さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

短歌と日本語による〈私〉の語りについて 1

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
一太郎ファイルの復刻。数年前に手刷りの冊子として数十部作って知人に配布したもの。当時、今井恵子さんが「和文脈」というようなことをおっしゃっていて、そういうコンステレーション(共振)がおもしろかった。

はじめに この冊子は、この五年間ほどの間に私が取り組んできた研究の中身を知人や職場の皆さんに知ってもらおうと思って編集したものである。Ⅰ章の文章は、短歌結社誌「未来」に「読みへの通路」と題して毎回一ページ五十回ほど連載した文章の後半を整理したものである。Ⅱ章には、短歌の総合誌に掲載した「アララギ」系の歌人についての短文を集めてみた。Ⅲ章には、最近取り組み始めた近世和歌に関する文章を入れた。

目次
  Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解 2
高安国世・リルケと「実相観入」 4
経験に依拠する仕方について 6
描写と説明について 9 
  ①自己分析のてだて
  ②「~のだ」による私語り
陳述について 14
  ①「がある」と「である」
  ②日本語による陳述とは

 Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解

 小林秀雄に『考えるヒント』という著書がある。その中で斎藤茂吉の写生論について小林は、空海からベリンスキイまでさかのぼって引用しながら、茂吉の言う「写生」は、〈観〉の部分を含んでいるのだ、つまり、ものを見る時の態度(ものの見方)の問題を含んでしまっているのだと言っている。だから、「自然自己一元の生を写す」という茂吉の「実相観入」論は、西洋の客観主義的、科学的なリアリズムとは別物である、というのだ。われわれが子規以来の「写生」論を整理しようとして字句にこだわり始めると、ひどく込み入ったことになってしまう。その点、小林秀雄の右の理解を常に念頭に置いて「写生」をめぐる議論を見てみるならば、根底の部分をしっかりとつかまえているので、時間を無駄にしないで済むのではないかと思う。
 桶谷秀昭の『永遠と亡びゆくもの』という論集の冒頭に、「虚相について」という文章があり、二葉亭四迷の『小説総論』の言葉、「模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり。」という有名な一節が引かれている。二葉亭の言葉は、ロシアの思想家ベリンスキイの「芸術の理念」を下敷としているのだが、細かい説明は抜きにして、右の言葉を字義どおり受け取るなら、「模写」の目標は「虚相」を写すことにあるのだから、桶谷によれば、「つまり、レアリズムという文学方法だか表現の結果だかが、事物の模写を生命としないということである」ということになる。これは、俗流の「リアリズム」理解に対する批判を含む言葉なのであるが、このようにとらえてしまえば、リアリズムというものも随分風通しの良いものに感じられることだろう。桶谷は言う。「(略)そのレアルな描写が生きるのは、作家が観察し、選択した事物それ自体のもつ力ではなくて、作家がそれらに付加した情熱の力によってである。」
 この言葉を、先述の小林秀雄がとらえた茂吉「写生」論と突き合わせてみると、桶谷の論は、小林の論とほとんど重なっていることがわかるだろう。ものを見る時に、作家が付加する「情熱の力」には、当然〈観〉の要素が含まれていると見なければならない。つまり、いやおうなく倫理的な傾きを持つことになる。読者はここで、小林秀雄の「写生」論の射程に驚くのではないだろうか。
 さて、桶谷は同じ論文で次のように書く。「二葉亭の『虚相』がいかにも混乱した、あいまいな概念であったにせよ、彼がその言葉にこめた想いは、生きた、現実的な本能に近い倫理感覚であり、それに強いられたかぎり、二葉亭の『模写』による文章の言葉は生きたのである。」
ここで桶谷の言う「倫理感覚」というのは、「生活という他者」にぶつかることによって、「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」に堕する「自己欺瞞」から抜け出そうとする意識の有り様をさしている。この、自意識という百年の課題は、何周もめぐって今再び若い歌人たちの問題になっているように私には思われる。もちろん、問題は「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」が「自己欺瞞」であるなどとは、簡単に言えないところにある。

高安国世・リルケと「実相観入」

 前回の話題を続ける。ちょうど水沢遥子さんの『高安国世ノート』という本が出たばかりだ。昭和三一年の「短歌研究」七月号で高安国世が、手塚富雄、森田たま、清水基吉と座談をしていて、こんなことを言っている。
 「リルケという詩人は自己を捨てるというか、主観と客観の融合というものを目指してやつたように思うんですね。だから方法としては斎藤茂吉の実相観入というものと一脈相通じると思うんですがね。」
 目からうろこが落ちるような発言というのは、こういうものを言うのだろう。いろいろなことが一度に了解できる。日本人でリルケが好きな人が多いわけもわかるし、高安国世のリルケや茂吉の読み方もわかる。同じ場で高安はこんなことも述べている。
「向うの人は個人が閉ざされていてね、そういうところでリルケなんかも孤独を感じて、そこから抜け出そうとしたわけでしよう。」
「(略)知性への追及の果てに西洋文明は一つのゆき詰りに来てると思うんですよ。主観と客観との分裂が現代の悩みになつてきてるんで、東洋を見直す気持があるんでしようね。」
 茂吉の方は、周囲に自然があふれた日本的風土の中で「実相観入」と言った。そのことと、西欧の伝統の中で近代人として悩んだ果てにリルケが選び取った方向が、逆の向きから出会いながら、たまたま重なって見えている。それを高安国世という大知識人が、双方の違いを十分に認識しながら言った言葉が右に引いたようなものとなった、ということではないかと思う。だから、この認識は高安国世の内在化した西洋の知の問題である。繰り返しになるが、水沢さんの本には、高安国世の次のような言葉が引用されている。
 「僕はリルケが『物』の詩に赴くのは、近代的自意識を脱するため、新しい調和を回復しようがためと思いますが、日本の多くの美しい歌は近代的自我の形成を経ずして東洋的な自然との融和感を基礎としているように思うのです。」
                        (「或る不安について」一九五六年)
 たぶん問題は、われわれの「孤独」の質なのだろう。現代の日本人は、もしかしたら昭和三一年の頃よりもリルケの悩みを悩めるところにいるのかもしれない。むろん、あらゆる劣悪な条件を捨象したところで、仮にそう言ってみるのであるが。
 どうしてこんなことを書いているのかというと、それは「自然」を詠んだ歌のことを考えてみたいからである。現代のわれわれにとって自我や自意識といったものは、統一的なものと言うよりは、むしろ多くは細分化され、寸断されたものとして、たまさかに現象するだけのものとなっている。現代のわれわれの身体は、多くの場合に、無数の消費的な権力関係、ミシェル・フーコーの言ったような微細な権力が織り成す場として存在しているのにすぎない。そういうところで、新しい歌の作者にとって「自然」の歌はどのようにあらわれて来るのだろうか。再び逆のベクトルのところで、われわれがリルケのような方法と出会うことはないのだろうか。そのための導きの糸として高安国世の作品を読み直す道も開けているのではないだろうか、ということである。

経験に依拠する仕方について

 小川国夫に『漂泊視界』というタイトルの随筆集がある。その「後記」にこんなことが書いてある。
「最近、私は或る青年の小説原稿を読んだ。自伝的な作品で、かなりな出来栄えであった。ことに描写が優れていて感心したが、気に懸る点がないでもなかった。で、彼と会った時、次のように批評した。
――あなたの小説には美点もたくさんあるが、不徹底な印象が残る。それはなぜかと考えて見るに、あなたが自己形成の跡を追体験し人生の意味を問い直そうとしているのか、或は、自己の体験を基にして自分の外に作品を創り上げようとしているのか、ということが不明だからだ。勿論そのいずれかにスッパリ分けられるものではないが、自伝的な作品を書こうとする場合、この二つの行き方を両極として意識することは必要だと思う。」
 一九七二年、冬樹社刊の小豆色のクロース装の書物である。右の言葉は、「あなたの小説」というところを「あなたの歌」という言葉にかえて読めば、そのまま或る種の短歌作者にとってヒントとなる言葉ではないだろうか。
 さて、前者の例になるかどうかは知らないが、今ふっと思い浮かんだのが、東峰夫の自伝的な小説『ちゅらかあぎ』である。沖縄から出て来た青年が、製本屋に就職して安い給料で働くのだが、そのうちにいやになってやめてしまい、それでも気に入った本を読んだり、日雇いのような仕事をしながら、好きな文章を書くことはやめないでその日暮らしを続けている、というような内容の、わびしいけれど不思議とさばさばした自由な読後感が得られる作品である。
 後者の例としては、最近読んだものの中からあげると、河出文庫の田中小実昌初期短編集『上陸』がおもしろかった。作品には、いかさま占い師の手伝いをしたり、港湾労働者の仲間になって危うく戦争中の朝鮮半島まで連れて行かれそうになったりするその日暮らしの若者の生活が描かれているが、細部に作者が実際に体験したことが投影されていると感じる。でも、あまりにも内容が荒唐無稽なので、一篇が「ファルス」(坂口安吾)だということがすぐにわかる。ここでの作者は、いったん「私」を放り捨てているのである。 むろん小説の約束事と短歌の約束事は異なっている。
 小説における私性ということについて、江藤淳が『昭和の文人』の中で、はっとするようなことを書いていた。
 「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」というのである。
 たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。それは江藤によれば、日本語の物語の構造に由来するものなのである。
「それはやはり、秋聲や谷崎が、小説はいかに仮構であれ『嘘』ではなく、人間と人生についての『真実』を語らねばならず、しかも日本の作家である以上それを日本語で語らなければならないということを、よく心得ていたからであった。」というのである。
 ここで批評は、日本語の文法と統辞法に由来する、自己の体験について語ることの容易さと困難さに向き合うことを求めている。

描写と説明について 

  ①自己分析のてだて

 散文の理論を、短歌の分析や実作に役立てることはできないか。以下にもっとも簡便なかたちで、その一つを示す。これは私が短歌の作り方を人に教える時にやってみて、評判が良かったものである。
 散文の文章には、大きく分けて「描写」の文と「説明」の文がある。例文を示す。
 昨晩私はよく眠れなかった。
 それは次の日の会合が気になっていたからだ。
 この二つの文のはじめの方が「描写」で、あとの方が「説明」である。「説明」は、短歌に応用する場合には、「感慨」と言い換えてもよい。つまり、前者の一文が客観的だとしたら、後者の一文は主観的である。基本的にこのふたつのタイプの文章を織り混ぜて日本語の散文は書かれている。近代小説の典型とされる芥川龍之介の「羅生門」などにおいては、「描写」文が中心の段落と、「説明」文が中心の段落とが明確に区別して書かれている。
 文末の表現としては、前者が「~た」に代表され、後者が「~のだ、~のである」に代表される文法的な対照がある。
 これを「日本作文の会」では、作文教育の現場での応用がきくかたちで、理論化している。具体的には小学校の低学年までを「第一指導段階」として、その段階での「記述=叙述の指導」について、日本作文の会のテキストでは、次のような解説がなされている。
 〈そのときのものやことの姿とうごき、事実と事実関係、そのときのものやことのようす、他人のうごきやことば、自分の心理の内面のことをよくふりかえり、よく思い出しながら、これを「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」といいおわる日本語の単語(述語)を選び配列しながら「文」をつくっていく、その「文」をかさねて、部分の文章をつくり、さらにすじのとおった全体の文章をつくっていく指導をする。
 ただし、文章の部分部分のところで、「ことわり」としてのみじかい説明を、そのつどそのつど、いれる必要があるときは、「です、ます、のです」「だ、である、なのである」といった「現在・未来形」を用いた「文」でかくことについての記述指導も、この段階ではしていく。〉
右の教師向け解説文のひとつめの段落が、「描写」文についてのもので、「ただし」以下の段落が、「説明(感慨)」文についてのものである。日本作文の会で「ことわり」と呼んでいるものと、私がこの小文で「説明」の文、または「感慨」を示す文と呼んでいるものはほぼ同じである。私はここではあまり厳密さをもとめる必要を認めない。ひとつの考え方として、おおざっぱでいいから、右の「描写」と「説明」という二つのタイプの「文」はちがうのだということを読者に認めてもらえれば、それでよい。
 さて、短歌の場合はどうなのかと言えば、すべて「描写」と「説明」のふたつに分けてしまうのは、粗雑にすぎるだろう。短歌では、純粋に客観的な「描写」文というのはほとんどなくて、大半の「描写」文が、「説明」的なニュアンスを持っていると言っていいだろう。にもかかわらず、二つのタイプの文の占める割合を比較することによって、ある作家の変遷や、一冊の作品集の傾向を最大公約数的につかむことはできる。また、自己分析にもこれを役立てることができるのである。

  ②「~のだ」による私語り

 岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈説明〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
   雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。
 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。
   天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。」
 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。
   無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)
 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈説明〉文なのである。

陳述について 

  ①「がある」と「である」

 回り道になるが、先に「描写と説明について①自己分析のてだて」の節で言及した「ことわり」という用語の意義について、私なりに、ここでは和辻哲郎の言葉を引きながら理解を深めてみたいと思う。「ことわり」というのは、筆者が、提示された事実について、その「わけ」を説明する文章をそう呼ぶ。基本的に自分が「分か」っていることを、説明するのが「ことわり」の文章である。さて、
 「我々の国語によれば、理解を云ひ表はす語は『分かる』であり、理解せられた『こと』は『ことわり』であり、理解し易く話すのは、『ことを分けて話す』のである。(略)理解せられる以前にはそれはまだ分かつてはゐない。だから『わけ』は分かるべき構造を持つた統一である。(略)『分かる』のは統一の自覚である。従つて分離自身に本来の統一が現はれる。その明白な云ひ現はしが『である』である。SはPであると云はれるとき、SとPとに分けることが既に両者の本来の統一の自覚であるが故に、両者は『である』によつて結合せられるのである。」     (『人間の学としての倫理学』第二章、十四)
 これに対して、「がある」の場合は、右のようなことわりを必要としない。「がある」には、漢語の「有」が該当する。
 「(略)有るところのものとは手の前にあつて使へるものの謂に他ならぬ。(略)有の根底には必ず人間が見出される。金が有るとは人間が金を有つのであり、従つて金は所有物である。」                            (第一章、四)
 「例えば『Sがある』といふのはSについて陳述しつゝ人間がSを持つことを云ひ現はすのである。だから、陳述に於ては、人間の存在はすでに先立つて与へられてゐる。陳述とはこの存在をのべひろげて云ひ現はすことである。のべひろげるに当つてそれはさまざまの言葉に分けられ、さうしてその分けられた言葉が結合せられる。」 (第二章、十四)
つまり、「Sがある」という物事を、「SはPである」と「事(言)分け」することが、「わかる」ということなのだ。和辻は、「がある」を「である」と区別して思考を展開しながら、西洋の諸学を日本語で咀嚼してみせた。この「がある」と「である」という用語の区別は、現代の論理学の概説書でも触れられていることだ。和辻の説明から、私は文章論における〈描写〉と〈説明〉という用語の対立の構造を浮き彫りにしながら考えるヒントを得た。
・「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる。」
・「陳述とは人間の存在の表現に他ならなかった。然るに人間存在とは、間柄に於ける行為的連関である。」
・「『云ひ現はし』即ち陳述は根源的には間柄の表現である。(略)間柄の表現に於ては、身振りや動作の場合でさへも、その間柄がすでに先立つて与へられてゐる。」 ここで右の引用の「陳述」を、「書くこと」とか、「作歌行為」というように置き換えて読んでみる時、にわかに和辻哲郎の言っていることの意味が生動してくる。「間柄」というのは、和辻によれば「生ける動的な間であり、従つて自由な創造を意味する」ものである。
                                 (第一章、三)
文章も作品も、「間」において書かれ、発表される。それは間柄に於ける行為的連関であり、また、それを書いたり、発表したりする話者の「存在の構造を」「そのまゝ」「映し取つてゐる」。この「映し取」るという言い方が、なかなか魅力的ではないかと、私は思うのである。

  ②日本語による陳述とは

 前回の和辻哲郎の引用から、さらに一歩を進めて考えてみる。和辻によれば、「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」のである。これを少々強引にだが、以下に敷延してみよう。
 ここでいう「陳述」を、近代短歌における「写生」という用語に置き換えて考えてみたい。われわれが今ここで、花なら花を「写生」するとしよう。そこでは「写生」をすること自体が、すなわち「われわれ」の「その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」ことになっているのだ。つまり、「描く」ことによって、「間柄に於ける行為的連関である」私の姿は、無条件にあらわれてしまうということなのだ。それも日本語という母語を用いて、同じ社会の圏内に住む者として、そうあらしめられるのだ。もちろんこの先に、どう描くのか、という問題があらわれて来るのだが、それにしても、描いてしまった時点で、それが、すでに「間柄の表現」として成立しているという認識は、「個性」的なものを重んずる近代的なものの言い方に対して、なにほどかの批評をはらむはずである。もっとも右のような言語・社会の理解の仕方は、和辻の『倫理学』が人間の本源的な善意の成立への信頼に立脚するものであることに由来するように私には思われるが、そのことから必然的に、和辻は楽観的にすぎると言う見方も出て来るのかもしれない。ただ、もう少し砕いて言うと、「陳述」の際に、われわれはもっと「陳述」そのものを信じていいのだ。私は和辻の哲学をそんなふうに、この日本社会に生きる者への励ましとして読むことを薦めたい。
 さらに和辻の言ったことを思い出して考えてみよう。われわれ(日本語を母語として用いる者の)の、モノの述べ方(認識のありかた)には、「がある」と「である」がある、と和辻は言っていた。大きく言うと、短歌作品においても、
 S(主題となっているもの)がある。
という歌と
 Sは、P(述語的要素)である。
という歌との区別が可能であるように私は思う。この作者には「がある」の作品が多いな、とか、この作者は「である」ばかり言っているな、というように当たりをつけることから始まって、自分自身の作品の自己批評に、この考え方が応用できはしないかと私は思うのである。一つのS(歌にしたいもの)を、「それがありましたよ」と言う歌と、一つのSを、「そのSを私はこういうものとしてとらえますよ」と言うこととは、感情的存在である人間にとって、同時的で切り離せないものなのだが、これを文として言いあらわす場合には、この二つの間には、大きな構造的な違いがある。そうして、日本語の大きな特徴は、もちろんイットを用いることなく、「Sがある」と言い得るところにあるのであって、たとえば日本語の文芸の世界における最大の「S」は、季語であろう。これに歌枕なども加えてみてもいいかもしれないが、それはさておき、或る季題「S」を「言分け」「事分け」るのが、有季俳句である。そこで「SはPである」と「ヒネる」ことになる。何よりもまず、季節の王様とお姫様Sが、先立って大切なものなのであって、それに凡百の人間が何かを付け加えるのは、恐れ多いことだ。僭越なはからいごとだ。だから、自分を卑下して「ヒネ」るなどと言ってみせる。その根底には季節への敬意があるのだ。


短歌と日本語による〈私〉の語りについて 2

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
承前

伝統と「共同制作」的なもの 18
村田美穂子の『体系日本語文法』から 21
中川久定の一文から 24 
「私」と「自分」ということについて 26

伝統と「共同制作」的なもの

 山本健吉著『古典と現代文学』昭和三五年刊、昭和五八年二九刷の新潮文庫を古書店で見出す。固い内容なのによく売れた本のようだ。それが今は講談社文芸文庫に移り、もとの新潮文庫版は絶版となって古書価格百円也。山本健吉と言うと、どちらかと言うと保守的な美意識の持ち主というイメージがあるが、そんなことはない。山本の師、折口信夫が保守的なようでいて、実は根底的な部分で極めて革新的であったのと同様に、多く師説を祖述した山本の論説は、今日読んでみると実に刺激的であり、示唆に富む。何よりもモノサシが大きいところがいい。
 「昨年十一月、T・S・エリオットが、ウェストミンスターのセントラル・ホールで、『詩における三つの声』という講演をやり、そのリーフレットが刊行された。(略)これは詩劇についての考察であるが、詩における三つの声とは、第一には詩人が自分に向ってのみ語りかける声であり、第二には詩人が多少を問わず聴衆に向って語りかける声であり、第三には詩人が劇中人物を創造して、その人物が他の人物に話しかけているという限界内で、自分の言いうることだけを言っている詩の声である。この第三の声が、純粋に詩劇の声なのであり、それは日本の詩人たちに、これまで意識され発想されることのなかった声なのである。」
 「…茂吉は、人麻呂的な特徴のなかに、あくまで『全力的』『全身的』と言った個性的なものしか見ようとはしなかった…。その原因は、やはり詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない、日本の詩人の習慣が作用しているのではないかと思う。(略)つまり機会詩(オケージョナル・ポエム)としてしか、詩を受け取ろうとしない考え方である。(略)人麻呂には、女の形容として『玉藻』『沖つ藻』などを持って来ることが多いが、これについても、茂吉は眼前に、人麻呂がそれを見て写生しているのだから生きてくるのだと言っている。この点からも、写生という観念が、根底において作者の経験した事実の尊重ということ、言いかえれば、詩はその場その場の機械詩として、従ってまた詩は現実の感情の裏づけの上に成立するものだという、暗黙の前提の上に築かれていることがわかるのである。」
 「…はっきり個人の名を冠した作品であっても、偉大なものほど『独創』的であるよりも、『共同制作』的であるのだ。」
 「芭蕉以後、発句が連句から独立して俳句となって以後、俳句は単独では、芭蕉において連句として到達した高さにまで到りえたことがない。」
 ここには「詩」というものが、私の個的な経験を越えたものであるという文学観がある。そうして、文学史における最も輝かしい詩的な達成は、常にある共同的な場において育まれたものだという知見が示されている。ここには巨視的な視野に立った近代批判というものがあるのであって、その文脈において、山本は、茂吉のきわめて近代的な人麻呂観と、それを支えている写生説を批判するのである。
 日本の詩人の無意識の癖が、「詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない」習慣だというのは、短歌にかかわっている者が傾聴すべき意見であるように思われる。そのうえで、では山本の言う共同創作的な契機とは何なのだろうと考えてみることも無駄ではないように思われるのだ。

村田美穂子の『体系日本語文法』から

 高校の古典文法は別として、義務制の学校教育においては、ますます文法教育が軽視される傾向にある。従来の学校文法が破綻しているにもかかわらず、文科省がその取り扱い方を変えようとして来なかったためである。読むことにも書くことにも役に立たない死に体の学校文法のかわりに、日本語教育に携わる人たちは、実践的な文法理論の構築を始めている。中でも日本語教育に携わりながら、実際の日本語の在りように即した理論を自前で構築しようとしている人たちの成果には、目を見張るべきものがある。
 私は日本語の〈語り〉に関する論考のななかで、江藤淳の次の言葉を要約して引いた。
 「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」。たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。これは日本語の物語の構造に由来するものなのである。                        江藤淳著『昭和の文人』
 右の江藤の所論を裏付けるものとして、私は村田美穂子著『体系日本語文法』を推したいと思う。長くなるが同書から二箇所ほど引用する。たとえば、文語の〈過去〉の助動詞「けり」は、次のように説明される。

 「「けりkeri」は、動詞「来」の連用形(名詞形)(き)に動詞「あり」の下接した「きki」+ありari」に発したとされる。「あり」は〈ありさま〉を表す仮面動詞で、現代語の「ある」と同様、発話時に目の前にあって「見えるもの」を専門に表した。「けり」は、放置したままの記憶がにわかに話し手のなわばり内に現れて目の前にあるという実感を表す形であったと考えられる。これが、「けり」が詠嘆を表すとされる根拠である。「見えるもの」はすべて、話し手の発話時に属しているからである。しかし、「けり」が過去を表すと考えるのは印欧諸語の文法を学んだことによって「過去」という概念を合理的とした短絡なのではないか。 (同書P48)

 同書の終章には、次のように日本語と印欧語との違いが概括される。

 「〈もの〉ということがらの素材を中心に考える本書の分類に従えば、日本語は文脈と場面に応じた個人的な実感をそのまま反映するヒト中心の言語、印欧諸語は大局的な普遍性を疑わないモノ中心の言語と言えるだろう。
 渡辺実は、日本語では「わがこと」と「ひとごと」が文法的に区別されると指摘し、同時に、印欧諸語ではすべてが「よそごと」的に扱われると指摘している。なるほど、モノ中心の言語は「わがこと」も「ひとごと」もなく、すべて「よそごと」として述べる言語なのである。
 「わがこと」は「私は嬉しい」と言えるが、「ひとごと」は「花子は嬉しい」と言えない文法的な制約を、日本語を学ぶ外国人は「impossibleありえない」などと言うが、なぜ自身とは別の肉体を持った花子の感覚や情意が自身について述べるのとおなじ形で表せるのか。そのことのほうを、日本語の文法は「impossible」とする。日本語による情報は、その場における、その話し手個人に帰するものなのである。(略)
 日本語の文に文法的に要求されるのは、その情報が話し手自身に関係のあることがらか否か、情報の鮮度は、出どころは、聞き手との情報量の差は、そして話し手は述べた情報のどの部分にどの程度の責任を負うかという表し分けである。(略)このような言語を、その話者、つまり日本人自身は、文法がないと誤解しやすい。しかしそれは、印欧諸語の文法が日本語に当てはまらないための誤解である。」        (同書P313、314ページ)

 だから日本語では、 特に文学的な言語においては、どんな客観的な描写でも語り手の「私」の翳りを帯びる(「私」が投影される)ことになる。日本語において話者の表情は極めて豊かなのである。
 この点を戦後の一時期に「日本的なもの」への自己嫌悪にかられた人々は、日本語や日本的精神は、科学的性格と歴史的認識に欠けているとして批判した。しかし、この言語の持っている性格をよく認識して、印欧諸語との相違を自覚しながら文法や日本語による論理の精緻化と深化を図っていくなら、 われわれは〈近代〉の負性を根本的に克服しながら次の表現線の開拓に向かって進んでゆくことが可能となるだろう。

中川久定の一文から   

 偏西風の蛇行に起因するという記録的な猛暑の夏、自分が過去五年間ほどの間に書いた文章を編集し、同時に職場では、溜まった過去の文書ファイルを選別して不要なものを廃棄する作業を続けていた。そうしたら「創文」という出版社のリーフレットが出てきた。その中に中川久定の一文があった。「日本語による哲学 西田幾多郎をめぐって」という二段組四ページの文章が発表されたのは、一九九四年の十一月。リーフレットの巻末の広告をめくると、『西田哲学 没後五十年記念論文集』の広告が見えるので、これに関連して書かれた文章だということがわかる。
 中川は、日本語における「述語」の第一次性(逆にフランス語における「主語」の第一次性)を確認したうえで、西田の「SはPでなければならない」という言い方について考察を進めてゆく。西田哲学は、述語が第一次性をもつ日本語の構造を前提として成立したものである。オギュスタン・ベルクは、『空間の日本文化』の中で日本語の特徴を次のように規定している。日本語は、フランス語のような「人称的、ないし主語中心的、自己中心的言語」ではなくて、「非人称的、場所中心的言語」なのである、と。
 
 「西田によれば、「我とは主語的統一ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」という(「場所」)。」
 「(略)判断が、自分を越えた「場所」の側から自分に迫ってきているという感覚、あるいはニュアンスとともに、この判断を表現するとすれば、次の文例が可能であろう。――「SはPであると(と私には)思われる」。」

 この断章によって私が何を言いたかったのかというと、斎藤茂吉の「実相に観入して自然自己一元の生を写す」という言葉は、深く日本語の構造に由来する詩論だったのだということである。それはむやみと神秘的、非合理的な主張であるのではなかった。それは先述の最新の日本語文法論からも、和辻倫理学や西田哲学などからも跡づけることが可能な、近代日本人が生み出した、日本語による詩の方法の象徴的な表現だったのだと、今なら言うことができる。

「私」と「自分」ということについて

 「私」が確立された「近代的な自我」などではなく、高度化した資本主義社会の中で、さまざまな広告宣伝情報に突き動かされながら、商品やイメージの消費への欲望を日々刺激され続けているだけの受け身の存在なのだということを自覚した時に、とりあえず「私」は「自分」というものであるだろう、という所までは確認できる。日々「自分」を編成し直してやっているから、自己実現を第一とする近代的な「私」としては、完全に圧伏されながらでも組織の中で働く事ができる。(一方で働くことは、自己を社会の中で生かすことにほかならないから、つらくても無意味ではない。)
 さて、短歌をひとえに「私」語りの文学だと言うと、「近代的な自我」語りの文学のことという勘違いが起こってくる。それで、そのとんがった「私」を、もう少し現実のすり鉢の底にすり潰して、短歌は「私」の文学であり、同時にまた「自分」についての文学でもあると言ってみたら、われわれの日常の感覚に近くなるのではないだろうかと私は思う。
 ここで言う「自分」は、「みづから分く」とも「おのづから分く」とも読めるものである。この「おのづから」を手がかりとして、日本の文芸の場所的な性格を考えることができそうだ。
 そうして、詩歌の解釈も、日本語では「おのづから」生ずるものなのではないか、と思われて、日頃の自分の文章について苦笑しつつ思う。
 市倉哲郎の『和辻哲郎の視圏』(春秋社)という書物を読むと、和辻の仕事を語ることを通して市倉が行っている戦後批判が、なかなかおもしろく感じられる。市倉は和辻の『倫理学』について次のように述べる。

 「日常世界に埋没することが重要なのではない。ハイデガーでも同じであるが、日常を非日常的に生きる覚悟が大切なのである。あるいは、無意識的に実現している通常の状況を、絶えず非日常的な決意をもって生きることが、といってもいい。」 (一六九ページ)

 詩歌の作者というのは、究極的には、こういう覚悟を持って自分の場所を生きているのではないか。眼前の対象を感受し抜くことによって、個我はそのつど編成し直されたかたちで現れるのである。同じく「間柄」の中に生きながら、単に奴隷であるだけの生き方と、そうではない生き方との間には違いがあるはずだ。もともと探さなくとも、「自分」はここにいるのである。それがわからないから、自己発見などという吹けば飛ぶような目標を掲げることになる。年齢を重ねれば重ねるほど、それは恥ずかしいことになるのである。



短歌と日本語による〈私〉の語りについて 3 

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
 Ⅱ
土屋文明歌集『六月風』 27
片山貞美・文語短歌の高峰 30
吉田 漱、幾度の挫折 32
大島史洋著『言葉の遊歩道』 34
中野重治の『斎藤茂吉ノート』 35
  Ⅲ
桂園派という補助線・短歌と自然 37

    Ⅱ
時に剛直に、また豊けく・土屋文明歌集『六月風』

 歌集『六月風』には、昭和十年から十二年にかけて発表した五六六首を収める。中では、社会主義運動にかかわって死んだ教え子伊藤千代子を悼んだ歌や、二・二六事件を詠んだ歌などが、よく知られている。
  まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
  降る雪を鋼条をもて守りたり清しとを見むただに見てすぎむ吾等は
 二首めの下句について、近藤芳美は「無論反語であり、ひそかな、激しい忿怒が無力の自嘲と共にうたいこめられている言葉なのであろう」と書いた(『鑑賞土屋文明の秀歌』)。二首とも上句は五七五で定型の枠に収まっているが、下句は大幅の字余りとなっている。一首めの四句めをシェイクスピア劇の俳優のように早口で読むと、ここに作者の激情がほとばしっていることがわかる。二首めは、「清しとを見む」、「ただに見てすぎむ」と繰り返し言って、無理にも一つの断念に向かって内向してゆこうとする精神の屈従のさまを映し出している。ただの字余りではないのだ。
  言直き古の代も時の力をあからさまに罵りし言は伝へず
 これも大幅な字余りが見られる歌だが、言いたいことがありながら、あえてそれをこらえるニュアンスを暗黙のうちにこの字余りが伝えている。「古の世も」の「も」は、今「も」あからさまにものが言えない時代なのだという意味である。
一集の末尾に近いところには、朝鮮の金剛山に旅行した際の歌六八首がまとめられており、これは後の『韮菁集』の達成を予告するものとなっている。全体に占める旅行詠の割合が高く、また数多くの植物が詠まれていて、その執着ぶりは徹底している。
  すみれ細辛の白き花びらにほのかなるみどりの色のながるかなしも
 八八五七七。「すみれさいしんの/しろきはなびらに/ほのかなる」とだけ読むのではなくて、その下に、「すみれさい/しんのしろき」という句またがりを重ねて読むと、上句のスピード感が増して感じられる。こういう句法上の実験は、前歌集『山谷集』以来続けてきたものである。あとがきで作者は、この歌集の「乱調」ぶりを言うのであるが、後の歌集『韮菁集』を思えば、これは謙遜の辞というほかはない。むしろふてぶてしいほどの作家精神の持続を読み取るべきであろう。
  岩むらは冬の林と見るまでに天にそばだつ夕雲のなか
岩は岩を閉づると見ゆる山の間を落ち来る水に一日そひてゆく
「見る」と言い、「見ゆる」と言いつつ伝統和歌の見立てをこえた把握の仕方がここにはある。これはそのつど掘り出された一回毎の「言葉」を介して「もの」を見ているのであって、ただ「見ているもの」を「言葉」にしているのでは決してない。ここには、近代短歌の最良の要素があるのだ。 (「短歌現代」二〇一〇年十月号)
  ※「すみれ細辛」は花の名である。一箇所訂正しておく。
 

片山貞美・文語短歌の高峰

 多くの公共の図書館の検索で片山貞美の名前を探すと、『吉野秀雄の歌』が出て来るだけで歌集は所蔵されていない。これは残念なことだ。全歌集が欲しい歌人である。土屋文明はその座談『歌あり人あり』で聞き手の片山に向かって、「われわれの時代のものを、次の時代の人がなんにも引き継いでいかなくても、それは当然だろう」と言い放ってみせた。この言葉は、場合によっては旧派として滅ぶことも辞さぬという自信と覚悟のほどを示したものである。
 短歌のジャンルにおける文語の使用と、漢文的な教養へのこだわりは、その両方が、戦後の大きな社会変動の中で揺さぶりをかけられた。清水房雄は、その著書『斎藤茂吉と土屋文明』の中で、土屋文明という人は、漢文的な素養が自然に身についた時代の最後の人であろう、と言っている。それになぞらえて言うなら片山貞美らは、そういう漢文的な教養を敬慕し、かつ自らとは異質な新時代の修辞に対抗するための拠り所とした最後の世代と言っていいのかもしれない。
 片山の作品には、文語短歌の持つ格調と様式美へのこだわり、それからそうした文体によって形を与えられる倫理がある。それは、徹底した外界と自己の内面への観照を通して、あくまでも作品の一首一首の文体や、語法上の工夫の上に表出される生の表現なのであり、その意味でどの一首も、自然や身体の一回性と、時間の偶有性への覚悟に支えられている。
 片山の言葉には、「風」や「耳」を彫刻しようとした美術家たちの作品のような風情がある。漢字が象形文字であることと類比的に、この人の歌は一首の言葉の連なりのあらわれ(相貌)において、あたかも粘土か石のような塊(かたまり)感を持っていると私は感じる。次の歌を見ると、実際にそのようなことを思いながら、歌を作っていたことがわかっておもしろい。
  しが歌に何を欲りすと巌石のごとき風体を われは欲りすと 『鳶鳴けり』より
この歌は椎名恒治が、「地中海」二〇〇九年二月号に書いた追悼文(ネットで見ることができる)に引いている。一読を勧めたい。
  見下ろせば底ひあをあをゆらぎたつ流れの外は雪の氷りぬ    
 雪分けて雨降山に辿り着きぬ北遠く秩父南に道志
 雪山のさがれる陰に雪まぶれなるありて田畑を分かず
 片山貞美の山の歌は実にいい。相当な高齢になるまで登山をした人であったようだが。
  羊歯の葉のそよぐ岸べに土こぼれ佐々木喜善が石ばしら墓
 芭蕉の葉舷の如く濡れぬると称へし人も死にてはるけし    『魚雨』より
 「石ばしら墓」という、ざらりとした男性的な響きを持つ語による把握には、強い喚起力がある。その次の歌の「舷」という一語もまことに効果的である。漢文について文盲に等しい戦後世代には、もうこういう歌は作れないのではないかと思う。片山の歌には、「モノ」に「情報」の網目がかかっていない時代の良さが強く感じられる。繰り返すが、「モノ」の手触りがそのまま言葉によってつかまれているようなところがある。そのような目の働きがある。現代人が自己を回復するための燃料のようなものが、ここにはないか。
(「短歌現代」二〇一〇年二月号)

