの、後世まで残る、あまりに有名な随筆家、吉田兼好。後醍醐天皇、足利尊氏、、これらの名前を見ただけでも鎌倉時代、ワクワクしますね。まだまだいろいろ出てきます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わけあって、鎌倉時代にUターン。 鎌倉時代〜

2023-11-04 17:27:44 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
全くの個人的な理由で、鎌倉時代に戻り改めて復習いたします。、、来月、鎌倉に旅に行くことになり、改めて鎌倉幕府の頃の鎌倉、についてお勉強しようかはあ、あの人がこの場所で、この場所であの人たちが、、、などと予習してから見る鎌倉の景色は、何かしらまた違って見えるかも知れません。お寺や神社などは、人物やそれにまつわる歴史上重要な出来事を絡め、特に念入りに予習復習を頑張りたい。📚鎌倉時代の出来事は結構血なまぐさいのもありますので、復習するにもドキドキはしますが。💗かまくらー、、待っててくれよー。って、、わずか一泊なんですけどね(;´∀`)気合だけは人一倍。、、鎌倉時代、、何かこの時代も色々あったなあ、、。源氏と平家の争い、鎌倉での政権の基盤づくり、何たってショウグンやで!の時代です。この時代の有名な言葉の一つ→征夷大将軍。、、この役を頂いた源頼朝は名実ともに自ら開いた鎌倉幕府のトップに立ったのです。と、、ここから始まるのでしたね、鎌倉幕府。ヘイヘイ😎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本名、島津一子。誰だかわかる? 幕末〜

2023-11-04 15:25:47 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
ハリスと接見するという大役を果たした13代将軍を徳川家定ですが、彼の名は余り世間には知られていないのではないでしょうか。奥さんを二人続けて失くし、子供もおりませんでした。そんな家定のもとに、3人目の奥さんがやってします。この方こそ!有名人篤姫じゃ。ドラマの主役になるほどの名の知れた人。そうよ、篤姫よ。この婚姻がまたすごくて、何がすごいのかというと、壮大な政略結婚とでもいいますか、、。そう、家康の頃から度々チェックが入った薩摩藩、の島津家、しかも島津家の中でもキラッ🌟と光る実力派、藩主島津斉彬の養女が、幕府の徳川家に嫁ぐわけですから。もうそれだけでびっくりドキドキです。でも、実は島津は、これより少し前にも幕府徳川に娘を嫁がせているんです。島津重豪の娘、茂子、が徳川家斉のもとに嫁に行っとります。たくさん子供をもうけ、当時としては長生きだった事から、島津家のおなごはいいんじゃないの?的な評判ももしかしたらあったのかも。
というわけで、どのような経緯があったかはわかりませんが、島津斉彬の養女でのちに将軍家の養女となる敬子(後の篤姫=天璋院)が、家定の3人目の嫁となります。、、が、残念なことに家定は、篤姫と結婚して2年も経たずに脳溢血を起こし、そのまま亡くなってしまいました😞。ここから熾烈な家定の後継者争いが始まるのですが、それは後に述べるとして、今は篤姫について書いてみます。篤姫(本名、敬子)は、結婚してわずか2年も経たないうちに未亡人となってしまいましたが、家定亡き後も薩摩には戻りませんでした。幕府に留まることを決意したのです。( ・ิω・ิ)せやで!わたしゃ最後まで幕府を支える決心やで!(by篤姫😉)。
家定亡き後、篤姫は仏門に入り、天璋院と名乗ります。そんな篤姫の何がすごかったのでしょう。調べていきましょか。
篤姫は天璋院になってから、本丸に戻り大奥の取締役となります。つまり、、ボスやね。
篤姫は、自分の結婚が、藩と幕府を結ぶための架け橋婚だった事をきちんと自覚していた人なのでしょう。家定の3番目の嫁を、何としても島津から送り込みたい!と島津斉彬は考えていたし、将軍家は将軍家で、「以前島津から将軍家に嫁いで来た広大院、、あの人は上部で仕事もでき子を沢山生んだよなあ、、。島津からまたよめもらえないかしらん、、」と互いの意向が合致したんですな。、、そんな篤姫は、天保6年、薩摩一門の今和泉家の生まれです。生まれた時の名前は一子。一子→敬子→篤姫→天璋院いやー、変わる変わる🌀。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする