さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄~を読む』

2017年01月29日 | 現代短歌
 以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子 『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』 の前半の1月から6月の部分である。これはいまから七年前に、その十二年前を回顧した冊子だから、ざっと二十年近くまえの短歌についての文章ということになる。
 
 この中には、すでに故人となられた方の名前もある。いささかの追悼の気持をこめて、ここに再掲する。若い人達、それから未知の読者との出会いを祈念して。後半から先に三回に分けて掲載している。

はじめに 

 この冬に以前の文章を編集し始めたら、とても一冊ではおさまりきらないということがわかった。それで少しずつこうした小冊子にしてゆくというアイデアがうまれて来た。ここには「未来」誌の「ニューアトランティス欄を読む」の一年分と、「月集欄」批評の三カ月分をまとめてある。これによって、ちょうど十年前の「未来」の作品をコンパクトにまとめたかたちで縦覧することができるのではないかと思う。この頃の私は散文を「鈴木篤」という名前で書いていた。今見ると、何だか歴史を感じてしまう。それほどに世の移り行きは激しい。読み返してみると、いろいろな事が思い出されるし、結構楽しい。以下の文章にとりあげている作者の中には、東直子さんや高島裕さんのように、すでに「未来」を離れた方もいる。また、亡くなられた方もある。こうしてみると、後で歌集に収められた諸氏の作品に初出の段階で言及することができたのは、実に幸せなことだった。でも、取り上げられた方は、勝手なことを書かれてさぞ迷惑だったのではないかとも思う。慚愧に耐えないが、私もまだ若かったのだ。こういう文章の性格上あまり直してはいけないと思ったが、文意の変わらない程度に細部を見直しして、無駄を削った。ただし選んだ作品で削ったものはない。豊かな歌の世界が、ここにはある。

◇一九九八年「未来」ニューアトランティス欄を読む◇

                      
○ 一月号  
 さて、今月からこの十ページほどがわが草刈り場となる。踏み入ってみると、「刺客うようよ」というほどでもないが、やはり緊張する。小林秀雄に「真贋」というエッセイがあった。あの文章では、本物の赤絵の皿を素人目に偽物と決めてしまって、「見るのもいやだ」と手放してしまい、後からやはり本物だったということが判明するのだが、自分もそんなことをやらかすかもしれない。もちろん歌の批評は骨董の鑑定ではない。でも、ひらめきに頼る点があるのは似ているような気がする。読みながら、言葉を濾過した「現在」への感度のようなものを、同時に計量しているのである。
 その「現在」への感度という点で、ひところの紀野恵の技法の「超時代性」が、すでに批評的にはたらかなくなりつつあるのではないかということを言いたい。角川「短歌」の十二月号に、

  コンピュータ音声応答システムが干からびてゆくゆめのなか 遇ふ 紀野 恵

という作品があって瞠目させられたのであるが、この歌は索漠とした時代の気分を、無機的なコンピューターの声に象徴させるように取り込んでいるところに見所がある。ここには作者の新たな可能性がひらけていると思う。残念ながら、本誌一月号の一連には、そういう鮮度がやや乏しいのである。たとえば四首めの下句に〈未だわたつみ越えぬイゾルデ〉という句があるのだが、この「イゾルデ」という固有名詞に、なぜか私は、たちどころに疲労感を覚えてしまう。それに比べて「コンピュータ音声応答システム」は響きがいい。呼び込まれている語彙の選択の問題が一番大きいような気がするが、それだけが原因で、この目覚ましい印象の違いが生じているとは思われないのだ。…というような事を悩みつつ書いていると、手元の「短歌研究」二月号の一ノ関忠人の放言が目に留まってしまって、聞き捨てならない。一ノ関は、「現代が、あたかも修辞の時代であるかのように錯覚させる歌壇の先端部」は「くだらぬ意匠の先進を争」っているのにすぎず、彼らは「みずからの狭隘ななれあい世界を清算するほうが先決ではないか」と言うのである。実に、見当ちがいもはなはだしい怒りの爆発ではないか。修辞の中にしか、現在は現れない。そのことを痛切に感ずるところにしか、短歌が詩として生きて行く道はありはしない。話をかえよう。

  父逝きてほうやれほうの我ながらなみだ流れて荒川に来つ    池田はるみ
  やうやくに寝入りたる子の頬のあたりばう、とふくらぐやうに思ひぬ   大辻隆弘

 二首とも、言葉の質感を確かめるようにしてうたわれている。「ほうやれほう」や「ばう、とふくらぐ」といった、平仮名書きの表記と語音との微妙によじれ合った擬古的な言葉遣いが巧みである。池田作品は、境涯詠の荘重さへと短歌的叙情を収斂させることなく、ふっ切れた哀れなおかしみを醸し出していて、先の歌集『大阪』の後半部への批評として、歌集を読む会の中で出されていた問題に、この一連で早くも応えることができたのではないだろうか。問題は挽歌の領域における、近代短歌の超克である。(付記。この一文、気負いすぎですね。)
 大辻作品の方は、新歌集『抱擁韻』の帯に「短歌的文体に殉ず。」とある。この「ばう、とふくらぐ」は「短歌的文体」なのかもしれないが、「ばう、とふくらぐ」と子供の頬が見えたこと、そのような錯覚をおぼえたこと自体は、やはり現実・リアルというものが先立って突出しているのであり、そのことに読み手のぼくは動かされたのである。それはもしかしたら「写実」ということの要諦なのかもしれないが、同じ一連の〈木々の影ページのうへを走りゆく朝の車窓に寄りつつ読めば〉の好ましさに比べて、導入の歌とは言え〈色づける柿のはだへにうつすらと白き粉見ゆ秋のはじめは〉の平淡さが、危険な気がするのだ。むしろ『抱擁韻』の問題作は、「短歌的文体」の準備がととのいようもないところまで現実が迫り出しているような局面で、なおも腰の重い「短歌的文体」を誇りやかにこなしてみせる超絶技巧的アクロバットを示した作品の中にあるのであって、帯文の揚言は、どんな現実をも「短歌的文体」の中に繰り込むべく闘うのだともとれるし、逆にその可能性を信じられるだけの大きな自負の現れというようにもとれるのだが、ぼくとしては大辻さんにそんな単純な信仰告白をしてもらっては困るのだ。短歌はただ音が心地よく流れているだけのものではないし、既知の言葉の構成をなぞりつつ生まれて来るイメージの楽しさにおぼれるためのものでもない。われわれが当面している諸々の物・事の現在性として、歌が(言葉によって、修辞によって)えぐり出し、突き付けて来るものを、貪欲にもとめて行きたいのだ。

  ほどほどにエスプレッソの苦さあれ契約は吾をやわらかく締む      日下 淳
パパのかたいおなかがとてもこわい 巨大な抽象画を前にして     東 直子

 買い手市場の労働現場に働く女性のくっきりと醒めている意識が伝わる一首め。「男性性」としてとらえたものに、やんわりと抗している二首め。はや字数も尽きた。

    《九八年四月号》
○ 二月号

  マルクスと喧嘩したいだなんて(ふふ)ライチの皮を剥きながらきみ   田中 槐

 「マルクスと喧嘩したい」なんていう類の気恥ずかしい台詞を、酒の席で口走ってしまう奴って、いたよなあ…。少しブルジョア感覚のライチを食べながら、というのも皮肉でおかしい。知的でちょっと男を小ばかにしていて、でも厭味がない。何度読んでも吹き出してしまう。

  したり顔する 価値を裏返すことなど簡単さねえ桜井君    中沢圭佐

 一連は、例によって欧文哲学書直訳体的な文体なのだが、それをベースにしながら、不思議な歪みを持ち込もうとしている。これでユーモアが出せるようになったら、このひと本物だ。当月はしかし玉石混淆の一連、どれがよくてどれが悪いかは「〈神〉のみぞ知る」だ。まとめて読んだら飽きが来るという危惧は、むろんある。でも、みるみるうちにこの作者、「事実」の断片の取り入れ方が、さまになってきた。今は突っ走るしかないだろう。若さというのは、こわい。

  夕焼けのきはまる後の音を聞くこの男には妻も子もある     江田浩司

 島木赤彦の有名な一首を下敷きにしている。アララギ的な「正調近代短歌」の遺産を利用しつつ、そういう荘重な短歌的文体を、それ自身の中で異化するように使用すること。調べは近代短歌に拠りながら、盛られているものは仮構された意識と言葉のよじれあった一つの現代的な詩の位相であるような世界を作り出すこと。先の歌集『メランコリック・エンブリオ』の問題作と比べると、ずっと読みやすくなっているが、江田さんのこの行き方、悪くない。別に、これは撤退ではないのだ。

  トンネルに入りて「ひかり」の身ぶるひがわが背後へと伝ふときのま   大辻隆弘

 また大辻さんを引き合いに出してすまないが、こちらは『帰潮』の〈移動するこごしき音は飛行機のやや後方の空よりつたふ〉の音の向きを反対にしている感じだ。作者の佐太郎摂取は堂に入ったものだから、この調子で作っていれば、むろんそれなりの成果は得られるだろう。でも、惜しむらくは、うますぎる。だから、どうしても後向きに見える。

  褐色の男の子を産みし聖処女に石投げているわたしじゃないか    寒野紗也
  社会主義の禍福知らざる十万人を故郷にあらぬ地に還らしめ      李 正子
  追われたる祖国とふいに言い換えて電話を切りぬ田中ロベルト      但馬哲哉

 この日本という、どこを切ってもぶよぶよの平板さがあふれた全体主義的な社会に住んでいると、つい自分の頭の上の蝿を追うだけになってしまって、いろいろなことに鈍感になりやすい。掲出歌は、この国の外へと弾き飛ばされてしまった人々の複雑な状況にかかわろうとしている。寒野作品は、適当に乱暴なところと、野性的なヒューマニズムの発露がうまく釣り合って作者の持ち味が出た。李作品は、個人崇拝が体制の根幹に据えられている厳寒の共和国に、かつて鳴り物入りで、愛する同胞を向かわせたことについて、その責任はいったい誰が負うのか、と問いを投げかけている。但馬作品は、異国にあって、ナショナルな情念を捨て切れないでいる人物の複雑な心境を詠んでいる。

  マーライオン背にして笑うこの夏の家族写真を火にくべがたし     大谷真紀子
  寝る前に「ちゃがちゃがうまこ」を唱えいる子供の声に浸りて吾は   中川佐和子
  「失楽園」と言へばミルトンと反応する親族ばかりの法事二次会
                                    宮原望子

 人間というものは、親兄弟や家族、肉親のしがらみの中で苦しみつつ生きていく存在なのだという、このごく平凡な事実の重さを認識することが、文学の根幹にはあらねばならないと、かつて文芸評論家の江藤淳がのべていた。短歌も同様だ。若いうちにはわからなかったことである。

 大谷作品には、おのずから生のおののきが一首の歌となったというような、切ない響きがある。中川作品のような慰めも、時にはあっていいだろう。宮原作品の、何という明るいユーモアだろうか。これは、大島史洋氏も取り上げて書いている歌だが。

  母の手は寂しうからの皿ごとに卵料理をすべりこませて     加藤治郎

 短歌が「うから」という語を日本語の中で存続させていることの意味は重い。これは加藤さんの自然体ということになる。

  礼ふかき黒衣の妻のおもざしのわたくしに似て きみは逝きたり    釜田初音

 いつの間にこんな作者に脱皮していたのかという驚きをもって読んだ一連。何年もいっしょに短歌をやっていて、ふと気付いたら、となりのあの人が、何者かに化けている…。「作者」と呼べるような確固とした存在に成長している。そういう経験を、この頃ずいぶんするようになった。集団の文学運動というのは、そういう良さがある。これは別に「未来」だけ持ち上げて言っているわけではない。掲出歌、逝きたる「きみ」は「わたくし」の昔の思い人の男性と解釈した。
                   《九八年五月号》

○ 三月号

  家中の刃物をあつめ研ぎ出だす雪つむ夜つうの鶴にあらなく     飯沼鮎子
風使いの眼をしていた グライダーを片手にたかく掲げた少年

 ものを書き始める前には、家中の刃物を取り出して来て研いだという中野重治のエピソードを一瞬想起した。この作者の中にも、そういう剛直なものがあるだろう。二首めには、対象への恐れに似た敬意が感じられる。いつでもかまえることなく、正面から子供たちに真向かっているのだ。そういう健康な、この作者独特の凛然とした勁さのようなものが、うまく修辞的な着地点を見出すと、いい歌になるように思う。良識によりかかった地点からではなく、自己の感性のまっしぐらな直接性に照らしてものを見ようとした時に、反射的に立ち上がってくるモラルとでも言ってみたい。最新刊の第二歌集『サンセットレッスン』の安定した歌境の良さのようなものは、そこにある。知らないうちに、作者は、平凡な比喩の非凡な使い手としてさらに成長していた。心地よい驚きだった。

  ふるさとに弛緩靴下見るときのさむざむとしてかなしと思ふ     高島 裕
母上は萎みたまひぬ厨着の白おほらかに遠き日はあり

 あっと言う間にこういう歌が作れるところまで来れるのだから、驚く。「さむざむとしてかなしと思ふ」という、強固に近代短歌の様式に支えられている感情の叙べ方がある。そこに、ルーズソックスみたいな俗な素材が放りこまれて一首ができあがる。全部高島さんのいつもの実験的調子だと、短歌として認知されにくいということがある。こういうものもある程度作っておかないといけないだろう。しかし、決まり文句には決まり文句の陥穽がある。あまりにも心地よいために、自分でその表現に何かをつけ加えることができないのである。だから様式的な叙法に対しては、用心するに越したことはない。保守的文芸型式である短歌のつらいところだと思う。ここのところで短歌を信じられる人やグループが歌壇にはたくさんいて、自分の間尺に合わぬものをすべて切って捨てようとしているのである。かと言って、そういう保守的なものがすべて消えたなら、短歌は滅びるのではないかという気がぼくはしている。好悪の感情で問われたら、ぼくだって断然「さむざむとしてかなしと思ふ」が好きである。高島さんは若いから、こんな大きな疑問を出してみるのだが。

  林檎二個 一個はおのがために剥く喜びはかく淡くたしかに      加藤聡明

 いつも通りの禁欲的な作者だから、一連から事実的な背景は極力消されている。読者としては、あと少しだけ、私事を教えてほしいと思うことがある。見せ消ちに描かれている断片だって相当に厳しそうなのに、作者は黙して語らない。聡明さんは羞じらう人だ。林檎をむいている孤独な男の後姿に、誠実な魂の受苦のありようが形象化されている。究極的には空に向かって書いているのだから、ぼくたちはみんな自由だと、この作者なら言えそうな気がする。聡明さんの作品に励まされる読者は、ぼく以外にもきっといるはずだと思う。

他人事と思えぬされど打電する銀行コード0012     日下 淳
  コール市場呼べど応えぬ金曜の午前十時を魔の刻とせり   
   
 北海道拓殖銀行が破綻してから、三月に入って北海道では大型倒産が相次いでいるという新聞記事を読んだ。札幌で金融関係の仕事に従事しているらしい作者ならではの、ひりひりするような臨場感が一連には漂う。一首めの「されど」というのは、自分の事でもあるのだが、今は勤務中の身で、必死の形相をしてせっついて来る誰かに依頼されて、代理で打電しているのだろうととったが、この一首だけだとその情景は見えて来ない。もう一首、序にあたる歌が要るのかもしれないが、日下さんも私事をあまり歌の中に出して来ない作者ではある。一連は、特別に意識しているわけでもないようなのだが、どこかで男どもが作り上げた経済システムの総体に物申しているようなところがあって、空気のように感性そのものに内在化されたフェミニズムとでも言ったらいいか、ほろ苦い戦後システムへの訣別の言葉が、経済を詠みつつも、まるで相聞歌みたいに立ち上がっている様子がおもしろい。「写実」の再興ということが言われるとしたら、こういうところから微かな地殻変動は起き始めているのである。若い日下さんたちの「アルトの会」のようなマイナーな研究会には、今後につながる種子が隠されているかもしれないと思う。自他の作品がどこへ向かってゆくのかということへの真摯な問いを持ち続けながら、同年代の女性のある層の肉声を、自らの経験を媒介にしてつかみ出してくることが必要なのだ。

  カレーニン旅行会社は救ひあるさまに飛行機切符手渡す     紀野 恵

 先々月に書いたことなどどうでも良くなってしまうのは、この人の歌の後頭部に届くような柔らかい言葉の刺激の故である。  《九八年六月号》

○ 四月号

  さりげなく株価終値浚いおりヒエログリフを読み解くように    日下 淳
  振り出しという語の軽さいつの日か廬生の夢はさめねばならぬ

 また北海道の日下さんの作品を取り上げる。二首めは直接日本経済とは関係がないのだろう。しかし、微妙に重ねて読みたい。こんなことを思っている経済人が、日本に今どれだけいるのか。倒産すれすれのところであえいでいる小さな建設関係の会社の人の話などが耳に入ると、何もしなくても赤字は累積して行き、それはもう、暗渠にお金を放り込んでいるようなものだという。経済の痛みは人の痛みだということが、日下さんの歌の中にはある。私的な契機と、職場環境での写生とがだぶっている。それは偶然のものでもあり、必然のものでもある。そのタイミングが重なっている今この時を、歌はつかまえる。「振り出しという語の軽さ…」。損失だって、たいてい男の方が立ち直れないのだ。宇野千代の自伝を読んでいたら、「それにしても私の立ち直りの素早さは目にも止まらぬほどのものであった」と書いてある。あれは、元気が出る本だ。

  えいえんに腐らぬあけびあるようなさみしさきょうもあなたを愛す    大滝和子

 一読して咄嗟に思い浮かべたのが、雨宮雅子の〈いつぽんの木のかなしみにゆきつけば烏瓜垂るる宙の昏しも〉であるが、とりあえずこの連想には何の意味もない。あけびは口を開けているのか、閉ざしているのか。たぶん青い匂いを発しながらかたく口を閉ざしているのだろう。処女性のようなものへ向けて禁圧を強めて行く、作者ならではの不思議な感覚だ。題「秘恋」というところだが、「けふも君おもふ」ではなくて、「きょうもあなたを愛す」とはっきり言うところが現代。

  テノールが「またも孤り」と歌うとき庭に日の差す喜びはあり    佐伯裕子
告げられし一つ言葉のひびかいに伽藍となりてわれは暮れたり    秋山律子
  壁際のグランド・オダリスクの背の見ゆれ昨夜見しままに歪みしままに 松浦郁代
  どこまでも従き来る少女手をのばすもしや前の世われの生みし子 さいとうなおこ

 一首目は調べが通った歌で、子供が自立して行ったあとの母親の感情を底に沈めたものとして読めると思うが、その分やや既視感があるのは、うまくそろった材料のせいもあるかもしれない。二首めもよくわかるし、一連は夫が定年、自分もある年齢にさしかかった女性の感慨が伝わって来るのだが、どこかで事実の取り入れが不足している。岡井さんのように、白鳥を見に行きますか。三首めは結句の「歪みしままに」に作者の感情が出ている。それでいいのであって、その前の歌のように「なお昏き身ぬちに」とか「身奥寂しき」とか自分で言ってしまうと、かえって逆効果になって批判されることになるのである。思いを外部にある事物に託してしまえばいいのだ。やはりここでは素材が問題となるのであって、要は身のめぐりを見るということなのだが、ここでぼくは「写生」説の説教をするつもりなど毛頭ない。

 人間には各々の経験の核になっている原風景のようなものがあるような気がする。それは、心象というようなもののもう一歩先にあるものなのだ。それを、目の前のたまたまそこに在るものを媒介にして出してみせるということが、すぐれた歌人は得意なのではないかと思う。そこのところで、ある風景と言うか情景のようなものに突き当たるような、突き当たろうとするような、そういう作り方、創作・創造の態度というのはあるような気がしている。さいとうなおこさんのインドの歌、一連の一首めの〈屍のにおい街の臭いを吸い込みてガンジス永遠に鈍色の帯〉が、ぼくは不満である。さいとうさんは好きなインドだったらガンジスだけで何十首作ってみてはどうか。掲出歌は、まだ夢のようなものがあふれ出して来ない感じで、これだと文明一党の旅行詠の範疇に入ってしまう。今西久穂さんが亡くなる前に、旅行の歌は昔のなつかしい手法でも結構楽しみながら歌っていけるようだと書いていたけれども、今西さんはそれでよかった。でも、さいとうさんには、体験を無意識の中に浮かべなおすとでも言うか、そういう作業をやってほしい。ぼくは『シドニーの雨』の良さが忘れられない。

  学校を丸焼きにせしいがぐりの同級生をこの頃思ふ     池田はるみ

 「十三歳」と題した一連から。いがくり頭の同級生の思い出が、〈切らぬからどうでもよいから育てよと栗には思ふ栗はよきかな〉という発想に行く平俗な味がおもしろく感じられる。何十年も前の子供の「悪さ」というものも、思えばなつかしい話だ。末尾の大国主命に助けられる白兎も、考えてみれば悪童的要素が強かった。秀逸な思いつきだ。さらなる磨きをかけてほしい一首ではある。
《九八年七月号》

○ 五月号

  星と星擦れ違ふごとき酷薄の偶然はかく吾をさびします     奥村和美
群衆する心はいかに手拍子にラデツキー行進曲はづれて聞こゆ

 一首めの三・四句めからは、啄木の〈かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど〉が思い出される。相聞歌なのだろうか。二首め、にぎやかな音曲と調子外れの拍手の響きは、私の孤独をかえって際立たせる。一連の整った調べとよく選ばれた語彙には、戦後短歌のなつかしい残響が聞き取れる。それは若い人の乱暴な歌とは比ぶべくもない修練の産物なのだが、比較して申し訳ないけれど、ちらっと連想したので名前を出してみると、初期の安永蕗子のような独自の心的世界を構築するには、風景を自分の側に引き寄せながら、もっと多彩に、もっと具象的にうたってゆく必要があるのではないか。その時に、おのずから歌語のうちに入ってくる語彙というものがあるはずで、そこに、歌を一個人の孤独な営みから時代の普遍的なものへと解き放つ契機が生じて来るのだと思う。むろん、声低く歌い続ける作者であってもいいのだが。

影、ふかく鋭く襲ひ来よ告げなづむ「民族」といふ一語のために    高島 裕
スリットゆこぼるる肌に灼かれつつナイフのごときものを思へり
苦しき論理つむぎてあれどどつちみち馬の蹄の中なる世界    山田富士郎
 つけもの石みたいにすみに転がつて相克を見むやみと闇との

 思想というのは、きちんと手続きをとって葬っておかないと亡霊が出ると、政治学者の橋川文三が、数十年前に水戸学を扱いながら言ったことがある。高島さんには亡霊が見えるだけではなくて、街頭で新右翼がアジったりしている都内に住んでいると、日々それが肌身で感じられるのだろう。しかし、戦後半世紀を経て「郷土」も「家」も「家族」もすっかり解体しつつあるのが、われわれの現状だ。今後の日本社会では、子供集団も含めた地域や職場の小さな社会単位を再生し活性化してゆくことが課題なのだとは思うが、そこに大文字の「民族」が介入する余地はほとんどないように思える。「影、ふかく鋭く襲ひ来よ」とは危ういことを言ったもので、むろん反語なのだろうが、一連には反語になりきらぬ失敗作が目立つ。もっとグローバルな視野のようなものを持たないといけないのではないか。対照的に山田作品の方は、思想に関する「手続き」について潔癖な作者だけに、わかりきったことは言わないで、思考の上澄みの部分をすくって出してきている。ただ、その分少しわかりにくいかもしれない。

 唐突のようだが、市村弘正と吉増剛造の対談集『この時代の縁で』が今手元にあって、そこにこんな言葉がある。「隠喩が死んじゃったら、じゃあ、われわれはどうやって生きていくんだろう。」…ぼくには現代短歌はたとえて言えばマニエリスムで、一回隠喩が死んでしまっているのにそれを見ないようにして、意識の隅に入れないで儀式を続けているだけのものだという気がしてならないのだが、だからと言って書き続けることは大切だし、その欲求は非常に強いものなのだから、ここでつべこべ言っても始まらないのだが、そこで開き直るのか、それとも、何か理由や根拠のようなものを必死に捜し始めるかでは、大きく態度が異なって来るのではないかと思うのだ。ついでに言うと、肩の力を抜くということは、「自己」であることとか、「独創的」なものへのあくなき意欲を持つということではなくて、事物とことばの「他者性」の前にさらされ続けるということなのだ。それを近代短歌はたまたま「写生」と言ってみた、というのに過ぎないのだと思う。

ばら色のながき放尿なりしかな凍てる地上に放つものあり       佐伯裕子
  物がみな象をうしなう源氏河原うすずみ色に少女はかがむ     飯沼鮎子
わが祖母は「独りを慎み、たのしみて」世を過ぎにけり苦のまされども 中川佐和子
さまざまの声に呼ばれし日の終り無口に寒の夕水にほふ      宮崎茂美
ことばよりまなざしをこそ棕櫚の葉にこごれる雪の透きとおるまで    釜田初音
  この爪も覚えておかむホルマリン浸けのごとかる君が左手の     星河安友子

 われわれは光と影の交錯する世界に生きている。それをとらえる短歌のことばの豊富さには、いつものことながら感動する。事物がことばによって提示されると同時に、まるで魔法のように情緒のかたまりが手渡される。 

  からからの白い林のなかで知る風のやみかた樹のこわれかた    小林久美子
  見つけるわきっとあなたを見つけるわ母をかきわけ姉をすりぬけ    東 直子

 この二人が姉妹なのだということはさして重要な情報ではない。同じ口語でも、二人の目指すものはちがっている。東さんが呪師なのだとしたら、小林さんはそれを描く絵師である。しかし、十数軒しかない村で、池田はるみさんの先祖と二人の先祖が姻戚関係にあったというのは、恐るべき偶然である。  《九八年八月号》

一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄 6月から12月

2017年01月29日 | 現代短歌
以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』の前半の6月から12月の部分である。

○六月号
  じわじわと顔の白さが浮び出るポラロイド写真のような復讐    加藤治郎
  人体の打ちあう音が底ごもる部屋にナイフは清潔である

どこか映画を見ているような物語性が感じられること、それが加藤作品の特徴のひとつではないかと思う。私事の澱みがあるかもしれない作でも、一首めのように、けっこうニヒルで格好いいのだ。

 内腿を撫づるがごとくしてゐたり芽吹きの前の桜木の幹を    大辻隆弘

芽吹く前だから山桜かと思って引いてみたが、この頃は染井吉野を思い浮かべる読者が多いだろう。そうすると、これは咲いたあとになるのか。みだりがわしき落花は風に飛ばされ、雨に洗われた後なのか、その辺がややそぐわない気がする。でも、上句のエロティックな感じがいい。師風の継承と、そこからの逸脱、さらには超脱が、依然として作者の課題かと思う。むろん、他人事ではない。

 雪はみなきのう解けたり黙々と鞭のかたちに道つづきいる   大滝和子
  粘土子という名の女この国にふたりくらいはいないだろうか

自同律の不快と恍惚を歌い続ける大滝ワールドは、時に同語反復の単調さに陥りそうになりながらも、間歇的な修辞の小爆発によって、その鬱血を瞬時に吹き払ってしまうところに特徴がある。

  キューピット風に犬歯のない顔で笑いながら苦しみを言う   東 直子

 何かいろいろと悩みながら試行しているという印象を受けた一連で、端的に言うと、どこかひっかかって来るものが乏しいような気がする。ここからもうひとつ出てゆくには、他者の視線が必要である。二・三人ぐらいで緻密な歌会をやった方がいいのだろうなと、老婆心ながら思う。掲出歌はことばの輪郭がはっきりしていて、「苦しみ」を言う主体の変によじれた意識のありようは伝わる。

  黄昏に毛穴のような目を開く半身不随の都市と俺とが    江田浩司
  血の付いたメスを真水で洗うごと考えており妻への愛を
 戦いの始めは昏くふるえつつ無数の手にて血をぬかれゆく

 どこか悲壮な感じが漂う。「関係」への鋼のごとき意志を感じた一連であった。愚直なまでに闘っている。「生活」の雑事は、そういう本質的な問いかけから人間を救ってくれるものだとぼくは思うものだが、それが生活というものだろうとこれまで思って来たが、作者は「生活」をしつつ、この高度な観念性を手放さない。観念が「生活」であるような「関係」を維持しようとしている。それは大変だろう。だから、しばらく続いたGセンター云々という標題の一連には、ひやひやした。ついに無理がたたって江田さん癌になっちまったのかと思ったからである。どうもそうではなかったらしくてよかった。ちなみにあの一連、「私事」と「観念」の折り合いの付け方が奇矯にすぎてわからないものが多い。だから読みのスタンスがとれない。そういう読みのスタンスを破壊することを意図した作品だと作者は言うかもしれないが、「Gセンター」は生々しすぎる。遊びの入り込む余地がない。何度も言うが、短歌の場合は、今月の一連の方がどうしても読者には伝わりやすい。それはこの詩型が百年がかりで作り上げて来た生理だからである。これは先の江田さんの散文詩集への言及とは別である。「私性」についての問題を典型として、ジャンルは読み方を規定している面がある。それを負性としてとらえるだけではなく、われわれはそれを利用している。利用しながら疑わないのはおかしいと江田さんは言うだろう。それは正論である。ただ、論理的に正しいことがそのまま演繹的に正しい詩の実践(変な表現だが)に直結するとは限らない。「前衛短歌」の問題を、江田さんは考えるべきである。ぼくらは、それを丁寧にやらねばならないと思っている。

  焼け石を踏むはげしさに欲望のカラカラ浴場ありつづけたり    松原未知子

 「欲望」という概念語が歌の均整を破壊しそうになっている。それを百も承知で作者はやっているのだ。この一首が同時代と重なるものを持つように文脈を作り変えることは可能だろうか。小池光の『岡井隆』には、そこのところのヒントが示されていた。もっとも小池はこの歌の「欲望」はあまり支持しないかもしれないが。一連が、イタリアにおける作者の個人的な想念の遊びから時代の文脈へと越境するためには何が必要なのか。そんなことは望まない、と作者は言うだろうか。でも、作者の近刊歌集『戀人(ラバー)のあばら』の〈死に至る病をひとつ下さつていいのよ永遠に生きるのは嫌〉という歌などには、はっきりとそれが感じられた。もっとも個人的な詠嘆であるものが、本質的なところで時代を刺す。松原さんはそういうものを可能にできる作者の一人だと思っている。
 今月は後半から言及しはじめたら、前半まで及ばなかった。申し訳ない。
   《九八年九月号》
○ 七月号
 
  小学校終えしは去年けだるさが子にうっすらと生えはじめたり   中川佐和子
  クローン鮃クローン分葱…はじめから大人の顔の少年少女    桂 保子

 二首とも思い当たるところがある歌だ。学校文化が疲弊の極に達して求心力を失っている一方で、子供社会も小さな単位に解体してしまっている。そのため、柔軟な人間関係を作り上げることが苦手が子供が増えている。いじめもある。いじめられないように気をつかうだけだって大変だ。情報社会の中で、子供たちはみんな変に大人びている。流行に遅れないように。他人のことばに機敏に反応しないといけない。だから、みんなクローンのようにどこか似通って来る。そうやって気をつかって生きて行くのは、実に大変なのだ。「けだるさが子にうっすらと生えはじめたり」黴のような、大人の体毛のような倦怠感。

  オリーブの油煮つめしアレッポの石鹸は母の戦後のにほひ    水沢遙子
  恋を禁ずる父に順う思春期をするどかりけり機関車の笛   釜田初音
  頬に風 老母殺しをうたいいし青森訛りの甦りくる   佐伯裕子

追憶の歌を並べてみた。アレッポはシリアの商業都市。輸入物の石鹸の香が母への追想を誘う。二首めの作者の郷里は山形だった。一九六〇年前後は、まだ現役の機関車が多く走っていた。茶色い貨車の板壁、網棚に乗せられた学生鞄、手にしているのは岩波文庫、というところか。三首めの青森訛りの人物は、たぶん寺山修司だろう。

  かひなにはおほぞらがある春霰散じてゐると瞑りて思ふ     紀野 恵
  ぬるみ来る水を湛うる泥の層の必ずや抱く東京どぜう     柴 善之助

 春の季節が感じられる歌。一首目、両腕をひろげて大空の広さを受け止めている、その時、いまどこかで霰が散っていると感じられた。季節の空気に渾然と一体化したところでよんだ歌、というように解釈してみた。二首め、魚屋の店先にしゃがんで、水面に浮き沈みするドジョウを見ていた幼い頃のことを思い出した。

  さながら引き潮のうみ夕空に残されし星みな透きとおる   さいとうなおこ
  キューピーの背中に走るふたすぢの眉のごときは羽根だと教ふ    大辻隆弘
  なにも映らぬ画面ではない父と母と植木鋏と床のひろがり   加藤聡明

 どれも淡いようでいて、確実に何かをとらえている歌。一首めは、夕空の淡い星の光を、引き潮のあとのきらめきにたとえたところがいい。二首めの「これは何か」と問う子も、それに答える父も無心である。そこがいい。三首めは、消えているテレビのブラウン管に室内の様子が反射しているのだろう。それをことさらに「なにも映らぬ画面ではない」と言ってみせる。思っていることを言わないことから、却って屈従の思いはにじみ出る。そのあたりの引き方が巧みである。言い換えると、抑え込んでしまっている。「父と母と」というのは自分ら夫婦のことではないのか。詳しいことはわからない。けれども、そうだろうと感じさせる。日々をして、あるがままに在らしめよ。加藤さんは現代の修道師であろう。

  逢ふたびに勃起してゐる青年といふ逞しき隠喩をわれに!  松原未知子

 松原さんのセクシーな歌のファンは多い。きっと、もろにエレクトラ・コンプレックスの歌なのだ。『戀人のあばら』の中にあった〈彼らみなホモ・セクシャルでありしことわが感覺の芯を苛む〉という歌が傍証となるだろう。にしても、この凶暴なエッチな雰囲気、好きです。

  胸板に耳を当てればあかねさすアレキサンドリア図書館の見ゆ   大滝和子

 文語で統一すると「当つれば」で、私としてはその方が居心地がいいのだけれども、大滝さんのような口語派の一番苦しいところがここである。胸板と言っているけれども、何に耳を当てているのかは、わからない。現実にこんな男性がいてたまるか。ひょっとして、アレキサンダー大王そのひと。ううむ。

  人から軽く見られているのは背すじが丸いからだ影よワタクシ  岡田智行

 掲出歌は結句がやや難ありなのだが、この歌のかんじだと、岡田さんは「未来」では上野久雄さんの歌などをもっと研究したらどうか。意匠が境涯詠の成立を邪魔しているというか、そんな感じなのだ。

  ドアのノブはいつも冷たし「ヴェネツィアの宿」読み終えて触れたるノブも
                                   東 めぐみ

 一連、どれもムード先行の歌である。これもそうなのだが、かろうじて我慢の範囲内だ。読者も悪いが、こんな甘ったるい詩に安住している作者も悪い。    《九八年十月号》

 付記。当時「美志」という雑誌を一緒に出していたので、この毒舌が可能だった。

○ 八月号

 〈朝が来るからさよならを言えるから〉安っぽい詩のような抱擁      東 直子

 上句はどこかで聞いたようなフレーズである。と同時に、自分の気持を託してしまいたくなるような言葉でもある。作者は、この歌の中の男と女を両方とも許してはいない。でも、受け入れている。朝が来るから、さよならを言えるから。そんなの理由にならないけれど、まるでそういう悲しい抱擁のように、「今」がある。言葉はそれをつかまえている。

  つゆの雨知らぬ間に忘れゐし人は(ふあん)ファゴット吹きでありしよ  紀野 恵
使ひ魔をつね先立ててまつすぐに(きぐ)あゆむかなはららく茨

 今月の一連、どれもいい。作者はことばの音楽を奏でるソリストだから、他人もまた奏者として遇するがごとし。でも、(ふあん)とあるから、何か恋の予感のような、わくわくとした感じと、うまく演奏してくれるのかしら、というコンサート会場に出かけた時のようなスリルを同時に覚えているのだろう。ファゴットが(ふあん)と鳴りそうなおもしろさもある。昔読んだ『トニオ・クレーゲル』の雰囲気をいま思い出した。あの小説の後半に出てくるもう一人の少女、のような、もう一人の男性…。うん、やっぱり恋の思いだ。…それと、アートっていまや郷愁なのかもしれない。音楽の詩としての短歌、というのも残念ながらそうだから、この括弧の技法は、作者が最大限そういう状況にあらがおうとしているものととりたい。

  カピバラはあせた茶色の風合いのセーターみたいな沼を知ってる    小林久美子

今月の一連、南米の風物が感じられて楽しかった。カピバラは、愛らしい目をした巨大なねずみで、水辺に棲息している。南米の事物には、等身大の無限があるようで、現在という時間の底が抜けている。時間のありようが、日本に住むわれわれとどうもちがう。これはただの童画的な世界ではない。ぼくは小林さんには、もっといろいろなことを教えてもらいたいと思っている。

  うちけぶる大和の雨季や経蔵に心経の心滲みゐるらし     黒木三千代

一読して、深い息を吐く。同じ一連の
〈紅葉がそこに散りつむやうに積む千年、まつくろな両界曼荼羅〉にしても、
〈仏龕の扉絵すすけ目に見えぬ菩薩の朱唇ひらめくよ ほら〉
にしても、見つめているのは想念の闇であり、存在の暗がりなのである。作者は雨季の歌の名手だった。

  休日の奴の会社の硝子ドアあかいエックス暗いエックス       岡田智行

 先月は言い足りず、送稿したあとで後悔した。この歌には長い詞書があって、「Xコーポレーション四日市出張所はわが家から歩いて3分の所にある。」とある。「奴」はたぶん友人なのだろう。ぼくは岡田さんのこういうさりげないけれども鋭いところがあるような歌が読みたいと思う。

大きく白い布の嚢がうごめきて苦しむはてに女を産めり     大辻隆弘
生娘のまま衰へむししむらの火照りを嘆き白布を拡ぐ

 一連のはじめの三首(全部で何首めまでかが、わからない)は観劇の歌だろう。いわゆる新劇風の舞台ではなくて、「何もない空間」(ピーター・ブルック)に大きな白い布と役者だけがいるような、前衛的な演劇なのではないかと思う。詞書に場所だけしか書いていないので、その先のことはわからないけれど、手ごたえは充分だ。

  容疑者は早起きである読売をまるめて日比谷線に駆け込む     加藤治郎

 加藤さんが時々作る、「サラリーマン短歌」とでも言うのかな、こういう傾向の作品がぼくは結構好きなのだけれども、あわただしく走るように列車に乗降する自分たちがまるで容疑者で、何かに追われて逃げているみたいだと言っている。何万人もの群衆が行き来する通勤ラッシュの人込みの中には、実際に本物の犯罪容疑者も含まれているにちがいないけれど。

  下着やうファッションをとめ柳々と夕べ都会の面白をとめ    池田はるみ

 今月の一連はあまり賛成でないのだが、「柳々と」がとても生きている言葉遣いなのにひかれた。

  分娩後もなお夜明け前この闇は死ぬ時に還る闇と同じか      大田美和

恐るべき歌を作る人だと思う。この一連を読むと、ぼくは怖くて一キロぐらい走って逃げたくなる。

見たくない認めたくないわたくしが滲みださずや十薬匂う     桂 保子

 自分の発した言葉が後になって何度も頭の中でリピートされてしまって、すごく苦しいという羞恥の感覚。そういうタイプの人に短歌とか歌会とか、時に牢獄のようにつらく感じられることはあるのだろうなあ。桂さんがそうだというのではなくて、この歌からふと思い出した。ほかに、

平編みに時間が編まれゐる真昼向きを変へゆく蕾の百合は      水沢遙子
掌の中に風をすくって耳もとで鳴らす遊びを知っていますか     さいとうなおこ

   《九八年十一月号》
○ 九月号

  浴槽に浸りてをればひるの道に食みしいたどりの酢ゆきがもどる    宮崎茂美
 晴れわたる径をゆくときくたびれてもうはためかぬ旗思ひ出す
  百歳を過ぎにしいのちさみしけれ口許よごし母がもの食む
  身のほとり誰もあらざり夜のテレビ独裁政権の一つが終る

 一連の後半四首を引いた。「もうはためかぬ旗」、百歳の母、隣に誰もいない夜。どれも、たしかな手ごたえが感じられる歌だ。一首め、岩波の『古語辞典』をみると古代には「酸し」に「酢し」の字をあてた例があるようだが、一首めの場合はどうなのか。酢の物を食べたということだろうか。「酸ゆき」は「酸き」と書いて「すゆ・き」と読ませるのではないかと思うが、それでは「す・き」と区別がつかない。小学館の『日本国語大辞典』で「すゆ・し」の項をみると白秋の歌に「酸ゆき」という送り仮名があり、吉井勇に「酸き」という送り仮名の用例がある。

  胸もとに粥こぼしつつこの母の凪の時間の仄明るさは    桂 保子

 宮崎さんの掲出歌の三首めと同じ場面なのだが、こちらは下句に工夫がある。比較してみてどちらに優劣があるということはない。「さみしけれ」と言いたい時は言えばいいし、「仄明るさ」を見出し得る時は、そこに願いを託せばよい。ことばが思いに添ってくれるのは、有り難いことである。

  誕生のその瞬間の鋭さに夏の陽くまなく森をつつめり   大谷真紀子
  念入りに掻きならさるる田の泥の甘からざらんや黒蜜の色   宮原望子
  いま植えしばかりの稲が水面の雲泡立てて戦がんとすも  
  川床の石を朱に染め流れゆく水の心にまぎれざらめや   釜田初音

大谷さんの歌は明るくてすがすがしい。何も考えずに、楽しめばよい歌だと思う。宮原さんの歌も、こういう歌を読んでいると、ぼくはうれしくてしかたがない。田植えの歌がこんなに新鮮なのはなぜだろう。釜田さんの作品は、夕べの光に川床が朱に染まる景色をよんだものか。やり処のない感情を水に託してしまいたいという、沈痛な思いである。

  犀川のさざれ石なる文鎮がひとつ転がり机上は汀    道浦母都子
  書き疲れまどろむ夢にまぎれ入り父の楠の木 母の合歓の木

 二首め、「くすのき」は「くす」とも言うが、「楠の木」は「くすのき」と読むか。仮名がふってあれば問題ないのだろう。父の木、母の木という字面には活気がある。ただ「まぎれ入り」は、連体形にした方が落ち着きがあるような気がする。こちらは受け身で夢に入られる方なのだから、「入り来る」も案としては存在するだろうと思うがどうか。

  格闘する男たちを背に扉閉ずヤマボウシ白く咲きみてる午後   小林成子

 横浜アリーナの競技場で作者は何を見たのだろうか。下句の転換があざやかだ。一連は、どの歌ももう少し突っ込んでみたいところ。

  マリアンナの嘆き「涙」の響きよし遠ざかる頃陣痛きざす    大田美和
  かなしみが声になるまでの数秒を開いたままなり子の目と口は    干場しおり
 自転車に乗る子を押して夜の道の草の香しるきひとところ過ぐ    大辻隆弘
  学校の五月の正門はいり来る柩がこんなに明るいなんて   中川佐和子
  どんよりと性を負いつつ育ちゆく子供の体と心と言いし
  けんくんは学校嫌い いちじくの梢に隠れ見えなくなって   田中 槐
  やみくもに奔り来たれる母に似ず婚に揺れいる娘の細き首   美濃和哥

 今月は子にまつわる歌にいい作品が多いので、まとめてあげてみた。一首めはまだ生まれていないけれど…。誕生から自立まで、思えば長い道程だ。子をうたうことが私状況をこえて時代の課題にそのまま接しているというような角度を、いつも求める必要はないが、やはり求めてゆきたいと思う。

 中川さんの著名な一首、〈なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ〉

を久しぶりに思い出した。こういう中川さんの角度はそう変化していないのではないか。 干場さんの作品はひとつひとつの出来事への新鮮な感覚を感じさせる。母親は子供とともにもう一度生まれ直すのかもしれない。それがだんだん成長するに従って、田中作品のように大人の思う通りには行かなくなり、中川作品のように不可解な生き物となり、おしまいに美濃作品のようにもどかしい他者として立ち上がる。大辻作品は、月光を浴びる幼子の歌以来、ずっと悲劇的な生のドラマを立ち上がらせようとして来た。掲出歌の甘さはいいのではないか。 《九八年十二月号》
  
○ 十月号

  旅行記は放棄(ムール貝)の外殻はこの夕闇におゝうづたかし   紀野 恵

 徒労の末に、ある企図を放棄する。それが何かは知らない。けれども、手作業の結果である無数の貝の殻、これをどうしてくれよう。暮れかかって途方に暮れる。……そんなような物語ができあがる。グラックの『シルトの岸辺』って、紀野さんは読んだことがありますか。

  よくしなる大きな弓の輪のなかを二匹の蝶がくぐっていった  小林久美子

 この人もシュールレアリストだろう。先日、小林さんの歌集『ピラルク』について画家の北川民次を引き合いに出して考えてみたのだが、この作者が芯の部分でどういう社会性を持っているのかが、実は私にはまだよくわからない。それは表現として出て来ていないのではないかと思う。だから、謎の多い作者なのである。

  胸にわく霧のごときをなだめつつ 殺戮は花ティムールの華    さいとうなおこ

世界史は虐殺の歴史と言っても過言ではない。試みに地図帳を拡げて空想旅行をしてみても、出会うのは死者ばかり。絢爛たる遺物はすべて血の代償だ。

  人並みに罪逃れんとする死者のきみと輪ゴムに撃ち合う晨   柚木 新

 前後の歌によると、夢の中で旧知の人物に実は自分は人殺しをしたのだと告白されるのである。しかも、その人はすでに死んでいて、この世にいない。「輪ゴムに撃ち合う」ような遊びをする仲というのは、たぶん親しかった友人だろう。人間の想念というもののうす暗さに触れている歌。

  ひたすらにさまよふ数日、眼なき闇の空間に観音さまが旗ふる   宮崎茂美

 目の手術をしたあとの作品。「眼なき闇の空間に」がまだ推敲の余地ありのようだが、結句はおもしろい。ことばを通してあらわれてくる魂の深さのようなものを思う。

  頽廃に培はれたる無垢ゆゑに傷あまたありあまたくれなゐ        高島 裕
  浮遊する固有名詞のかずかずを輝かしめて始発待ちをり  
 
 この一連は時代の痛みにじかに触れているだろう。高島さんの修辞は、武闘アニメのキャラクターのように装飾過剰のところが微妙にポスト・モダン風でもあるという、かなり危うい面がある。たとえば一連のはじめの歌の「病める天使の面」という表現は通俗だと思う一方で、あえて通俗的な行き方を作者は選んでいるのだろうとも思う。わざと過剰にしてあるものを過剰だから直しなさいという技術批評は滑稽だろう。でも、掲出歌の一首めは結句がくどい。高島さんのねらいだと、一首のバランスについての月並みなコメントが有効な局面と、そうでない局面との直感的な見分けが大事になってくる。作者が全部自分でそこのところの技術的な反省を担いきるというのは至難のわざである。先日「ドアーズ」という映画を見ていて思ったのだが、ある文体を究極的なところで支えるのは時代の波のようなものなのであって、そうなると細部なんて吹っ飛んでしまうものなのだ。最終的には、どんな強い基調音が鳴り響いているのかということに尽きるのかもしれない。

  雲の峰をうすく夕陽が染めている たむろする君等のはるかな上だ   柴 善之助

 こういう若者への視線もある。諧謔の中に仕方ねェな、という気分も感じられる。

  怪談より事実は奇にして男性の子宮内膜症をテレビは映す   宮原望子
  ちかちかと騒ぐ精子の映像はじょじょに身内に響くともなく     佐伯裕子
  戦利品なるわたくしが賭けられているここちせりウィンブルドン    大滝和子
  あるだけの花投げ入れよトゥールーズ競技場てふ棺桶のため    田中 槐

 テレビの映像をきっかけとしている歌を並べてみた。提示されたばかりの映像に対して見る側はとりあえず責任はない。けれども不断に何らかの情緒的な反応を強いられる。強い違和感を覚える映像もある。宮原作品は従来からのひとつの行き方である。作者は事実をのべて余計な感想をさしはさまない。佐伯作品は環境ホルモンに関連するニュース映像に漠然とした不安と居心地の悪さを覚えている。あとの二首は、言わずと知れたテニスとサッカーの観戦の歌。周知の素材にどれだけ修辞が立ち向かうことができるかを楽しんでいる。こちらは、つい風刺の刺のようなものを期待してしまうのだが、短歌が蝋人形の陳列館にならないように、二人とも健闘しているのは、まちがいがないところだ。 

 この月次批評も今月を入れてあと三回になった。私はおなじみの作者のおなじみの作風の歌というのは、あまり取り上げたくない。どこか目新しさがほしい。その一方で、なるたけ出来がいい歌を引くべきではないかとも思うから、悩む。「~してほしい」ということばづかいをしたことがあったが、あれは私の高所からの指導的助言などではなく、衷心からの希望の表明であった。

  歩道の柵の小さな穴を灰皿にして参政権行使した話   東 直子
「矢印はみんな矢じりに見えてくる」フライドポテトをかじりつつ言う   門馬真樹

《九九年一月号》
○ 十一月号

  虚しさを喰らい尽くして口を血で濡らす男の独りのこころ     今井正和

 結句で「男の独りのこころ」などと自分で言ってしまうところが危ういし、くどいようにも思うが、何か切実なものが出ている歌と思って読んだ。

  いしぶみに名を刻むため尋ねたずね韓国の農道を行く洪さんの背中  中原千絵子

沖縄戦の死者の一人として「平和の礎」に名を刻むために、韓国に住む遺族のもとを尋ねる洪さんを追うのは、テレビ・カメラか。一連のおしまいに、

  犯罪の家に生れしごとくにもこの国に生れしことを苦しむ

 という作品が置かれることによって、このドキュメントは自身の問題になった。歴史の中の刺を持った記憶。それを覚えておくことと、思い出すことには、困難がともなう。

  藤堂藩京屋敷虜囚儒者姜沆故国韓国旅宿愍然     李 正子
  四百年超えて沈寿官の「帰郷展」南原の鶴が海に翔つとぞ

 やや様式的な作品ではあるが、これも歴史的な記憶を問題にしている。二首目の沈壽官は明治時代の薩摩焼の陶芸家であり、秀吉に朝鮮から拉致されて来た高麗の陶工の子孫である。それを四百年超えての「帰郷」ととらえることのうちには、強い民族的なこだわりがある。

  大ぶりということだけで存在が憎々しけれ新高梨は      道浦母都子
膝たてて「見せてるんだ」と観客に言いにし大地喜和子のおらぬ     佐伯裕子
二十代の三人率ゐる夫と我は見つめられをり少子のくににて    水沢遙子
田村隆一逝き堀田善衛逝き晩夏は運ぶ言葉の柩    秋山律子
置き去りにされたる者は青衿のセルが似合いき祖母とわが呼びて    大谷真紀子

 いずれも句またがりや字余りに特徴がある作品で、新高梨、大地喜和子、少子のくに(中国)、田村隆一と堀田善衛の訃音と、それぞれに具体的な内容の核があり、一読して納得させられる。(秋山作品は確認できたので誤記を正して引いた。)

  思い出すことならできる俺のいた子宮が蜃気楼だってこと        釜田初音
  少年が青年になれぬ最果ての砂みりみりとスーダン・ミッション     美濃和哥

 これは一連の中で読まないとテーマがつかみにくい歌。成長し、自立しようとして苦闘している息子をはらはらしながら見ている母親の気持を歌ったものだろう。

  右の視野左の視野に重ならず白昼は人の影のみ増えて    さいとうなおこ
八月の立山に来つ悼むとはケルン積むこと鳥語聞くこと     桂 保子

 澄明な空間の把握がある作品で、いずれも作者が資質として持っているものが生かされている。外界の事物の感官への訴えを自意識や自分の想念とバランスすること、そこに短歌の醍醐味はある。

わが産みてわが預れる子らなればやすらぎ近くにあらむを信ずる     旗谷早織
  寸暇なく勤しむ小人気がつけばわれの行く手の整ひゐたり    

 自分の子を自分が「預れる」と表現するところにこの人の意識というものの特異さがあり、それを言葉にするのはいかにも困難なことだろうと思う。そこで「小人」というような奇矯な着想が出てくるのだが、そのあたりの思考の回路に着いていけない読者はここでつまずくだろう。晩年の梶井基次郎に見えたそうだが、小人が見えるというのは心身ともに危険な時だそうである。それを知ってか知らずか、あえて奇想のひとつとして用いる作者の意識のよじれは相当なもので、この人には何かがある、だ。……約半分をコメントしたところで、もう紙数が尽きかけている。

  け し て 走ってはだめ砂と粉わからなくなるからきをつけて    小林久美子

 「消して」と「決して」がダブっている。語と語との間にある境界があいまいに融解した時に、言葉は小さな叫びのようなものをもらしながら発光することがある。一連はこの欄の今月一番の実験作。あとは引くのみ。

  若者の流れのなかにいるわけだタクシーの鼻にズボンこすられ    柴 善之助
  戦犯の汚名に死にし人の無念ありありと顕つ若きまなざし     宮崎茂美
  自滅する星のあること若き日にまして生産的仕事為さず     柚木 新
力づくの死なぬ男がおほ暴れアメリカ映画ありがたきかな    池田はるみ
  公の身はまぶしさに耐へながらふかく見据ゑて言質を取りぬ    高島 裕
  精神は追い身体は追われつつビビアン・スーの朱色の部分      中澤 系
  数字マニアの幼児の家に水こぼれ蜂のいくつか死んでいたりき     東 直子
  傘の骨なほして旅をゆきしひと あくがれはかつてみづみづしくて    大辻隆弘
  フル・バケツ・オブ・キクノハナ盆が来てさはさは道に売られてゐたり 紀野 恵
ひまわりは種をがばりと晒しいつ 母の嘔吐はかなしかりけり      加藤治郎
   《九九年二月号》
○ 十二月号

  三島由紀夫は金槌だつた 白浜に海水パンツ埋もれたまま    松原未知子
セルジュ・ゲンスブールに
  君はあらゆる放尿をしてみせたセクシァリテの出口もとめて

 一連の中でこの二首に丸をつけていたら、池田はるみさんもこれがいいと言っていた。実に高級なウィットがあって、楽しい。口語文体も字余りも、ごく自然で滞るところがない。三島由紀夫は強面のニヒリストでありながら言動の端々に男の稚気を感じさせた。また、育ちの良さもにじみでていた。絶版にされた福島次郎の小説『剣と寒虹』のエピソードも、その一面を物語るものであろう。

    遣らず雨あとから郁乎全句集
  真横から見られてゐしは犬神か菊座か十月のまくらやみ     加藤聡明

 俳句様の詞書をうけて、それと対話するように歌一首が並ぶという構成で、とりあげられている俳人の名がどれも異色である。その俳人の句柄を歌一首でつかみとりながら、同時に自己の生の苦みもどこかに投影させている。掲出歌は、いかにも加藤郁乎好みの衆道系の語彙の選択が楽しい。

  あまだむ軽の道ゆく点鬼簿や魔女の箒になりたる言葉     江田浩司
  あまつたふ入り日に濡れし鉄塔に狐の耳の生えしもの憂さ

 初句に枕詞を据えての一連。一連には「首」や「波」といった作者の好きな語彙が出てくる歌があるが、読者としては、魔女の箒や鉄塔に生える狐の耳の意外さの方をとりたい。一首め、「詩」を書くことは「死」を書くことであるというのは、ブランショなど引っ張ってくるまでもなく現代の文学にとっては自明のことだ。ただ詩的言語は不毛さと背中合わせのところがあって、いささかの自戒をこめて言うなら、使えば使うほど修辞のなかで言葉が死んでゆくということがある。人がことばの後に「実」を求めるのはそのような時である。だから、二首めの寂寥感の方が分かりやすい。

  ゆっくりと時間流れよ紀州には仏の華の降る海がある     道浦母都子

 古代の仏教者たちは普陀洛渡海を夢見て、那智熊野の海において捨身の行をおこなったと伝えられている。豊饒な黄金光に包まれた幻想に身をまかせることが、すなわち死についての想念であったというのは、考えてみれば実に幸福なことだ。

  ソンブレロ星雲探すきみたちへ 星の呼吸に息を合わせよ    さいとうなおこ

 謎めいた一連である。短歌によって祈る、そういう営みを示す一連であるかもしれないと思った。

  告知して刻む時間の透くさえに砂降る遠き街を言うなり     秋山律子
  ふうせんかずらの種とり終えて来年も生きるつもりと母ははじらう   中原千絵子
  ちちははの昏き部分を亨けしこと呟くわれを見ているわれは    小林成子
  等分に子らを愛さず世を過ぎし小柄な祖母をましぐらに想う    中川佐和子
  梅雨の夜の底に無言の一家族追ひつ追はれつワイパーはづむ    旗谷早織

 それぞれが言いにくいところを言葉にかえながら、一歩も退くことができない現実を前に、それをあるがままに受け止めて立っているというおもむきだ。肉親にまつわる事柄を認識する時の角度のようなものが、各人各様である。その認識、思いの切実さとリアルさに胸をうたれる。

  青く透くホースのうちにさゐさゐと夏のをはりの水うごきをり    水沢遙子
  つむじ風の音水の音雷の音冷え冷えと秋は山よりくだる    李 正子
  官能の世界だという勘違いそれでもマウスで海をさまよう     門馬真樹

 さわやかな印象のある歌を引いてみた。一首めは「さいさいと」が何とも言えず味がある。二首めは単純に言っているようでいて、長い時間をかけてつかみとった実感のようなものが歌われているのだと思った。三首めは、パソコンの原色の画面には「官能」的な陶酔感にさそうようなものがあるのかもしれない。ウィンドウズの画面にしても、ブルーが基調だ。

スイッチをぱちんと点けてぼくというオペレーションシステム作動する 中澤 系
げんじつが僕はとても欲しかった一文字ごとに愛が遠いよ      東 直子
  かの人とあなたのあわいの山脈の尾根の芝生を少しいただく     小林久美子

 一首めをみていて思うことは、案外にこの感覚は楽天的なのではないかということだ。二首めは、「ぼく」の前に壁のように透明な膜のように介在している主なものは〈言語〉だと言いたそうだが、果たしてそうか。わかりやすい方に寄ってしまったかもしれない。三首めも、そのあたりの〈捉えがたい何か〉の把握にかかわる歌だ。このひとたちの追究すべき領野は、まだまだ拡がっている。

 以上をもってこの数年間にわたった月旦の重責を離れる。今年は節目として散文集*を出すつもりである。愛読してくださった方々にお礼を申し上げたい。
    *『解読現代短歌』九九年四月刊のこと。

一九九九年の「未来」月集欄(七・八・九月)

2017年01月29日 | 現代短歌
以下は、二〇一〇年一月九日刊の小冊子『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と九九年の「未来」月集欄(七・八・九)を読む』の後半部分である。

◇一九九九年「未来」月集欄(七・八・九)を読む◇

○ 七月集を読む
  病み癒えし夫と籾蒔く苗代に吹かれてあまた葩あそぶ          三石倫子

「葩」は、はなびらと読む。漢和辞典を見ると、『詩経』のことを「葩経」と美称したとある。身近にいる若い世代になると「やみいえし/つまともみまく/なわしろに」と、すらすら読めるかどうかが、もう疑わしい。苗代を見たことがない人もいるだろう。この歌の苗代は、昔ながらの水苗代のようだ。きれいに鋤いた田の泥土の上に、鏡のように空を反射する水が張られている。そこに散り落ちた桜のはなびらが風に吹かれ、水の動くにつれて足もとに浮遊する。生きていることのありがたさをしみじみとかみしめている歌だ。
  削りゆく梨の接穂の肌のいろいきいるものの湿りたしかめ        塚平増男

 これも春の農作業の歌。生木の切り口の鮮やかな印象と、その若枝に寄せる作者のいつくしむような思いが伝わってくる。
  草引けば久しき南風の畑くまにひたひたと寄る波あたたかし      大石寿満子
  蕗の香をきざめば窓に見はるかす淡むらさきに沖のひろごり

 これも春の到来をよろこぶ気持が伝わってくる一連である。体を包み込むような春の海風。南風(はえ)は関東では使わないことばで、西日本の雰囲気を持ったことばだ。畑のすぐ先に波が寄せ、厨の窓からも日本海が見渡せる。冬は大変だが、それだけに春の喜びはひとしおだろう。

  生き残る寂しさ知らず死にゆきしとまれ耿々と連翹の垣        山口倶生子
  もう沢山明日など来るなと町の音の底ごもる夜へ身を沈めつつ

 「生きながら他界に遊ぶ」という母親の姿を見つめている一連。四句めの激しい語調には、抑えこんでいる思いが迸っているようだ。二首めは、もう沢山、で小休止するのだろう。

  汚れなきゃ汚れてなけりゃ人生は解りはしないとああ若すぎた     太波牟礼男
  進軍の喇叭は若きが吹くだろう〈万軍の父〉遠い言葉だ

 この作者の剽軽な放言の口調には、ある達観と脱俗のユーモアが感じられる。作者の口語文体が醸し出すアイロニーの中にある含羞を感じ取るべきであろう。「汚れる」という感じ方は、藤枝静男の小説にあるような強い倫理的なものがあって出てくる。旧世代は実存主義とか無頼派というような理論的な裏付けに加えて、男性中心社会の中ではぐくまれた「男の美学」みたいな考え方を共有している。二首めは先日の日米ガイドライン法案の国会通過などを踏まえて、日本の戦後思想が事実上形骸化されつつあることへの感慨をのべたものである。引用されている賛美歌の詞章は、進軍ということばの連想で出てきたのだろう。

  川水をゲルに配りゆく給水車ここを発ち今の名もマルクス通り      佐藤正次
  スフバートル広場を囲む庁舎劇場俘虜が建てたり君知らざれど    
  胸にとどろく朝のスコール敗走の兵ら消えにし峽をいろどる    石原きみ子

 佐藤作品はモンゴルに抑留の記憶をたどる旅の一連の歌。一首め、大幅の字余りで読みにくいが事柄は削れまい。五五七の下句はそれなりに雰囲気があってよいと思う。ただ二句めを七音におさめてみてはどうか。石原作品はフィリピンのマニラでの一首。初句七音はこれでいいと思った。

  「辞本涯」と石に刻みて潮路開く唐へと渡る学の憧れ          近藤芳美
   文字持ちて渡来せし人らの書き遺す東歌のこと言ふ人もなし      細川謙三

 古代憧憬の歌二首。一首めは長崎県五島に旅行した際の歌で、これは岐宿の「遣唐使船宿泊の地」の碑文のことか。二首めは畑作をはじめ種々の技術を持って東国に広がった渡来人たちが、当然東歌の作者でもあっただろうという推理をのべた歌。

  ホームレス小父さんと髭を違ヘつつ堂島川を覗きつつぞある       岡井 隆

 一連は結句を「ぞある」でそろえて、肩の力を抜いて作っている。ユーモラスな歌で、思わず頬がゆるんだ。
  また考え幹の樺色の妙を出す彩はもまこと体力のうち          鎌田弘子

 これは作者が木彫り工芸にたずさわっていることを知らないとわかりにくい歌かもしれない。木の色艶を出すのは磨きをかけたりする手間暇のかかる作業なのだろう。

  ひとさまに風に運ばれゆくさくら空のまほらを人渉るなり        水上千沙
  銹しごときこころにおりし幾日なれ歩まむに寒さまつわりやまず

 一首め、「一様に」という語は辞書にあるが、これを訓読みした用例は『日本国語大辞典』にものっていない。二首め、この歌にしろ「こころ峙つ」という一連九首めの歌にしろ、日頃水上作品に親しんでいる者としては、既知の感じ方だ。でも、この冷え冷えとした叙情は、読んで心地よい。

  にんげんの吐くもろもろの塵がむた昼よりあかし夜のさくらは      浦上規一
  花の洞出でてまた入る花の洞はるか戦のほむら立つ夜を
  想像は寂しきかなや夜の花の道もろともに焼きつくされつ

 桜から戦争を連想する歌として、これは型のある発想のしかたではあるけれども、一連はなかなか凡庸ではない。加齢の苦みを滲ませる重厚な歌である。

  基地抜けて出で来し浜に忽然とゆうなの大木黄に輝けり 比嘉美智子

 こちらはいかにも沖縄らしい歌。三句目は、まだ少し動くかもしれない。ほかに、

  ありのまま見つめて樹のように倒れよと昔読みし詩が素直に浮かぶ    金井秋彦
                               (一九九九年十月号)

