日本が初めて他の国との繋がりを持つと言う重大な局面でございます。、、ペリー来航の際、病に伏していた将軍家慶は残念ながら、騒ぎのさなか亡くなり、あとに将軍になったのは、徳川家定。大変な時に将軍になったものです。彼は、亡くなった家慶の四男。家慶さんと同様、家定さんも病弱でした。父の家慶さんは考えました。「何か不安だなあ、、俺に似て体弱いしなあ😮💨、、そうだ、、水戸藩の徳川慶喜を後継者にしよう。あの人優秀だし。そだそだ、十三代将軍は慶喜にしよう、そうしよう✌まあ、あいつの父ちゃんはあまり好かんが、この際仕方ない」、、ところが、この意見に反対した人がおりました。それが、例の老中首座の安倍ちゃんでした。ん、、なぜだろう、、(・・?。それは、単純に、後継ぎは、宗家のものでなければならんでしょ、という理由からだったようです。たしかに家定は、家慶の実子ですからね。しかし、家慶の考えもわからなくないです。先程述べた通り家定は病弱で、少しばかり行動に問題もあったようで、、。対して慶喜は大変に優秀、デキる人でした。実際、幕府最後の、第十五代将軍になってます。しかし、結局その時は、家定が将軍になりました。なったからには頑張らにゃ、、と思ったかどうかはわかりませんが、とにかく将軍になったのです。しかし、結婚をしたものの、二人目までの奥さんは亡くなってしまいます💧そして三人目の奥さんとして嫁いできたのが有名人、篤姫。篤姫については後ほど改めて述べるとして、家定は、忙しかった。だって、何度も書くけど、日本が開国という超ビックな歴史の転換点に立っていた時の将軍なんですから、、。正直家定は、評判としては芳しくなかったようで、ひどい呼ばれ方したりしてたようです、うつけ者、とか、、💢うるさいわい!勝手なこと言いおって、、と内心はお怒りだったかもしれませんね。
そんな家定の一番の仕事と言えば、やはり、あれでしょう。米使、ハリスくんとの接見。「ショウグン、イエサダサン、オネガイ、、日米和親条約ダケデハタランノデス、日米修好通商条約ヲナントカ調印シテクダサイマシ、、ヨロシク」、、んー、、日米修好通商条約か、、これ、なかなかシビアな条約だよなあ、、と家定も、阿部正弘も、後の老中堀田正睦も思ったに違いありません。今後幕府は、そしてその先日本はどうなっていくのでしょう、、。