一太郎ファイルの発掘を続ける。字句はいじっていない。
この作品集には、高雅で、ほんのりと苦いこころあそびの感じられる歌が、バランス良く配列されている。今回私は、老境に入りつつあくまでも女性としての艶なる情を手放さないこの歌人の、一首一首の歌を屹立させる矜持のようなものに親しく接することができた。それは奇異なまでに激しい印象を与える集名にもあらわれている。もろもろの日々の「思い」は、述べられたあとで、述べたその瞬間から、ことばとして、詩として截り立つものでなくてはならない。と同時に、人の世が否応無しに見ることを強いてくる陰惨な事実や、そこから引き起こされる「思い」の数々は文字通り截って思い捨ててしまわなければならないものだろう。
花蘂を押し出せるもの包むもの牡丹の性もそれぞれにあり 振り仮名「性」しやう
羽たたみ川面に浮かぶかもめゐて水の速度をもて去りゆきぬ
枯れ葦となりてしまひぬほきほきと折れば覚悟のごとき音たつ
海へだて引き合ふ島か風すさぶ午後をしるけし二つながらに
歌人にとって熟練した技術のもたらすものが何なのか、ということをここに引いた四首の歌からだけでも考えさせられる。自然の動植物が「あるがままの姿でそこにある」ことを的確に描写するだけで、それを見ている「私」の精神の位相のようなものが、同時にきわやかに立ち上がってくる。これをすぐに諦念と理解する方向に持っていってはならない。ここにあるのは、まじまじと見つめ、事物を受容する豊かで活動的なこころのはたらきである。
老いにけらしな変節すらも因りきたるいはれ想へばただに黙しぬ
かなしみに痩すとふこともなく過ぎて憂ひはむしろ身を重くせり
草などをかぶせありしが罠といふ穴のあたりの気が人を惹く
愛での盛りといふ時分ありうねりつつ人から人へ移りゆくかな 振り仮名「愛」め
歳経りて入る菖蒲湯や男ごごろの雄々しからざる数多も見来つ 「入」い、「男」を
さうなのかさうだつたのかかの時にうすく浮かべし笑ひの理由は 振り仮名「理由」わけ
これらの歌は、人というものの恐ろしさと、愚かしさと、悲しさについての認識を胸のうちにかみしめるようにして詠まれている。これらの歌群に、作者の周囲にいる人々や歌壇の誰彼の名を重ねて読むのはやめにしよう。苦い歌だが、ここに映っているのは人生そのものだ。これらの歌は、人生を観照する文学として遇するべきなのだ。
葉隠りの椿一花の鋭き赤さやや退きて見むこの世のことは 振り仮名「葉隠」はごも、「鋭」と、 「退」ひ
この世かの世は一続きやも亡き人のこゑを聞きとむ雑踏のなか
にくたいは一生かけての泪壺滅びし向後を骨壺が受く 振り仮名「一生」ひとよ
諦観に傾く時に、短歌のことばは様式美をもって作者を抱き取る。だが、ここでも熟練した技術は類型の外へとわずかに作者の個人性を解放する。「葉隠りの椿一花の鋭き赤さ」に自らの進退を重ねる時、きりっとしたいさぎよい精神のありようが伝わる。作品集の大半が、ここにのべたような様式性、つまり近代短歌の遺産としてあるものとのバランスの中でうみ出されていて、この歌集を読む心地よさはそこにあるのだが、その上でなお、できごとの掴み方に作者独特のこだわりのようなものが出ている歌がおもしろいと思った。
収穫のあとを均して去りければ土は眠らむ泥のごとくに 振り仮名「均」なら
というような、ごく平易な言葉遣いによって深みのある事物の把握を示す歌。
理につきてさびしきことば情につきおろかなことば交々吐けり
ことばについての、この熱くてしかも醒めた感慨。こういった歌が集中には多くあり、短歌による認識というのはこういうもののことだと思わせられるのである。ほかに。
こころにはことば及ばね及ばざることばの力はこころより出づ
若かりし日に拒みしを今すこし惜しむも時に洗はれてこそ
たちかへる水無月といへ生き代はり生き代はり人間に同じ過ち 振り仮名「人間」ひと
この作品集には、高雅で、ほんのりと苦いこころあそびの感じられる歌が、バランス良く配列されている。今回私は、老境に入りつつあくまでも女性としての艶なる情を手放さないこの歌人の、一首一首の歌を屹立させる矜持のようなものに親しく接することができた。それは奇異なまでに激しい印象を与える集名にもあらわれている。もろもろの日々の「思い」は、述べられたあとで、述べたその瞬間から、ことばとして、詩として截り立つものでなくてはならない。と同時に、人の世が否応無しに見ることを強いてくる陰惨な事実や、そこから引き起こされる「思い」の数々は文字通り截って思い捨ててしまわなければならないものだろう。
花蘂を押し出せるもの包むもの牡丹の性もそれぞれにあり 振り仮名「性」しやう
羽たたみ川面に浮かぶかもめゐて水の速度をもて去りゆきぬ
枯れ葦となりてしまひぬほきほきと折れば覚悟のごとき音たつ
海へだて引き合ふ島か風すさぶ午後をしるけし二つながらに
歌人にとって熟練した技術のもたらすものが何なのか、ということをここに引いた四首の歌からだけでも考えさせられる。自然の動植物が「あるがままの姿でそこにある」ことを的確に描写するだけで、それを見ている「私」の精神の位相のようなものが、同時にきわやかに立ち上がってくる。これをすぐに諦念と理解する方向に持っていってはならない。ここにあるのは、まじまじと見つめ、事物を受容する豊かで活動的なこころのはたらきである。
老いにけらしな変節すらも因りきたるいはれ想へばただに黙しぬ
かなしみに痩すとふこともなく過ぎて憂ひはむしろ身を重くせり
草などをかぶせありしが罠といふ穴のあたりの気が人を惹く
愛での盛りといふ時分ありうねりつつ人から人へ移りゆくかな 振り仮名「愛」め
歳経りて入る菖蒲湯や男ごごろの雄々しからざる数多も見来つ 「入」い、「男」を
さうなのかさうだつたのかかの時にうすく浮かべし笑ひの理由は 振り仮名「理由」わけ
これらの歌は、人というものの恐ろしさと、愚かしさと、悲しさについての認識を胸のうちにかみしめるようにして詠まれている。これらの歌群に、作者の周囲にいる人々や歌壇の誰彼の名を重ねて読むのはやめにしよう。苦い歌だが、ここに映っているのは人生そのものだ。これらの歌は、人生を観照する文学として遇するべきなのだ。
葉隠りの椿一花の鋭き赤さやや退きて見むこの世のことは 振り仮名「葉隠」はごも、「鋭」と、 「退」ひ
この世かの世は一続きやも亡き人のこゑを聞きとむ雑踏のなか
にくたいは一生かけての泪壺滅びし向後を骨壺が受く 振り仮名「一生」ひとよ
諦観に傾く時に、短歌のことばは様式美をもって作者を抱き取る。だが、ここでも熟練した技術は類型の外へとわずかに作者の個人性を解放する。「葉隠りの椿一花の鋭き赤さ」に自らの進退を重ねる時、きりっとしたいさぎよい精神のありようが伝わる。作品集の大半が、ここにのべたような様式性、つまり近代短歌の遺産としてあるものとのバランスの中でうみ出されていて、この歌集を読む心地よさはそこにあるのだが、その上でなお、できごとの掴み方に作者独特のこだわりのようなものが出ている歌がおもしろいと思った。
収穫のあとを均して去りければ土は眠らむ泥のごとくに 振り仮名「均」なら
というような、ごく平易な言葉遣いによって深みのある事物の把握を示す歌。
理につきてさびしきことば情につきおろかなことば交々吐けり
ことばについての、この熱くてしかも醒めた感慨。こういった歌が集中には多くあり、短歌による認識というのはこういうもののことだと思わせられるのである。ほかに。
こころにはことば及ばね及ばざることばの力はこころより出づ
若かりし日に拒みしを今すこし惜しむも時に洗はれてこそ
たちかへる水無月といへ生き代はり生き代はり人間に同じ過ち 振り仮名「人間」ひと