さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『山西省』の歌と宮柊二  

2017年01月28日 | 現代短歌 文学 文化
以下は、「美志」十八号(2016.5)に掲載したものである。
            
 今回は、宮柊二の歌集『山西省』の昭和十七年の部分を見てみたいと思います。この歌集は、昭和十五年一月から昭和十八年十二月までの作品を中心として、戦後の昭和二四年四月に刊行されたものです。最初に次の歌を取り上げます。歌集『山西省』の昭和十七年の章の最後に掲載されているものです。

耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

 この歌は、戦後間もない昭和二一年一二月刊の「多摩」に掲載されたもので、そちらを見ると、すぐあとにニューギニヤで自決した米川稔を思う歌が続いて出て来ます。それは「ニューギニヤに妻恋の歌なしけむは如何なる折ぞ亡き君よ哀し」というものです。だから、これは自分が戦地にいる時に米川稔から本を送ってもらったりした思い出と結びついている歌なのでしょう。昭和二一年の初出では、四句めが「個人と戦争をおもひて」となっています(『宮柊二集5』)。確かに「戦争と個人をおもひて」の方が、力が感じられます。 

 ここで右の歌の背後にあった宮柊二の個人的なドラマを紹介したいと思います。それを知ることによって、右の歌の「個人と戦争」という言葉の持っている意味が、明らかになって来るのではないかと思うからです。「宮柊二集」の別巻に「戦中書簡」が収められています。

 その中から後の宮英子さん、当時は滝口英子さん宛の手紙を何通か読んでみたいと思います。四月七日付の手紙をみると、当時の滝口さんは、前年に師範学校を卒業して、新しく教職についていたことがわかります。この人は大正六年(一九一七年)生まれ。東京女高師(現お茶の水女子大)卒。昭和十二年「多摩」入会。そこで作者と知り合いました。宮柊二は、軍隊に召集される少し前まで北原白秋の秘書をしていて、昭和一〇年から毎日白秋の家に通っていました。

 「4月7日の手紙より」 ※引用にあたり、旧仮名を新仮名にあらためた。

 「(略)一生懸命で自分の周囲を見たいと思います。只今私の居りますここらは何度もお手許に書いても差上げたかと思いますが、荒涼な、地味やせ、物産少く、そしてかたよった地域で、支那という言葉によって統合される一つの国の歴史からも文学からも経済からも文化からも遠く切り離されて、そして参与もしなかった地域です。だからと言って迂(う)かつには見たくないと思うのです。矢張り土を愛し、家を守り、親をいとおしみ、日本人の想像を絶つにたる低い生活の中にあるとはいえ、その生活に拠る支那の民衆達が居り、そして私自身が国家の感情と個人の個(ママ)情につながりながら、只今居りますところです。自分の生き方の上に、――大衆から孤立した存在ではない大衆の中の一人である宮という人間の生き方の上に矢張り何かまずしくとも付け加えてゆきたいと思います。

 どう考えたらいいのでしょうか。考える範囲を自分が兵隊であるという中にとどめたらいいか、あるいは御奉公の微力叶って生還を許され社会人となるであろう日までも加えていいか。ごく自然にあり得る戦死ということを考えますといつもそこにつまずきますけけれど。只今は兵隊も人間であり、そしてひとしく日本という国家の国民であるという考えで居ります。こうした考えは実は正直申上げるとたどりついたという感じです。お笑いになるでしょうが、私としてはたどりついたという感深いものがあります。もっともっと「兵隊」であるということと「出征しているのだ」ということを意味つよく、考えつめて見ようと思っています。たどりついた考え方の上に立って更に初めからあゆみ直して。(略)」

 戦地から自分が愛する人にむけて、たぶん、ほとんどいつ遺書になってもいいようなつもりで、手紙を書いています。決死の戦いとなった〈中原作戦〉の直前の手紙です。むろん下級の兵士である宮柊二にこのあと日本軍の大きい作戦があるだろうなどということは、直前まで知らされません。でも、このあとの4月10日の手紙は、明確に作戦のことも知ったうえで、遺書のつもりで書かれています。

 「4月10日の手紙より」
「いよいよに日が近く、兵隊というものの最後の美しく勇しくそして人間としても立派だったという自らの安心を追憶として持ちたいと希うこころを瞬間であるとは云え持たれるであろう日に向って出発つ日が近くなって居ります。何かしらにものさびしく又かすめるように悲しみがきざす時もありますがそれは過去が立派でなかったという自分への例えば罪を洗うようなさみしいこころでありましょうか。それでも只今の私は夜夜を熟睡してそして激しく外面に現わさないでは居られないというようの種類の喜びではありませんが、こころ知ってくれる人達へだけは必ず告げたいと思うほどの喜びをずっと涵(たた)えて居ります。」

 宮柊二はこの戦争で立派に戦って死にたかったのだろうと思います。「喜び」をまで感ずるという、死に向かって澄み切った心境で、ここには嘘はないと思います。

 戦地にあって、死に直面しながら、自分は何のためにここで戦っているのか、ということは、当時徴兵された日本人が等しく考えたところだろうと思います。先に引いた歌とかかわらせて言うなら、「耳を切りしヴアン・ゴツホを思ひ孤独を思ひ」という、芸術家としての絶対的な追究の果ての孤独というものが、彼方の理想として一方にある。芸術の高み、芸術のための崇高なまでの自己犠牲的な生き方。それに比して、今ここで日本国家の意志のもとに兵隊として、死に向かって運命づけられている自分にも、孤独なもの思いというものはある。死の意味というものは、いずれにせよ一人で考えなくてはならないものです。同じ孤独にしても、その境遇は、彼我の間でかけ離れたものだと言えます。

 この歌は、宮柊二の代表歌の一つで、島田修二の『宮柊二の歌』にも取り上げられています。一読して、よく意味はわからないのだけれども、何か強烈に印象づけられるものがあります。それは現代のわれわれが読むと、国家というものの持つ理不尽さへの全身からの抗議の気持ちのようなものとして感受されます。そういうところに自分が追い込まれていることへの叫びのような思いとして感じ取れます。でも、そういう一種の抵抗のニュアンスを感じ取って読むことは、もしかしたら誤読なのではないかという気が、私はします。この歌は、右の手紙の言葉にあるような、理不尽な現実を理不尽なまま受容して、国家のために個人である宮柊二が死ぬことを受け入れる覚悟、そのための眠れない思考の堂々巡りを歌にしていると読むべきです。己の絶望的な状況を、あるがままに観照するという精神的な姿勢。でも、その死を決して無駄だとは思っていない作者がいます。戦争と国家の目的自体を疑っているわけではありません。さらには国家そのものを否定する思想に立脚して、この歌を歌ったわけではありません。そうだったら右に引いたような手紙の言葉は書けません。

 ただ、読者である私たち、戦後の読者は、否定すべきものとしての戦前の軍事国家、帝国主義国家というものの真相が明らかになったあとでこれを読んでいます。この作品が手帳に書きつけられた時と、発表された時、さらにその後の時代との間には、大きな社会情勢の変化がありました。作者はそこに気がついていなかっでしょうか。むろん気がついていたと思います。だから、やはりこの歌集は、戦後の歌集なのです。昭和二一年一二月刊「多摩」掲載、昭和二四年四月刊行の『山西省』に編集して発表。製作当時は、そのまま発表することにはばかりがありました。「個人」という言葉は、自由主義的なニュアンスの強い言葉で、そういう誤解を受ける可能性が大きかったわけです。それで戦後になって発表されたということがあるでしょう。でも、それだけではなくて、歌集にまとめられる際には、時代の状況の変化によって、結果的にこの後作者が生きていく上での意思表明に近い意味も付与されることになった、ということではないでしょうか。この歌が昭和十七年の戦闘の歌の章の末尾に置かれた意味は、そういうことだろうと思います。

 歌集『山西省』の昭和十七年の章には、昭和十六年の五月から六月にかけて行われた〈中原作戦〉に参加した折の経験を詠んだ一連が含まれています。〈中原作戦〉は、華北平原の向こうに広がる広大な黄土地帯で戦われたもので、大行山脈南部に拠点を置いている国民党軍を包囲して、その真ん中に一気に日本軍の部隊を投入して、内側と外側から攻撃をかけて敵軍を殲滅することをねらった作戦で、結果は日本軍の大勝利となったものです。でも、国民党軍が出て行ったあとにゲリラ戦を行う共産党軍が入って来て、長い目で見た時には、あまり得策ではなかったと言われています。

 この〈中原作戦〉に従軍した折の経験をもとにして、「北陲」という著名な一連が作られました。この一連には、詞書が付いています。「部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命にあり。」この一連の中に、宮柊二の歌としては、あまりにも有名になってしまった、敵兵を刺殺する歌が出て来ます。

身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪(たに)下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)までを抑へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづをれて伏す

 この歌は歴史家の鹿野政直をはじめとして(『兵士であること 動員と従軍の精神史』朝日新聞社)、近年の歴史関係の本にも繰り返し引かれるようになっていて(笠原十九司『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』岩波書店など)、あたかもこれが史実であるかのような扱いを受けています。中にはあまりにも疑いなしの素朴な引用(太田治子『石の花―林芙美子の真実』など )も見受けられるので、私はその点について危惧しています。この歌が事実であるか、フィクションであるか、ということについては、同じ中国の戦線に行っていた中山礼治が、指揮班の兵隊が直接敵を刺さなければならないほど現場は混乱して居なかったはずだ、だからそれはあり得ないことだろうと書いています(『山西省の世界』)。あとは、弟子の島田修二がずっと疑義を呈して来ていたという経緯があります。

 これとは逆の意見として、「短歌研究」二〇一二年八月号で篠弘が、梯久美子との対談の中で、宮柊二のお弟子さんたちは、自分の先生が人を殺したということは認めたくないんだ、というように意見を述べています。島田修二の見解については、私も同様な印象を持っていますが、中山礼二の著書については、どう考えたらいいのでしょうか。宮柊二が、戦争中を通じて人を殺したか、殺さなかったか、それは私にもわかりません。しかし、問題の右の一連の作品を根拠として、作者は敵を刺したのだと言うことはできないと、私は思います。

 私はこの歌に関しては、以前「短歌往来」掲載の評論に書いたことがありますが、三人の敵兵を銃剣で殺したのは、その時いっしょにいた軍の兵隊たちだと思います。一人の兵士が一晩のうちに三人の敵を暗闇にまぎれて次々と刺すなどということは、ハリウッド映画でもなければとうていあり得ない状況だと考えるからです。

 問題は、三人のうちの一人を刺したのがやっぱり作者ではないだろうか、ということです。しかし、これについて私は別の見解を用意しています。先行の『支那事変歌集』に、この歌と非常によく似たシチュエーションの歌があり、その歌では人間でなくて軍馬が「声も立てなく」倒れるのです。この高名な一首は、その歌の表現を摂取して作られたものではないか、というのが私の意見です。両方をよく見比べてみてください。

銃弾のつらぬく音し暗闇(くらやみ)に軍馬斃るるは聲もたてなく    中支 藤原哲夫
           『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』(昭和十五年十月刊)

 この件は以前書いたのでここまでにします。この問題の一連の作品は、昭和十七年の五月二日付の滝口英子への書簡に書きつけられています。その日付から、前年の十二月末から翌年の五月二一日まで一時入院加療していた期間に戦闘の経験を思い起こして創作されたものだということがわかります。だから、この一連は、いっしょにいた仲間たちの勇戦をたたえるために完全に事後に書かれたものなのです。その場にいた、という意味での戦場における兵士としての共同意識・戦友意識に立脚して、いかに困難な戦いを自分たちは戦ったか、ということを、当時の言い方で言えば、銃後の読者に向かって訴えたという性格のものです。そういう意味では、まさしく作者も一緒に「刺した」のであろうし、戦友とともに「殺した」のでもあるわけです。そうしなければ自分たちが死ぬからです。そのリアリティ(真実性)は揺るぎのないものがあります。そうしてこの一連は、柳田新太郎編『大東亜戰争歌集 将兵篇』(天理時報社刊)に発表されました。それは、この歌を作った時の作者の意図・意思に適うものであったと私は思います。

 「宮柊二集5」を見ると、初出が昭和十七年七月「日本文芸」となっています。右の一連は、「日本文芸」に最初に発表されたものということになります。そうしてこの一連は、『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中に、昭和十七年中の他の作家の作品といっしょに収録されているのですが、この事について作品の初出を丁寧に収録している『宮柊二集5 短歌初出』に特に言及はなく、また別巻の相当に詳細な著作年表からもこの記録は抜け落ちています。二次的な利用だから初出ではない、と言われればそれまでですが、『山西省』の作品の初出との異同については、小高賢の『宮柊二とその時代』に丁寧な論考がありますが、小高はなぜかこの合同歌集については参照していません。しかし、同時代の多くの読者は、この本によって宮柊二の作品をはじめて知っただろうと思います。

 私はこう考えます。いかにも戦争協力的な色彩の濃いアンソロジーへの参加ですから、これは編者が意識的に排除したのです。明確な戦争協力の印象を与える情報をひとつ消してしまったわけです。そこに「戦後」という時代のひとつの性格が刻印されていると私は思います。見落としは考えられません。こういう微妙な情報操作が、これだけ資料のそろった著作集のある宮柊二の場合でもあるのだということに、私は驚きを覚えます。それは、「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば」という歌を、事実かどうかも判明ではないままに作者の実体験として神話化してしまった歴史意識と裏表の関係にあります。反戦、または厭戦の気持におもねるような、見えない記憶の改変の操作、そこに戦後の公的な思想が持つ人間的な弱さと虚偽が、端的にあらわれている例の一つであると私は思います。ただし私は全集にかかわった人たち、特に宮英子の意思をここで難じているわけではありません。アンソロジーにあるものは載せないという編集方針だったかもしれませんし、あるいは本当に失念したのかもしれません。しかし、単独の著書がある小高賢すら触れない、それほどに『大東亜戦争歌集 将兵篇』は研究されていないということを、この一事が証明していると思います。以下に『大東亜戦争歌集 将兵篇』の一連をすべて示します。 

※このほかにも宮柊二の歌を収録している合同の聖戦歌集は存在するが、収録歌数はこの本ほど多くない。

『大東亜戦争歌集 将兵篇』(天理時報社刊 別に同『愛国篇』昭和十八年二月刊も存在する)は、昭和十八年二月刊行で、その作品募集と編集の時間は、ちょうど昭和十七年の宮柊二作品が発表された時期に重なっている。一連の下に『宮柊二集5』短歌初出の誌名を示した。一部の旧活字は、新活字に改めた。資料なので誤植はそのままにしてある。

机一つの距離ある壁に貼られある戰歿者氏名の分(わ)き難(がた)き夕べ  
                             昭和十七年一月「多磨」
晝ながら灯(とも)せる蠟に降りしきり春荒るるなる黄塵暗し     
必ずは死なむこころを誌(しる)したる手紙書き了へぬ亢奮(たかぶり)もなし   
彌生三日に未だ日のあり雪おける山西の地に届きしひひな   
戰ひゆ生きて歸れりあな羞(やさ)し言葉少なにわれは居りつつ
静かなる悲しみ盈ちぬ石庭(いしには)に冷(ひ)やき五月の光射しつつ
亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎せたりと互に語る思ひ出でてあはれ

     晉察冀邊區。八月二日出動、十月十五日に至る。
滹沱(こ×じ)河(がは)の水の響の空を打ち秋は來にけり大き石(いは)の影
一萬尺の山の頂に堀りなして掩蔽壕と防空壕とがあり
ふとして息深く衝くあはれさを繰返すかな重傷兵君が
左(ひだり)前頸部左顳顬部(ひだりせつじゅぶ)穿(せん)透性(とうせい)貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す
石多き畑匍ひをれば身に添ひて跳弾の音しきりにすがふ
省境を幾たび越ゆる棉の實の白さをあはれつくづく法師鳴けり
山西省五臺縣砲泉廠の高地に戰ひて激しかりき雨中(うちう)に三日(みつか)
夏(なつ)衣(い)袴(こ)も靴も帽子も形なし簓(ささら)となりて阜平へ迫る
稲靑き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾(こうび)へ傳ふ
母よりの便り貰ふと兵隊がいたく優しき眼差(まなざ)しを見す
目の下の磧右岸に林あり或る時は雨降り或る時は沒陽射す
胡麻畑を踏みゆく若き戰(と)友(も)が云ふあはれ白胡麻は内地にて高しと
敵襲のあらぬ夜はなし斥けつつ五日に及べ月繊(ほそ)くなりぬ
手榴弾戰を演じし夜(よる)の朝(あした)にて青葦叢(むら)に向ひ佇(た)ちゐつ
護送途次ややによろしと傳へきて死亡を伝ふ二時間の後(のち)
女(め)童(わらは)を幸枝と言ふと羞(やさ)しみて告げけり若き父親にして
岩の面(も)に秋そよぐなる草の影おもほえば遠く来てぞ戰ふ
落ち方の素(す)赤(あか)き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者殘さじ
棗の葉しみみに照れば雨過ぎて驢馬と庭鳥と一所(ひとつど)に遊ぶ
柿の葉のここだく騒ぐ雨もよひ機関銃小隊は眠りをるらし

     十二月二十六日入院
虔(つつし)みて吾等あれこそみんなみにいくさ戰ふときを病みつつ
                             昭和十七年三月「多磨」
病床(やみどこ)に臥(ふ)しつつ読むにあな羨(とも)しマニラへ迫る皇軍(みいくさ)のさま
再びをいくさにたたむ希(ねが)ひをばこもごも語る夜々集(よよつど)ひては

     牀上小歌
もの悲しく小鼓(せうこ)と鉦を打つきこゆ病院よりいづれの方角ならむ
                            昭和十七年四月「短歌研究」
あかつきの検温了へて又寝(い)につくならはしを定めて日々過(すご)すかな
山西省の土にならむといふ言葉たひらぎのこころに繰返しをり
右頰を貫きし弾丸(たま)鋭くて口よりいでて行方(ゆくへ)わかずとふ
宵よりぞ二重の窻をしむるゆゑさむききさらぎの月も仰がず
みんなみの空に陸地(くがち)に猛(たけ)靡く炎なしつつたたかふ戰友(とも)よ
貫かむ国の雄ごころ一つにてジョホールバハルに突き入りし兵よ

     中原會戰
死(しに)すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも
                            昭和十七年四月「多磨」
敵中に楔を入れて三日二夜戰ひ疾(はし)りて朱家庄に迫る
泥濘に小休止する一隊がすでに生きものの感じにあらず
この一線抜き取れとこそ命下る第一線中隊第二中隊永久隊
麥の秀(ほ)を射ち薙ぎて弾丸(たま)の来るがゆゑ汗ながしつつ我等匐ひゆく
麥の秀の照りかがやかしおもむろに息衝きて腹に笑(ゑま)ひこみあぐ
次々に銃さし上げて敵前を渡河するが見ゆ生も死もなし
死角より走り入りつつ河渉る一隊に集る敵の弾丸(たま)はや
強行渡河成功したる一隊が赤崕に沿ひつつ右に移動す

     中條山脈
登攀路が落下しつづくる砲弾に幾分ならずして跡形もなし 昭和十七年五月「多磨」
あなやといふ間さへなし兵を斃し掃射音が鋭く右に過ぎたり
啼きゐたる仏法僧が聲やめて山鳩が啼くしづけきかな
銃剣が月のひかりに照らるるを土に伏しつつ兵叱るこゑ

信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵 昭和十七年六月「多磨」
あけがたのひかりは風をおくり来て敵の喇叭の音をし傳ふ
チヤルメラに似たりとおもふ支那軍の悲しき喇叭の音起りつつ
数知れぬ弾丸(たま)をし裹(つつ)む空間が火を呼ぶごとくひきしまり来つ
汗あへてわれら瞻りをり向ひ峯トーチカに迫る友軍あるを
三萬の敵追ひつめぬ直接に七千は山に我と対峙す
伝令のわれ追ひかくる戰友(とも)のこゑ熱田(にぎた)も神(じん)もこときれしとふ

今日一日(ひとひ)暇(いとま)賜ひて麥畑に戰友(とも)らの屍(かばね)焼くと土掘る
                    昭和十七年七月「多磨」
限りなき悲しみといふも戰ひに起き伏し経れば次第にうすし
はつはつに棘(とげ)の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠(みは)る
とらへたる牛喰ひつきてひもじさよ笑ひを言ひて慰むとすも

 北陲。部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つな、と命にあり。 昭和十七年七月「日本文芸」
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か
馬家圪朶(ばか×きだ)鞍部(あんぶ)に狂ひうばたまの峪に堕ちゆきし馬五六頭
身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ
磧より夜(よ)をまぎれ来る敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 
息つめて闇に伏すとき雨あとの峪踏む敵の跫音(あおと)を傳ふ
闇の中に火を吹きやまぬ敵壘を衝くべしと決まり手を握りあふ
一角の壘奪(と)りしとき夜放(よるはな)れ薬莢と血汐と朝かげのなか
俯伏して塹に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵
銃剣が陽に光るのみ朝かげの中なる友軍白兵を望む
一齊に進入せり弾雨下を後続衛生輜重通信部隊
戰死馬の髪(かみ)を秘めつつ戰ひに面變(おもがは)りせる若き汝(なれ)はや
陣中日誌に不便すべしと失ひし時計を捜す屍体の間(あひだ)に

     秋
いさましくかへり見ざりし亡骸(なきがら)を秋草花にまもりし二夜(ふたよ)
山くだるこころさびしさ肩寒く互(かたみ)に二丁の銃かつぐなり
見返れば風に揺れつつ吾木香(われもこう)ある莖は折れて空を刺したり
戰死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり

     この頃。一室の療友十人なり。
鉢薔薇に夕べの青き光差し癒えねばならぬ體ぞわれは
夕ぐれの光抑へて降る沙に懸聲ひびく體操すらし
戰ひを語るもせなく白き衣(い)に病(やみ)いたはりて睦ぶはさびし
かがなべて寂しさ深し戰ひにおのれらあるを劬りあひて

 右の一連の初出の「多磨」「短歌研究」「日本文芸」などの歌数は、計一二四首である。それに対して合同歌集掲載歌は八二首。全体が勇壮な兵の歌で占められているとは言いながら、「死すればやすき生命と戰友は云ふわれもしかおもふ兵は安しも」というような厭戦的ともとられかねない歌が、よく発表できたものだと私は思う。見ての通り、歌集『山西省』の中の重要な作品は、ほぼここに出ている。こうして書き写しながら、私はしーんとした厳粛な気持ちに満たされた。『山西省』の一首をめぐる問題は、「事実」と作品の真実性、「歴史」的認識と作品の真実性の問題とが微妙に絡み合いながら、戦争の記憶の継承をめぐる問題を提起し続けているのである。

『アララギ年刊歌集別篇 支那事変歌集』の歌を読む

2017年01月28日 | 現代短歌
以下は、「美志」復刊六号(2015.7)より。        
               
  前回話題にした土屋文明の『山谷集』の方法が、どれだけ便利で応用のきくものだったのかということを、昭和十五年十二月刊行のアララギ年刊歌集別篇『支那事変歌集』の歌を見ながら確認してみようと思います。この歌集は、「アララギ」に掲載された昭和十二年から十四年十二月号までの作品の中から、斎藤茂吉と土屋文明の二人が選出して編集したものです。ここに収録されているのは、前篇の作者一一六名、二六一〇首、後篇の作者四三八名、一〇二六首です。一ページに十二首組みで、計三六三六首。前篇のおわりの方には、よく引かれる渡辺直己の名前も見えます。この人の作品はしばしば論じられるのでここでは取り上げません。私は以前、この本の中から青山星三の歌を取り上げて文章を書いたことがありますが(『生まれては死んでゆけ』Ⅰ章・13青山星三」)、ほかにも取り上げてみたい作者はたくさんいます。
まず『山谷集』の特徴的な作品を思い起こしてみることにします。

木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車
左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし
                      (城東区)
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹(から)にふる春の雨
石炭を仕分くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
                      (鶴見臨港鉄道)
 一首め。「荒き道路は」「踏み切りゆく」と、それぞれ一音字余りで重たくなった上の句に、さらに字余りの重たい下句を持って来て、これでもか、これでもかと無理押しに押して来る。「貨物専用線」九音、「又城東電車」九音。定型には収まっていないけれども、読んでみると響きはわるくない。「カモツセンヨウセン、マタジョウトウデンシャ」。むしろきびきびしたところさえ感じられる、独自のリズムがあります。
 二首目は、「左千夫先生の」八音、「大島牛舎に」八音。字余りになっても「左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きし」という事実は外せないということでしょう。そこの事実は残しておきたいわけです。直すのは簡単ですが、あえてそうしないという作り方です。三首目、特段おもしろいところはない風景です。葦原の中に枯れて立っている犬蓼の幹(から)に、春雨が降っている。無味乾燥な、絵にならない情景ですが、あえてそこに風情のない風情のようなものを発見しようとしています。

 掲出歌の七首め、「横須賀に/戦争機械化を/見しよりも」と、二句めが字余りですが、実際に読む時は、これを「ヨコスカニ・センソウ・キカイカヲ・ミシヨリモ」と続けて、二、三句めを句またがりのような感じにして、即席の五音のリズムを三回作って読むと、調子良く読める。でも、基本の考え方は、音数律を守ることよりも、「横須賀に戦争機械化を見し」という事実の確認と、「ここに個人を思ふは陰惨にすぐ」という思想的な表白を為すことの方に、重きが置かれています。この「鶴見臨港鉄道」の、字余り句をごつごつ重ねて行く句法の癖のようなものを、頭にとどめておいて次の歌を見ます。
 土屋文明風というのでしょうか。「貨物専用線又城東電車」とか、「吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながら」というような叙法は、『支那事変歌集』の随所に見出すことができます。

北方高地に野戦激しく照明弾あがり手榴弾擲弾筒の炸裂の音
                      北支 板垣家子夫

 この人はあとで山形に疎開した斎藤茂吉の世話をして、その言動を記録した面白い本を書いた人です。作品は、初句字余り、三句め以下で名詞を連続させて大破調になっています。それでも下句で「シュリュウダン・テキダントウノ・サクレツノオト」と、五・七・七の即席のリズムを生みだして定型感を持たせるあたり、まったく文明と同じ言葉についての嗜好を持っていることがわかるでしょう。

日本インテリの薄志弱行と利己心とを敵地深く楔入してなほ嘆くかな                      北支 上 稲吉
憎むべき或る種の文化を思へば戦争の破壊性も亦いさぎよし
                       北満 永井 隆
市街戦の如何に難きかは広東街の家並に築くトーチカを見よ
                      中支 上原吉之助

 あまりうまい歌ではないのですが、文明の影響が顕著な例として引いてみました。これは短歌で意見を言っているわけです。初句字余りになっても、「日本インテリの薄志弱行」、「市街戦の如何に難きか」という内容が言いたいわけです。文明が、大破調で「ここに個人を思ふは陰惨にすぐ」と、言い放ってみたかったというのと、まったく同じ構造(句の構成の仕方)を持っています。
 一首めは、わかりにくい歌で、「日本インテリの薄志弱行と利己心」というのは、ここでは自分自身のことを指しているというように、とりたいと思います。二首目の「憎むべき或る種の文化を思」うとは、どういうことでしょうか。英米文化敵視がひどくなったのは、対米戦争開始以後、特に戦況が悪化してからで、この歌は日中戦争の時点の歌です。ここで「憎むべき」文化と言っているのは、たぶん乗り越えられるべきものとしての「ブルジョア文化」、昭和初期の退廃的な都市文化のことではないかと思います。これは当時の知識青年の常識です。同じ作者の次の歌を見ると、戦争に連れ出された中国人に対して同情的です。

畑より鍬もちしまま召されたる四川生れの兵捕はれぬ
敵兵の死体おほむね少年なり龍膽の花さける山野に  永井 隆

 ここには当時の中国の腐敗した支配層への怒り、さらにはそういう現実を生み出す戦争そのものへの抗議の気持ちが感じられます。先に引いた同じ作者の歌は、一見すると「戦争の破壊性」を肯定し、快哉を叫んでいる歌のようにも見えますが、こちらを見るとそんなに単純なものではないことがわかると思います。

鳥毛もてみ仏ぬぐひ僧居れど何か苦力(クリー)の如き感じなり
村焼くる煙の映る沼の上に何ぞもしづけき鶴のあそべる
                        上原吉之助

 お坊さんが仏像をぬぐっている姿を「何か苦力(クリー)の如き感じなり」というような、どこか容赦ない視線でとらえているところ。それからこれは両軍どちらの仕業かわかりませんが、村の家が煙を上げて焼けている戦場で、場違いな鶴の姿を見て取ってしまうというアイロニカルな観察の示し方。ここにも土屋文明の影響が浸透していると思います。前回触れたように、古代憧憬の地、吉野の宮瀧に旅をして、貝殻加工工場のごみ捨て場を見ている精神と同じものが、ここにはあります。同じ作者で、

わが留守の収入減と消費節約比をときに思ひみる戦の暇に
冬亭樹(とうていじゆ)は梓に似しと思ひつつ春より夏も見つづけて来し
                      上原吉之助

 土屋文明には、こういう貧乏たらしいお金の歌がたくさんありますね。それから植物好きのところは、ほとんどフェティシズムに近いと言っていいほどです。そういう感じ方の癖のようなところまで作者は土屋文明に感化されていると言ってもいいかもしれません。

 前回「アララギ」の「ドキュメンタリズム」(岡井隆の批評言※『戦後アララギ』)ということを言いました。確かにこの合同歌集には、そういう特性があるのだけれども、ここで私はもう一歩踏み込んで、短歌というもの、詩歌の表現に固有の深度が表現されている作品が、『支那事変歌集』にはたくさんあるということを言いたいと思います。そういう意味で、この歌集はすぐれた戦争文学になっているのだということを確認しておきたいのです。

射撃はじめし敵の機関銃は二銃なりしばらく畠に伏してうかがふ
どの兵もはげしき息をととのへをり伏したる額より汗をたらして
水筒よりあくまで飲みて吾が心ゆるみし如く畠にうち伏す
相似たる森がつづきて霧のなかに錯覚ならずやと我は恐れき
いちはやく我等をみとめし機関銃は霧のなかより火を吐きはじむ
                       中支 瓜生鐵雄

 この歌は大日本歌人協会が編集した先行の『支那事変歌集 将兵篇』(昭和十三年十二月刊)にも出ているので、たぶん評判が良かった歌でしょう。連作として読めます。三首めまでは、この歌集にほかにもたくさん載っている戦場の場景を描出した作品です。でも右の四首めは、やや質が異なっていると私は思います。激しい戦闘が続いている。霧の中を行軍中に同じような森が次々と見えて来る。これはもしかしたら錯覚ではないかと、その時に一瞬思った。そういう自分の意識への注意の向け方、そこにわずかな個人性が保証されています。次の瞬間に撃たれて死ぬかもしれない戦場にあって、追いつめられたぎりぎりのところで、醒めた意識が、ありありと戦争の現実から離れたところに存在していることが自覚されます。そうして五首めで、まぎれもない戦場の現実が、火を吐きだした機関銃によって再び現われてきます。これは、何という表現意識のレベルの高さでしょうか。さらに、次のような歌からは、「アララギ」の歌人としての編者の意地のようなものを私は感じます。

水溜る壕に浮びし湯たんぽの野面を渡る風に動きつ  上海 海野隆次

 ここにも土屋文明の影響は深く浸透していると言うことができるでしょう。文明の歌の「葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹(から)」のような素っ気ない事物、「湯たんぽ」の動く様子に目をとめて、そこに「春の雨」ならぬ「野面を渡る風」が吹くところを歌にしているわけです。そこに何か物寂しい情感を発見しようとしています。こういったおよそ浪漫的でない場面に、わびしいけれども確かな現実の手触りのようなものを感じ取ろうとする感覚が、「アララギ」のリアリズムのもっとも先鋭な部分だろうと思います。こういう要素は、戦後の近藤芳美の『埃吹く街』で全面開花して、その方法の強みを遺憾なく発揮します。

 この歌の「湯たんぽ」は、敵か味方か知らないが、すでに持ち主のないものなのかもしれません。いや、味方のわけがない。壕を放棄して逃げた敵兵の持ち物だったはずです。だから、荒涼とした風景でありながら、同時に或る哀れな感じも漂っています。そういう目の向け方には、ヒューマニズムがあると思います。単に非情なだけではない。ここには血の通った人間らしい心が表白されているのです。

 土屋文明のリアリズムが持っている徹底して反語的(アイロニカルな)性格を、この作品は実現してしまっています。これらの「アララギ」会員たちは、期せずして土屋文明の目を持って、土屋文明の目の代わりに戦場の現実を記録し、そこに詩を発見していたとも言うことができます。その目の後には、大勢の「アララギ」会員が読者としてひかえているわけです。こんな不思議な文学というのは、古来存在しなかったのです。一つの共有された美意識と、現実感受の仕方についての統一的な規範意識を共同性として組織的に維持しながら、彼らは戦争の現実に立ち向かって、それを仲間に語りかけていたのです。

 右のような歌が採られているということは、この本の全体的な印象が好戦的であるとかないとか言う以前の問題です。これは「アララギ」の趣味と美学が濃厚に投影された選歌集なのであって、こんな歌は、この後に作られた『大東亜戦争歌集 将兵篇』(昭和十八年二月刊)の中には一首もありません。だから、似たようなタイトルの本だからと言って、この他の戦争歌集と、これはいっしょくたにして論じていい性格のものではないのです。瓜生鐵雄の作品をもう少し引いてみます。

月きよき夜空を渡る何鳥か近く羽音のすさまじく聞こゆ
血に染みし戦友かへりたれひとりとして声たつるものはなかりき
廬山より流るる水の清くして杏の花の咲く春に遇ふ
敵も吾もしばらく雲に包まれて心しづかになるに気づきぬ

 先ほども触れましたが、何か良質な映画でも見せられているかのような印象を受ける作品群です。戦場で見聞きするあらゆるものが、空を飛ぶ雲のように、次々と作者の傍を飛び過ぎて行くなかで、出来事や思考の断片を懸命に記述している作者の姿がここにはあります。不断の生命の危機にさらされる中で、生の一回性を燃焼し尽くしながら、とても丁寧に、注意深く生きている作者がここにはいます。これが事実であったということが、まるで夢のようです。凄惨な戦場の現実と、作者の浪漫的な感受性をもってとらえられた自然の交錯する情景は、不思議なほどに幻想的です。方法はリアリズムなのですが、ハイネの詩とか、ベルトリッチの映画とか、そういうものを、つい思わせられます。こんなふうに享受して読んでしまってはいけないのかもしれませんが、悲劇の中で事象を観照する目を持ち続けるということは、こういうことなのだろうと思います。昭和の「アララギ」恐るべし、と思います。

戦場の歌の虚構性について

2017年01月28日 | 現代短歌
以下は、2008年の「短歌往来」に掲載した論文である。

 〇はじめに
 奥村晃作著『戦争の歌 渡辺直己と宮柊二』(北冬舎刊)が出版された。前半が渡辺直己について、後半が宮柊二についての論である。もとは佐藤道雅の個人誌「路上」に連載されたものだ。ここで奥村の近年の仕事について少し書いておくと、先に刊行された『ただごと歌の系譜』では、遅まきながら私も近世歌人の歌のおもしろさに目をひらかされた。そうして玉城徹が一九八八年に出した『近世歌人の思想』の存在を知った。玉城の著書は、正岡子規によって全否定された香川景樹の業績から、人間性についての日本人の自前の思想を掘り起こし、子規以来の近代短歌的な短歌史観の修正をもとめていた。奥村の本は、私がそういうことに目を向けるきっかけとなった。今度の著書も、私にとっては刺激的な文言を含んでいた。以下の話題に触れるのは苦しいことなのだけれども、戦争の表現の継承にかかわることだから、何とか書いてみたい。本文のねらいは、奥村の著書を起点として、改めて歌の読み方について考えることである。

  〇鹿野政直の宮柊二論

 数年前に一ノ関忠人が、評論で歴史学者の鹿野政直の著書
『兵士であること 動員と従軍の精神史』(二〇〇五年朝日新聞社刊)をとりあげた文章を書いていた。私はその一文に刺激されて、すぐに鹿野の本を買い求めたのだった。するとそこには、宮柊二の『山西省』の中の著名な歌がとりあげられており、次のようなことが述べられていたのだ。

  だが兵士としての宮は、もとよりこれらの情景への単なる参加者、その哀悼者には留まらなかった。逆に惨劇の遂行者以外の何者でもなかった。戦場詠の絶唱とされる「ひきよせて」の一首は、そのように兵士であることを追い求めていったとき、避けがたくぶつからざるを得なかった事態を、みずからの責任として引き受ける覚悟を踏まえて詠まれた。

  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す    宮 柊二

  そこには、わたくしは人を殺した=殺人者だとの心の絶叫がある。同時に、義務として遂行した、せざるを得なかった、しかしやはり殺したとの反芻がある。武勲=手柄をたてたと触れまわるのとは対極の気持がある。ひきよせて寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして、心の葛藤を表現している。声もなくという切りとられた静寂性が、叫喚を連想しやすい戦闘場面の対極に、行為のなまなましさと容赦のなさをより強く印象づける。余分の修飾語や感想がなく、ただ行為とその結果のみが、”表情をなくした顔の秘むる感情“をこめて、もっとも短く表現されている。
  (鹿野政直「『一兵』の覚悟 宮柊二の戦場詠序説」)

 「ひきよせて」の歌の感受のしかたとして、右の鹿野の論には無理のない読み解き方が示されている。思い入れを排して読むならば、「寄り添うという愛情表現と、刺すという殺害行為とが鋭い対比をなして」いるという評釈が、もっとも一般的で妥当な線であろう。そうして、そこに「心の絶叫」を聞き取り、義務として「せざるを得なかった」者の声を聞こうとするのも、当然予想できる感受のしかただと思われる。

 鹿野が右のように読んだのは、(全部は引用しないが)この一連を最初から読んでいくと、このテキストの持っている〈指向性〉が、「ここで刺したのは語り手自身なのだな」という了解を読者に与えるようにできているからである。私もこの歌の真実性を疑わないが、現実の宮柊二が、この歌の敵兵を刺した兵士と同一人物であったかどうかは、わからないと思っている。むしろ私は、この歌を含む一連に、戦場の兵士としての意識の共同性に基づく創作意図を読み取りたいと考えている。端的に言うと、この歌を含む「北陲」の一連十五首が、一部に虚構性を含み持ったものであってもよいと思っている。

 〇誰が刺したのか

この時の敵兵刺殺が、作者自身の行為なのか、隊の仲間の行為なのか、行為者については分からないということは、すでに中山礼二が述べていたことだった。やや長くなるが、以下に中山礼二著『戦場の鶏 『山西省』作品鑑賞』(昭和五一年刊)の「昭和十七年」の章から、その評釈部分を引く。

  いたく静かに歌われている。実際に静かに事は行われたのだし、そのように静かに人間の生命が消えることに、この歌の伝える厳粛さがある。
 人を刺す瞬間を考えれば、そこに粒ほどの介在物があっても、生死がたちまち所を変える緊張関係は、死の恐怖を交えた本能的な興奮を伴なうだろう。(略)しかし、事柄自体は、ここに客観に近く叙述されたとおりに運んだのである。それに〈人を刺す〉と言っても、戦場で兵隊の身である。恐怖心を混えた興奮も、その極点においては、かえ って、兵隊を平素反復訓練したとおりに確実に行為させる。
その場合兵自身の計量選択の加わる余地は少ない。それは〈遂げた〉という感情を伴うはずで、〈人間と人間〉の間のこととしての感情がおこるのは危機が去ってからである。
  この歌は、そういう危機の中における行為を、むしろ正確に表現し得ていると思う。                                  (中山礼二)
中山がここで懸命に説いていることは、兵士として人が人を殺すことの意味である。兵隊となった人間が、「静かに」そのような非情な行動を為す、という表現の持つ真実性を徹底的に検証しようとしている。その透視するようなまなざしをもって『山西省』の作品を検討していると、自ずから見えてきたものがあったようなのだ。中山は、次のような一文を括弧にくくったかたちで、書き加えた。(この歌、必ずしも柊二が直接手を下して刺したととらなくてもよいが、それはどちらでも同じことである。)と。
 さらに中山は、この前後の叙述において、次のように書いていた。

  柊二の個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうとする意欲が際立って見える。つまり、柊二が兵隊一般の中に埋没する態度が強い。
そこで戦闘の、或いは戦場の、むしろ些事に属する一片をつかみとって、そこから全体を暗示的に浮かばせようとするよりも、戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法をとる。それは歌として必ずしも成功を期待できないやり方であるが、どうしてもこれは伝えておきたい、知って欲しいという戦闘の事実が、柊二にそういう方法をとらしめる。戦場の語部であることも歌人冥利であるとの気持が、柊二に動かなかったとは言えない。誰のために語るか。よく戦って死んだ友人のために、またいまも戦場に生きつづけている兵隊たちのためにであり、そしてまた明日は吾を見舞うかもしれぬ運命のためにも。
                    (中山礼二)

 宮柊二の戦場の歌のあるものが、想像力によって再構成されたうえで作られたということの可能性を、私は中山の右の文章から読み取れるのではないかと私は思う。繰り返すが、それは「ひきよせて」という作品の価値を何ら損なうものではない。戦場における一兵士としての意識の共同性に立って、「戦場の語部」として「個が経験し摂取した戦闘を歌うというより、兵隊平均の眼で戦闘をとらえ歌おうと」した時に、歌集『山西省』所収の歌に虚構の要素があったということを、認めるほかはないと思う。

 今度の奥村の書物は、宮柊二が所属していた中隊の隊長永久清の「陣中日記」のコピーに拠りながら、部隊の動きと戦闘の模様を確認しつつ作品を読もうとしている。これを見ると、「北陲」の一連の宮柊二の作品と実際の作戦行動の記録との間には、相当に符合するところがあることがわかる。そうして、部隊の行軍の記録に沿って宮柊二の歌を検証すれば、当然「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする」連作の意図が、再度確認されるということにもなるのである。「北陲」の連作に限って言えば、これは戦地で入院療養中に回想して作った歌であり、なおさらそうした側面が強くなったことは否めない。言い換えるなら、資料と突き合わせて『山西省』の作品を読んでみても、作品の〈事実性〉が保証されるとは限らないのである。皮肉な言い方になるかもしれないが、そこでは、「戦闘そのものを、仔細に経過を追ってとらえようとする方法」(中山礼二)の意図を再確認することになるだけなのだ。むろんそれは大切な作業であり、検証によって渡辺直己の実戦参加前の作品のような、完璧な虚構との違いが際立って来てしまうということはある。しかし、繰り返すが、〈事実性〉そのものとしては、結局のところ、人を刺したのが本人であろうが、同じ部隊の戦友であろうが、「それはどちらでも同じこと」(中山礼二)になるわけなのだ。そうして、なぜそう言えるのかというと、それは宮柊二の従事した戦闘が、真に苛酷なものだったからである。今回の奥村の著書にありありと描き出されているのは、私が今ここに書いていることなど吹き飛ばしてしまうような、実際の戦争の厳しさであり、その中で生き残るということの凄みである。

 右の歌について奥村の本では、あまり詳しく触れられていない。それは、これが著名な一連で、すでにたくさん注解があるからだと思う。ちなみに中山は、その後刊行された増訂版『山西省の世界』(一九九八年)で更に一歩踏み込んで、「『三人迄を抑へて』『寄り添ふごとく刺』したのが、宮柊二御本人とは、私は思わない。指揮班の一人がそれを為すほど事態は混乱していない。」と書いている。

 話を元に戻すと、一般の読者はほとんど鹿野政直と同じように読むはずなのである。文学作品においては、作品・テキストの持つ〈指向性〉が第一に尊重されるべきであり、その意味で鹿野は間違っていない。ただし、心情の歴史の資料として考えるか、〈事実性〉についての資料として考えるかによって、問題の一首のとらえ方は異なるものとなるということだ。この点に最後までこだわっていたのが島田修二であった。これについては、ここでは触れない
*。
 *島田修二著『宮柊二』及び拙著『生まれては死んでゆけ』参照

 〇「声も立てなく」の句について

 私が右のようなことを考えるようになったのは、斎藤茂吉・土屋文明編集の岩波版『支那事変歌集』に次の歌を見つけたからである。

  銃弾のつらぬく音し暗闇に軍馬斃るるは声も立てなく 藤原哲夫

 こちらは昭和十五年十月刊で、宮作品の初出「日本文芸」は十七年の七月号である。問題の一首は、右の藤原作品に摂取して作られたものではないかと私は思う。それは暗夜の不意打ちという両者の場面が単に似通っているからだけではなく、右の歌の結句の「声もたてなく」という万葉調の語法が、「アララギ」由来のなかなか特殊なものだからである。周知のごとく、宮柊二には、卓抜した詩的言語の吸収力があった。白秋は、主に「~なくに」と言うので、「~なく」は数例しかない。斎藤茂吉の選歌集『朝の螢』には、『あらたま』から〈むらぎものゆらぎ怺へてあたたかき飯食みにけりものもいはなく〉という歌が選ばれている。「ものも」と「言はなく」を結んだ言い方は、「物を言う」という散文口調を文語的に変換した茂吉の創意であろう。