大正十一年生まれの歌人吉田 漱、幾度の挫折

 吉田漱については、田井安曇が『現代短歌大事典』に簡潔に記述している内容が、知己の言と言える。リアリズムから前衛短歌まで、戦後短歌史の激動の一時期を近藤芳美と岡井隆に並走した。筆まめで調査好きだった吉田には、芳美、文明、憲吉、茂吉に関する多くの著書がある。しかし、時間をかけて準備していた土屋文明『韮青集』の研究は、まとめぬうちに逝ってしまった。
 美術家の息子として東京に生まれ、岡山大学に勤めた吉田は、専門の浮世絵の分野で河鍋暁斎研究会会長をつとめたことが示すように、幅広い問題関心を持っていた。あまり人に知られていないところでは、利根光一の筆名で『テルの生涯』というエスペランチストについての伝記を書いている。この本には、吉田の独自な戦争へのこだわり方があらわれている。
 合同歌集『未来歌集』には、印象的な相聞歌が数多く見られるが、吉田も例外ではない。次に引く歌は、初読の際に衝撃を受けた一首であるが、いま読むと素朴な作りの歌だと感ずる。感情が直接に吐露された官能性の濃い歌と言うべきだろう。
  眼を閉ぢてこの戦慄に堪えゐれば近々と汝のすべてが匂ふ   『未来歌集』
 昭和三一年に出た第一歌集『青い壁画』は、筑摩書房の「現代短歌全集」第十三巻に収録されている。戦後世界を生きる青年の病苦と憂憤の思いを清潔に歌った歌集である。
  戯れにカロッサの泉と名づけしが早や冷えびえと昏くなり居り    黙然と汝のベットに寄りおればいつか目をあきて見つめて居たり
  幾度か眼を冷してはもどる部屋書類が一せいに吹きなびきいる
  いくばくの要求にあらず集うとき装甲車何度も列をよこぎる     『青い壁画』
 政治的な行動者として現実に闘う歌が、この歌集には多く収められている。社会的な現実の歌い方については、近藤芳美に学ぶところが大きかった。
 一九八二年刊の『FINLANDIA』は、あとがきによると、一九五五年から六三年にかけての歌を収めている。作られてからまとめられるまでにずいぶん間のあいた第二歌集である。象徴的な歌い方のなかに悲痛な思いを詩的に昇華して表現している。今日再評価に値するのは、この歌集ではないかと、私は思う。後半の失意の著しい歌にも、共感を誘われるものがある。
  ちぎりたる紙片にいくつ呼び名かくなお昏々とねむれるかたえ
  くらき海その子の四囲よりしりぞきてめぐりささやきにみつ地の上は
 われら父母をなお見えぬままフロラの季、花ひらくまでは保たぬという
 首垂れし子をいだきつつ登りきて渡らねばならぬ綱光りみゆ
                              『FINLANDIA』
 子の生誕をめぐる一連は、神話的な澄明な喜びの光をもって始まり、一転して難病の子をみとる悲歌へと連続してゆく。 (「短歌現代」二〇〇九年四月号)

大島史洋著『言葉の遊歩道』

大島史洋著『言葉の遊歩道』(二〇〇四年七月・ながらみ書房刊)は、小学館の『日本国語大辞典』の元編集長にして、「未来」の選者でもある著者のエッセイ百篇を集めた本である。雑誌「短歌往来」に足かけ十二年にわたって連載されたものだから、一部を目にしたことのある読者は多いかもしれない。こうやってひとつにまとめられてみると、国語辞典関係者らしいこだわりのある文章が多い。けれども、筆者は自分のそういう職業的な関心を前面に出してものを言うことを、むしろ避けてきたように思われる。私は、歌人大島史洋が一語を選択するまでにどれだけの嵩の知識をかいくぐっているかを本書によって示されたように思う。また、筆者の語彙についての談義は、自然と短歌の作り方の勘所のようなものに触れるところがある。たとえば、「なずき」という文章の末尾に、「肝に銘じる」とか「胸にきざむ」といった表現が、なかなか短歌の中には取り入れにくいということを書いたうえで、「そこで少しずらすわけである。こんなふうに。」と言って次の二首の歌を実例として引いてみせる。この引用歌が、実に大島さん好みなところも楽しい。
  雨の粒点ちそめし砂を踏みゆけば肝にひびきて射撃音する   田谷 鋭『乳鏡』
  騒客のわれもあはれにわかき日のもののなやみを額に刻みぬ 吉井 勇『酒ほがひ』
 そうして筆者の土屋文明や「アララギ」への日頃からの興味と関心は、「解良富太郎の歌」といった文章の味わいとなっている。解良富太郎は、東京帝大法学部の助手となったが、たぶん結核のため昭和十二年に亡くなった歌人である。土屋文明はその遺歌集を編んだ。当時の切迫する時局の中で、解良富太郎は次のような歌を作っている。
  たたかひは文化の母とふその言葉肯ひ難く吾は思へり 解良富太郎
 この歌の前に「昭和九年十月、感あり」と詞書がある。筆者が調べてみると、この年の十月に陸軍省が出したパンフレットの冒頭にこの言葉が来るという。文明が「用心」して彼の歌集を編んだと別のところで歌ったわけはここにあったのだ……。本書は言葉を楽しみながらものを読む方法を教えてくれるのである。      (「短歌四季」)

中野重治の『斎藤茂吉ノート』

 最近、知人と中野重治の『斎藤茂吉ノート』の読書会を行った。その際に岡井隆の『斎藤茂吉と中野重治』を取り出して熟読したのだが、その緻密な論の展開にぞくぞくするような喜びを味わった。中野の「ノート」(以下、略称)は、なかなかの難物で、特に書き出しの部分がわかりにくい。岡井の著書は、読みにくいこの本に参入するうえで最良のガイドブックとなるだろう。未読の場合は、先に「ノート」四、五、六あたりを拾い読みしてみてもいい。
 『斎藤茂吉ノート』の功績の一つに、伊藤左千夫の価値を「アララギ」人の特殊なこだわりの域から開放して、その仕事に普遍的な意義を見出したということがある。それから、茂吉の近代性の現れを、特に性の歌を歌うことにおいて抽象的な抒情を打ち出したという点に求めて、風景の「写生」に極限して理解されがちな茂吉の所説を、本人の意向に反してまで読み替えるという大胆で鮮やかな転換を行ってみせたことがあげられる。
 その反面、中野重治は、茂吉の近代性を認めながら、北原白秋にはそれを認めなかった。それから、鴎外の「我百首」をあまり高く評価しなかった。また、近代短歌が培った省略や朧化の表現技法も完全には理解しようとしなかった。むしろ意識的に「わからない」と言って突き放した節がある。
 白秋の評価については、玉城徹が『近代短歌とその源流』などの著書で、白秋の仕事の意義を丁寧に説き明かして、図式的な整理に異を唱えているのだが、白秋が近代的な精神の実現という面において不足があった、という認識は、何しろすでに文学史の定説となってしまっている。私はこの見解を中学校の頃に買った片岡良一の「岩波小辞典」で読んで以来、ずっとそう思い込んで来たのだ。だから、何となく白秋については、天才的な言語能力を持った詩人だということは理解しつつも、どこか軽く見るところがあった。こうした、近代的な自我をめぐる物語が強力な威力を発揮していた時代の文学研究の成果について、われわれは一つ一つ見直して行くべき時代に入っている。
 ただ、中野の白秋に対する評価の低さの一つの要因として、昭和十年代の白秋の社会的な活動が中野の気に入らなかったということがあるだろう。白秋を批判し、茂吉の近代性を評価するということを通して、中野がかろうじて確保しようとしたものは、人間のエロスに立脚しながら、「思想的」であるということの意味だった。中野は転向はしたけれども、思想的である、ということへのこだわりは、捨てたわけではなかった。自分の眼前の対象に向かって、自己の感性が支配し、浸透できる要素を見出しながら、徹底的に対象に即き抜くことによって、書くことがそのまま生きることであるような局面を切り開くこと、それが中野にとっての「ノート」の意味だった。そこでは、文筆家が文筆家として生活する、ということの意味が、一行一行の文章に刻み込まれている。そうして所々に精神的な疲労の色が濃い、水に溺れつつ書いているような鈍い部分があることも事実である。
 独特の諧謔が感じられる一文を引く。
 「女にもてるといふことが一般になく、しかしそのことに慣れてしまふといふことも出来ぬ男にだけ、女に関する恋の歌でない詩が永久に出来るといふことが可能性として考へられるのである。」
 中野が茂吉の「写生の意義の深化」の裏面に見通したものは、ほろ苦い。 (「未来」)
   Ⅲ
桂園派という補助線・短歌と自然

 大谷俊太の著書『和歌史の「近世」』(ぺりかん社)の末尾に富士山の歌を論じた文章がある。武将歌人として著名な細川幽斎が、富士の歌を詠もうと思って、東国に出立する前に下準備をし、古歌を抜き書きした書き付けなどを用意して現地に至ったところ、実際の富士のあまりにも雄大な姿を見て、自分の「才木」(材木、つまり歌の材料)が、「木どり、皆ちがふなり」(言葉が寸法に合わず、役に立たない)と言ったという興味深い話が紹介されている。大谷によれば高峰富士は、普通の旅枕とちがって、近世初頭の歌人たちの前に「実感を重視することが自由」な存在として立ち現れていた。その例として次のような歌が紹介されている。
雲霞ながめながめて富士のねはたゞ大空につもる雪かな      烏丸光広
       (『黄葉集』一二四一) ※二字以上の繰り返し記号は起こして表記した。
 大谷は、この歌について「富士の高根の白雪のみがあたかも虚空に浮かんでいるかのごとくに見えるのを、『大空につもる雪』と捉えた点、実景をほうふつさせる。」とのべている。ここで「実景」と言ったり、「実感」と呼んだりしているものを尊重するということを、江戸時代の歌人たちはすでに歌論として展開していたのだった。その代表と目されるのは、小沢廬庵と香川景樹である。景樹には、次のような富士の歌があった。
ふじのねを木の間木の間にかへりみて松のかげふむ浮島が原 香川景樹
                        「事につき時にふれたる」より
 これを右の烏丸光広の歌と並べてみると、両者の歌には共通するところがあることに気づく。それは、「ながめながめて」と「木の間木の間に」という繰り返しである。東海道を旅しつつ富士を眺めることに伴う情緒の表し方の型として、この繰り返しが出て来ているのである。
半田良平は、右の歌について次のような鑑賞をのべている。 (※以下、散文の引用は現代仮名遣いとする。歌は旧活字のままとし適宜振り仮名を付した。)
「【語義】 「浮島が原」、東海道の原《はら》附近にある平野で、廣重の東海道五十三次の版画にも、ここが書かれている。 〇「松のかげふむ」、原中の道を通って行くと、道の上に映った松の木の影を踏むというのである。 【評言】有名な歌であるが、私はあまり感心しない。第四句の「松のかげ踏む」という句が、巧《たく》みに過ぎて、却って感じを浅くして居る為めだと思う。一首全体としてみれば、印象があまりに明確に失し過ぎて、裏に含むところのないのが難である。
             (半田良平著『香川景樹歌集』大正十四年刊 六五ページ)
 私は右の歌の四句めについて、何ということもない『松のかげ踏む』という句を、なだらかに働かせるところに作者の独創があると考えるので、半田良平の審美的批評のすべてに同意はできない。巧みにすぎる、と言うより、これがなかったら右の歌には何も新しみがないことになってしまう。比較材料として、『新勅撰集』から一首、それから鎌倉時代の中後期の歌人藤原雅有の歌を一首、次に引いてみることにする。両方とも元の仮名のままでは読みにくいので、漢字仮名交じりの表記とする(注一)。
 百首歌に
  足柄の関路越えゆくしのゝめにひとむら霞む浮島の原
                              後京極摂政前太政大臣
   かへりのぼり侍し時、ふじの山をみて
  眺めつつ今日は暮らさむ富士のねの行き過ぎがたき浮島の原 藤原雅有
 「浮島の原」が、富士を詠む際の組題の素材となっていたということが一首めからわかるだろう。二首めの藤原雅有の歌は、すぐあとに浜名で公達たちと船遊びをする歌が出てくるような、のんびりした余裕のある旅である。また、景勝富士を「行き過ぎがたき」思いを持って眺めつつ今日を暮らしたり、「木の間木の間にかへりみ」たりして、通り過ぎることを惜しむ気持を抱くということが、浮島が(の)原という地名を詠み込んだ歌の本意なのだということがわかる。ここから先に引いた香川景樹の歌がどれだけ和歌的な制約を踏まえていたかを見て取ることができる。原と松が取り合わせられるようになったのがいつか、調べてみたことがないので私にはわからないが、東海道五十三次の絵に松が出てくるということも本意の視覚的な表現と考えていいだろう。景樹の歌は、たいていそこを外さなかったから人気も出たのであるし、また一般に迎えられて和歌的な教養を身につけようとする広い階層の人びとに支持されたのである。
 斎藤茂吉は、そこのところを嫌悪して
「彼は、義太夫でいえば『さわり』のごとき一種の心の技法を用いた。これは一種の通俗趣味であり、一種の感傷趣味であるが、これが畢竟一般向であるから、彼の歌風は流行して、遂に天下の歌壇を風靡するに至った。」          (『近世歌人評伝』)
となかなか穿った観察をのべている。しかし、やはり近代短歌と前代の和歌との違いは大きい。本意を踏まえつつ「松のかげふむ」という、誰にでもわかるような、しかも的確な一句を持ってきた景樹の技量を、ここは素直に肯定していいのではないだろうか。また、「巧みに過ぎて、却って感じを浅くして居る」(半田)のではなく、わざわざ「浅く」見えるように作っているところに、この作者の老巧さがあると私は思う。だから、そのことの反面として、確かに半田の指摘するような物足りなさも出てきてしまうわけで、長い目で見ると、そういうことはよろしくないのだ、と茂吉は言った。桂園の歌風流行について、前文に続けて茂吉はこう書いている。 
 「この現象をも彼は調べの説に帰著せしめただろうと思うが、桂園の歌が衰微するとき、回顧して見れば必ずしもそうでないことが分かる。」            (同右)
本意や歌枕の呪縛から解き放たれた者の、しかも党派的反感を抱く立場からの嫌味なコメントだが、もともとが背中から切っているという性質のものであることは否めない。茂吉に感情的に同化して読めば、それなりに満足感を得られる文章なのだが、こういう文章によって、茂吉の論争対象とされた相手は、景樹に限らず、短歌史的にだいぶ割りを食ってしまった。茂吉の散文には、それ自体の持つ一種のリズムがあるから、論理など度外視していつの間にか読まされてしまうところがある。
 最近になって私は、黒岩一郎の『香川景樹の研究』(昭和三十二年刊)という本を見て、自分の不勉強を反省した。同時にはじめて香川景樹らの歌を丁寧に読んでみて、著者が景樹復権のために孤軍奮闘したことの意味がわかって来た。黒岩一郎の名前は、国文学の研究の方に区別されていて、現代短歌関係の辞典には出て来ないが、「アララギ」歌学の呪縛を脱するためには、忘れてはならないものの一つである。またこれは万葉学者の奥村和美氏のご教示によるが、近世文学の中村幸彦による、子規と景樹の歌論を比較対照した論文(注二)も、子規・茂吉の言うところを鵜呑みにしないために見るべきものだった。
 それから、篠弘が『自然主義と近代短歌』(昭和六十年刊)で触れているように、窪田空穂がどれだけ香川景樹の歌論から学んだかを知ると、「アララギ」の系譜の中だけで文学史を知ることの危険性に気付かされる。大岡信の『古今和歌集』をめぐる一連の仕事は、多くの読者を持ったが、「アララギ」系の歌人たちが、香川景樹の歌を読み直す動機にはつながらなかった。
私が読んでみたところでは、景樹の歌のうちいくつかは、近代短歌と並べてみても遜色は無いし、深いところで「写生」の範疇に属するような歌が見られる。現代歌人と同様な人生的詠嘆の表現もあり、まったく古風ではない作品がいくつもある。近代人的な自照する自意識をはたらかせている歌もある。景樹の歌の多くは、題詠をきっかけとしたものでも、実際の体験の手触りを感じさせるものが多い。また、いくつかの歌には、景樹自身が提唱した古今調だけでなく、微妙な新古今的な万葉調も見られて、異風の魅力がある(注三)。大きな違いがあるとすれば、それは古歌を下敷きにする意識の強さのところにあるだろう。
 江戸時代の学問ルネッサンスは、分限にしばられた封建時代の人間の前に、古典という誰に対しても開かれた糧を置いたのだった。現代ほど自由にではないが、景樹の前には、「古今」も「新古今」も「万葉」も等しく摂取可能な対象として見えていたということが、『桂園一枝』を見ているとわかる。
 桂園派という補助線を引いてみると、近代短歌史が別の見え方をして来るのは、おもしろいことだ。私は、最近になって近世の和歌を読みはじめて、江戸時代の歌人たちが、丁寧に微細に観察する姿勢を持って自然に接する作品を数多く残していたことに、遅まきながら気がついた。まったくうかつな事だった。何のことはない。「明星」と正岡子規ら根岸派による「短歌革新」からすべてが始まって、歌についての物の見方がすっかり改まったかのような近代短歌史観は、玉城徹が『近世歌人の思想』(一九八八年刊)ですでに述べていたように(注四)、学校教科書的な文学史によって広められた謬見にすぎない。
 『近世歌人評伝』(昭和七年)に見られる斎藤茂吉の近世和歌の研究は、通り一遍の皮相な仕事ではなかったと思うが、そのかわりに主観的な好悪の念の投影した、その意味でいかにも茂吉らしい書き物だった。同書の桂園派の項を読むと、正岡子規の主張を受け継いで、旧派の香川景樹を徹底的に排撃しながらも、茂吉には景樹が清新な作品を数多く持ったすぐれた歌人だということが良く分かっていたのだということがわかる。その上で悪口を言い重ねているのだから、桂園派の評価に関して、茂吉はかなり人が悪かったと言ってよい。記述にどうしても党派的な情熱が感じられるのである。
 しかし、茂吉が熱烈に「万葉集」を言い続けたことについては、近藤芳美が次のように言っていることが当たっている気がする。
 「斎藤茂吉の作品には、分析して分析しきれない不思議なものがあると云われている。実に下らない事を歌っていると思いながら、歌い方自身に何か人を魅惑するものがあると多くの評者に語られている。それが何によって来たものであるか、茂吉自身は少しもかくさなかった。茂吉はそれを万葉調だと一生云いつづけた。茂吉だけが、万葉集の中から、知識としてでなく、作品の秘密として、何かを学びとったほとんど唯一の現代作家であったのだと云えよう。現代歌人は、一生万葉集の事を云い続けた茂吉の愚直を内心私かに笑い、茂吉の作品の韻律感の秘密にまでは立ち入ろうとはしなかった。」
               (『茂吉死後』昭和四十七年刊所収「万葉集に学ぶもの」)
 現代歌人は、茂吉の愚直を「内心ひそかに笑っていた」というのは苦い認識であるが、「知識としてでなく、作品の秘密として、何かを学びとった」という評価の仕方には、聞き逃せないものがある。近藤芳美の残した言葉には、随所にこういう言い当てた批評がある。
 たとえば茂吉が万葉集から摂取した韻律の問題としてあるように、われわれがどのように古典を読み、何をそこから摂取するのかということと、短歌作者が経験(具体的には眼前の「自然」など)をどのように歌うかという問題は、密接につながったかたちで存在している。伝統的な定型詩である短歌にかかわっている以上、単に写実の方法論を批判しただけで、近代短歌を乗り越えたことにはならないのは、右にのべたような古典の受容の問題があるからである。むしろ近代短歌の中から再び学び直すということも現在のわれわれには必要なことになっている。
 ここで一首だけ半田良平の歌を引く。
  彼岸より此岸にうつり来たる瀬の目にさやさやし冬の川みづ  半田良平
    (歌集『幸木』より 富士川渓谷を経て駿河大宮への一連から 昭和十六年作)
 この歌の持っている繊細で複雑な調べは、「アララギ」系の研鑽とは別のところから出て来たものだ。作者が、王朝以来の和歌や旧派和歌に深く通じていたからこそ可能になった調べなのである。四句めの「目にさやさやし」というのは、水のせせらぎの音と、光の反射するかげんの両方を、ともに言葉に取り込んだような響きを持っている。結句を三四調にして、一首が弱くなりすぎないように引き締めている技巧も心憎い。
 こういった調べのうえでの微差に感応する感覚を磨き続けていないと、短歌という文芸形式は衰微するのではないかと私は思うのである。

(注一)中川博夫翻刻の歴博本『隣女和歌集』(八一二)、(八一三)「鶴見大学文学部研究紀要」二〇〇六年三月刊所収
(注二)中村幸彦著述集「子規と景樹」
(注三)ここでまとめて香川景樹の歌を引いてみることにしたい。未見の方は、多少忍耐のうえ、ただ読むということをしてもらいたい。題は、作品の下に括弧をつけて示すことにする。
  常みればくぬぎ交りの柞原春はさくらの林なりけり          (林中櫻)
  おほぞらのおなじ所にかすみつつゆくとも見えぬ春の日の影       (遲日)
  行く水の末はさやかにあらはれて河かみくらき月のかげかな     (月照流水)
はつ時雨ふりしばかりの跡みえて梢のみこそ色付きにけれ      (紅葉淺)
浮雲は影もとどめぬ大空の風に残りてふるしぐれかな       (風前時雨)
  しぐるるはみぞれなるらし此夕松の葉しろく成りにけるかな        (霙)
  うづみ火の外に心はなけれどもむかへば見ゆるしら鳥の山      (題しらず)
  今よりははとりをとめら新桑のうら葉とるべき夏は来にけり (事につき時にふれたる)
  しらがしのみづえ動かす朝風にきのふの春の夢はさめにき       (同右)
  郭公しばしば鳴きしあけがたの山かきくもり小さめふり来ぬ     (同右)
  池水の蓮のまき葉けさみれば花とともにも開けつるかな (同右)
  ゆふ日さすあさぢが原に乱れけりうすくれなゐの秋のかげろふ (同右)
  思ふ事ね覚の空に尽きぬらむあしたむなしきわがこころかな (朝)
  かぎりなく悲しきものは灯の消えてののちの寝覚なりけり (題しらず)
  灯のかげにて見ると思ふまに文のうへしろく夜は明けにけり (題不知)