年末年始は食べて飲んで寝て、をひたすら繰り返していたので、歴史の勉強もすっかり途切れ、いろいろなこと忘れてしまいました(-_-;)。頼朝が鎌倉幕府を開く手前でずーっと足踏みしてます。一体いつになれば鎌倉時代にたどりつくのでしょうか。、、松の内も終わり、また細々と書いていきたいと思います。
昨年、源頼朝が何をしたところまで書いたかはうっすらと覚えているのですが、他はさっぱり😂。
では、、始めたいと思います。以仁王の令旨により、平氏を何とかしてくれ、という声が広がり、もとより平氏に対して面白くない感情を抱いていた人たちは立ち上がり始めました。その中の一人、、が、源頼朝。戦に敗れて流され、その後長きにわたり表に出ることはなかったのですが、以仁王の声により見事復活。、、が、しかし、平側と戦おうにも兵力は不足してたし、作戦もなかなかうまくいかず不意打ち攻撃なども受けたりして、先に書いた石橋山の戦い、でも壮絶な戦いを強いられ負けてしまいます。命からがら船で現千葉の、安房方面に行きます。普通に考えたら石橋山の戦いで頼朝はやられてしまいそうなものです。事実、危なかった。しかし、頼朝というのは相当な強運の持ち主なのか生き延びるんですね。洞窟みたいなところに潜んだり、山に隠れたり、、大変なことの連続でした。それは、一人では決して成し遂げられる事ではなく、何故かしらいつも助けてくれる人がいたからです。例えば、です、
石橋山の戦いで、大庭景親側の兵士だった梶原景時は山中でもはやこれまでか、、やられるくらいなら自害したる!と刀を抜きかけた頼朝を逃してくれたのが、後に頼朝に重用される梶原景時、、。不慣れな山道で迷いそうになった時、その辺の道に詳しい土井実平が助けてくれました。、、頼朝って、そーゆー人。人望があったのか「この人を助けてあげたい」と思わせるような何かを持っていたのか、、。いずれにせよ、こうして頼朝は何度も訪れる危機を何とかすり抜け、そして生き抜きます。
頼りにしていた千葉の豪族たちは、頼朝の期待に応えてくれました。「みなさん、平氏打倒に手を貸して。」にちゃんと応えてくれたのです。頼りにした人その1→先に書いた、上総広常、兵20000。 頼りにした人その2→千葉常胤、兵300。加えて駿河の戦いで平氏を破っていた甲斐源氏の兵約四万( ゚д゚)も加わり頼朝軍の兵士の数たるや、も〜大変。雪だるま先に増えていき、それでは平氏も大変だ、というわけです。実のところ、この時すでに兵士の力は弱くなっていたのでしょう。兵を集めたには集めたが、何といいますか頼朝ほど用意周到だったわけではなく、言ってみれば、ああ😮💨、寄せ集めみたいな風でもありました。ですから棟梁に対しての忠誠心というのも、ぶっちゃけ「はあ、まあ、それほどでも〜(^.^;」てな感じのかたもいらしたかも、、。事実、戦いの最中に源氏側に寝返る武士も結構いたらしいです。まあ、気持ちはわからなくもないが。
そんなわけで、長かった源平合戦(治承・寿永の乱)もいよいよ終盤への差し掛かります。余力があまり残っていなかったであろう平氏軍も、プライドがあるため戦わないわけにはいきません。が、、、こんな感じになりこんな結果に、、。
平軍、戦う前に撤退、となったのです。そして、この頃、非常に大きな出来事がありました。平清盛の病死、です。こりゃ大打撃だよ。
つづく
楽しみを棚上げなんて、そりゃ殺生と云うもんですぜ。待っている間に、わらわも一つだけ学びやんしたよ。頼朝は政治家向きで義経は軍事家向き…って事。これが悲劇なる兄弟の正体、だった。サア、この見立ては如何に?
次の投稿はいつになるのじゃ〜?