 〇渡辺直己の作品

 『戦争の歌』のはじめの方で、奥村は「渡辺直己ひとり、戦意高揚の、国策に沿うスローガン短歌を、制服短歌を、ただの一首も詠まなかった、という事実はもっと知られてよいだろう。」と書いている。筆者が渡辺直己を取り上げた意図は、それでよくわかる。
 しかし、奥村は、戦地に移動して間もない頃の渡辺作品の虚構について、米田利昭の論に拠りながら、歌人としての態度に問題があったと書いている。その内容は、映画『西部戦線異常なし』を見て作った戦争の歌を、あたかも実体験のごとく発表したのはまちがいだったというものである。
 奥村は、渡辺直己作品の虚構が、「結果的に読者を躓かせ、読者を騙したのであった。これはいけないことである。少なくとも、配慮が足りなかった。」と書く。師の土屋文明までが、実戦の歌と思い込んで渡辺のところに葉書を寄せた。また中野重治も『斎藤茂吉ノート』の中で、渡辺の虚構の歌をとりあげてしまったのである、と。問題の渡辺直己の歌を示す。

幾度か逆襲せる敵をしりぞけて夜が明け行けば涙流れぬ
                   渡辺直己
  頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

 私も右の作品に感銘を受けた覚えがある。これが〈実体験〉に基づいたものではなく、想像上のものであったとしても、これらの作品の価値は消えないと思う。また中野重治の論自体が、「無効になってしまった」とも思わない。奥村自身、「自己の体験をもとに作ろうと、他人の話をもとに作ろうと、できあがった作品の価値はそれに左右されるものではない。」と書いているのに、その一方で、読者を「騙した」とまで言うのは、少し言い過ぎではないか。表現の真実性の前では、実際に言葉どおりに刺したか刺さなかったかということ〈事実性〉は、どちらでもいいことだ。そういう認識をもし本当に持ち得たなら、奥村は渡辺についてこのようには書かなかったはずだ。奥村は宮作品には虚構はないと考えているから、このように渡辺の方をきびしく論評できるのではないだろうか。しかし、私はそうは思わないので、対照するために先に『山西省』の一部の作品の虚構性ということについて触れた。

 要するに渡辺直己には想像力と才能があった。凡庸な作者ではなかった。渡辺は、実戦に参加する前、戦地に行くとほぼ同時期に戦闘の歌を作ってしまった。そうして実際に血みどろの戦いも経験し、少なからぬ戦争の歌を残して、昭和十四年、駐屯地における石灰爆発の事故で爆死した。
 では、渡辺直己の虚構と、宮柊二の虚構的な作品との間にどれだけの差があるのか。虚構だったら、その歌の真実性は減少するのだろうか。宮柊二のようなぎりぎりの経験を経たうえでの虚構には、「うそ」の要素が少なく、渡辺の昭和十二年末からしばらくの頃の作品は、ドキュメントを装ったかたちになっていたために、「騙した」とまで言われなくてはならないのか。渡辺も宮も虚構性を含み持った作品を作っていた点では同じではないか、というのが私の意見である。そのことは、彼らの戦場経験と表現の真実性を損なうものではないと私は思っている。

 〇米田利昭の論について

 ここで奥村が依拠している米田の著書に触れると、その研究姿勢は、江藤淳によって戦時中の平野謙の処世が問題にされたことと同質の問題意識に貫かれており、一種のリアリズムの精神の発露したものである。米田は、渡辺直己のことを書いたがために、一部の人々、特に土屋文明の不興を買って、いろいろと難しいことになってしまったそうである。米田はこう述べた。

  渡辺の戦いの歌が実際の体験から生まれたものではないことは呉アララギの仲間にはうすうす分っていて、そこからニュースとして流れてはいた。が、一方それを渡辺の名誉のためにかくすという風潮もあった。事実にあらざれば尊からずという考えで、歌は事実ありのままをよめという土屋文明の教えを金科玉条としたところから来ており、文明自身がありのままを歌っていないこと、どだいありのままなどということが歌においてあり得ないこと、ありのままを写生せよとは大衆を歌にひきこむための方便にすぎぬことを理解できぬ人々の驚きであった。しかし自分の経験からでなくとも、渡辺があのようなイメージを作り出した
ことに十分の意味があると思う。
   米田利昭『渡辺直己の生涯と芸術』第五「動員」


 右のような考え方は、今日多くの歌人に受け入れられているのではないのだろうか。それとも奥村は、前衛短歌以前の狭隘なリアリズム観に再び戻ろうとしているのだろうか。米田が右の書において、中野重治の『斎藤茂吉ノート』から、写生と詩的構想力という二つの問題を取り出して、後者の「構想力」ということについて考えることの重要性を説いていたことを、私はここで思い出しておきたい。

〇歴史に対する複眼

 問題はわれわれが戦争の死者の声を聞く耳を持つことなのである。そうして短歌を読むことと歴史認識を結合することなのである。その意味で、私は奥村が今も戦争の歌を問題にしようとしていることに賛成であるし、今回の著書を後続世代にバトンを渡すための仕事としてみたい。奥村は書いている。

渡辺・宮にかぎらず、そのように平常心(良心・理性・人間性)を失わなかった兵や部隊は他にもたくさんあったはずだ。中国で戦った日本の軍隊はすべてが虐殺行為を行なったのだとする一部著作およびその作者の考え方には大いに疑問を感ずる。
  二つのケースをはっきりと分けて、天津・済南では起こらなかった、あるいは部隊によっては起こらなかった行為が、なぜ南京では起こってしまったのか。そこを考えていくことが大事なポイントなのである。 (奥村晃作)

奥村は、歴史に対する「複眼」を持つことの重要性を説いている。短歌を読みながら、論者は歴史や世界観の問題にわたって行かざるを得ない。それを常に心がけていないと、歌人は短歌だけのことに終始してしまいがちだ。奥村の行き方は正攻法と言ってよいものだ。ただその際に、短歌にあらわれているような微細な心情の表現を、どうやって歴史や事件と媒介させてゆくのかということについて、読みの問題を抜きにしては語れない。そこで私性の部分だけを軸に語ってしまうのは危険だろう、というのが急いで本稿を書くことにした理由である。