 付記。金井さんは歌壇では地味な存在であったかもしれないが、温雅な風貌に鋭気を包んで、譲らぬところは決して譲らず、自己の感受性を全うした貴重な存在だった。今後も研究に価する歌人である。

○ 八月集を読む

  来るべき地の飢餓と荒廃ととり分けて人間の崩壊としての戦争      近藤芳美
  しかもなお人間を信じ思想あれ歴史への絶望を重ね重ねて

 ここでの「人間」というのは、十九世紀的な理念型としての人間である。この一連にのべられている「人間」も「歴史」も、これらの概念にかかわる思想も、二十世紀後半に来て相対化し尽くされたかの観がある。二十一世紀は再び戦争の世紀となるかもしれない。

その要因のひとつに過剰な作物増産による世界中の穀倉地帯の土地の荒廃と、それにともなう食糧飢饉の問題がある。私はこれをNHKの特集番組で知った。こういう思考の断片の提示を、思念の叙情として持続しようとする時に、断言の積み重ねは予言のごとき相貌を呈する。その一方で、逆に一人の繰言ともなりかねない危機をはらんでいる。しかし、それを読者に詩性の発露ととらえさせるのは、近藤芳美という作者の放つオーラのせいである。それを支えているのは文語短歌の格調ではないか。こういうアフォリズムを無理
にも短歌として成り立たせようとする試みは、作者の生涯をかけての力技だった。また、それは広義の「アララギ」エコールの短歌史への寄与の内実をなすものでもあったと思う。
問題はそれを模倣し、継承する側にある。そういう意味では、月集欄を読みつつ一抹の寂しさを感じるのは否めない。

 その一方で、月集欄の作者たちが老いの実相と自己の人生のたそがれを冷静に観照し、受容しようとする姿には心を打たれる。それは切なく、読みながら時々絶句させられたのだった。たとえば右の一首目など。私はこれを絶唱だと思う。

  黒き螺旋のぼりつづけて果てなき一生の末のつばくらめ見む       山口智子
  石ころを蹴れば蹴られし石の声長らえてなお父を赦さず         塩崎 昭
  混沌と生き来てひとりの家ぬちは万の青葉にあおく沈める       城東つきよ
  愛宕山放送局と同年の僕とに同じ時代は過ぎた            太波牟礼夫
  朝鮮の匂いのなかに混りゆくうすぎぬまとうごときかなしみ      桜井登世子
  大部屋の窓より五時五分前まさ目に紅団々たぎりて昇れ         吉田 漱

 一首目を読んで脳裏に浮かぶのは、黒曜石の反射するような不思議な光彩を放つ空である。完全な暗闇ではなく、また逆に天上へと導くような光線の軌条でもなく、絶望に満ちていながら安らかであり、目眩をこらえつつ自己の運命を受け入れる静かな意志が感じられる。二首目を含む一連は、自分の心の中の原型的な傷のようなものを見つめている。石は、沈黙と、問いにならない問いの結晶物としてそこにある。三首目は自己の生に悔いなしという感慨のようにも思えるし、また一方で年月とともに失われたものを思い返すかのようでもある。四首目には、ノスタルジーの中に世俗の責務を超越した余裕のようなものが漂っている。五首目を含む一連を読んで、作者の鶏好みは幼少年期の思い出にかかわっているからなのだと心づいた。六首目の歌は、紅団々というレトロな味わいのあることばを見つけた時点で決まった。夏の大会でとりあげられた<腫れし足ふれなば天地震動す子規に及かずもわが足むくむ>とともに、大病のさなかにこれだけの歌を作れるのはさすがである。掲出歌はむしろ余裕すら感じられる。

  日の丸を斜めによぎる光あれあくまで澄める斜陽ぞよけれ        岡井 隆

 私はこの「人々に示したる歌」という一連の中の「君が代・日の丸問題について思ふ」という詞書のついた何首かの歌が個人的には好きではない。「日の丸」という語彙と「澄む」という歌僧西行に因縁の深い語彙との取り合わせは、私などには思いもよらない。こんなうらがれた日の丸は日本国には存在しないわけだから、そういう意味では、この歌には悲哀にも似たアイロニーが盛られていると解釈すべきだろう。ところが、残念ながら多くの読者には私と同様に作品の政治的傾向の方が先に目に入るのではないかと思う。

  夜の浜に産卵終えし亀の跡 地雷を埋めて去る人の影          大島史洋
  この星はさびしかるべし声なくてあら魂にぎ魂つね発たせつつ     柏原千恵子

 一首目は人間存在の後ろ暗さが、海亀の産卵のイメージと重ね合わされることによって逆説的に際だたせられている。二首目はスケールの大きな作品で、生物と人間についての芳醇な思考がやわらかなことばづかいを通して伝わってくる。

  中隊長刀抜きてひとり突撃す従きくる兵のあるを信じて         舛井義郎

七月号には〈ただひとり喊声あげて尾根のみち迫りくる兵を誰が撃つのか〉という作品もある。中隊長もただひとりの兵も孤独で絶体絶命で、どこかであわれなぐらいに滑稽で、中国の伝奇物語の英雄のように純粋な無為に賭けている。戦場には、こういう妄念をあたためているひとりの時間がたくさんあるような気がする。また、作品に象徴されているような不条理に一人一人が日々直面しているのだとも言える。何か妙に想像力を刺激される作品で、ぜひまとめて読みたいものである。

  漆黒のゆたけき身体にハグをするわれは天与の真珠色なる        小池圭子
  わが家の空気が足りなくなる感じ「お母さんお母さん」アフリカの声   本田峰子
  臥すもあり立ちいるもあり種籾が湿れる土へ位置を定めぬ    塚平増男
  見返ればふつくらまろきふたつ山の乳頭ふふむ流雲飛天    川口美根子
なずみつつ織りし紬が夢に来るどれよりも佳き着物となりて       三石倫子

 わくわくするような気持をうたった作品を並べてみた。

  読み続くる私を捜してからからと猫が玄関の戸を開けており     吉松弘彰
個人輸入代行のメール届きたり見本はファイザー社バイアグラ一錠    富永文平

 日常雑詠が生き生きするためには、何が必要なのか。構えとも言えぬほどの構えのようなものだろうか。    (一九九九年十一月号)

○ 九月集を読む

 手を止めぬ朝の厨の空耳にかな一行がほどのひぐらし          米田律子
  若き日にも吾は聞きたり南天の花芽の中ゆ嬰児泣く声     山口智子
  眠剤を服みて収まりゆく我か夜も散り止まぬひな芥子あらむ      柴田タエコ

 月集欄を読んでいると、人間の想念というものの不可思議さにうたれる。そうして人が齢を重ね、老いてさらに生き重ねることの意味というものを教わることができるような気がする。米田作品は耳の底に幻聴のように響くかそかな音を、草書のかな文字の一行にたとえた。山口作品は神秘的な経験をうたった歌で、基底にある感情は悲哀感のようなものだろう。南天の赤い粒実は誰でも知っているが、花は意外に清新な白と黄の色を持つ。この歌も一首めと同じように五十年ほどの時間を一気に跳び越えている。三首めの「ひな芥子」は目をつぶって砂時計を思い浮かべているような印象があり、長い夜の時間と、それから残された生の時間を暗示するようだ。

  疎むともなく見忘れし卯の花の咲きたわむなり庭の隈みに       高橋津志子
  倒れ木を或る日支えしそのままに櫟一樹の歳月がある 糸永知子

 月集欄が退屈だと言う人がいるが、本当にそうだろうか。掲出歌には植物を伴侶として生きる感性が息づいていて、二首とも言葉のつかまえている時間の幅が広い。「アニミズム」などという空疎なかけ声とは無関係なところで、自ずとこういう心優しい歌は生み出されているのだ。 
 
海面に血汐浮くかと見るまでに合歓の花咲く見おろす森に        後藤直二
  揚げ潮と引き潮がいませめぎ合い大き水の花うまれんとする       三宅霧子
  佐陀川のほとりに立ちぬ雪のこる大山はいま崩落のとき         村松和夫

 視界が広くてスケールの大きな叙景歌をあげてみた。こういう歌を読むと爽快な気分になるではないか。

  拓魂は死語になりゆくか峽小田は奥より次々杉を植えられぬ   佐藤昭孝
  圃場整備おわりて広くなりし田の強制休耕割当がくる   伊吹 純
  四十年の出稼ぎ止めたるこの冬を乏しみつつも妻の安らぐ        古沢 登

 農業に携わっている人たちが一様に口にするのが減反の理不尽さである。一首め、過疎地では耕す人もないままに、みすみす先祖が苦労して拓いた田がつぶされてゆく。二首め、測量と面倒な折衝を重ねてやっと圃場整備がおわり、大型機械が使えるようになったと思ったとたんに減反割当がくる。何のための整備なのか、ばからしい話だという憤り。三首め、農業だけでは暮らしが成り立たない現実がある。古沢登さんは、今度歌集『鉾杉』を上梓された。農民として、出稼ぎの季節労働者として働きながら短歌に思いを寄せ続けた人の喜びと苦渋が伝わってくる一冊である。

  五月の風吹き荒れこころ立ち直る帰り来れば手を洗うなり 桜井登世子
  直前にそっとターゲットより外されし都市にてひらく夏歌会あはれ 岡井 隆
  耳ラジオに合せて顎をふる少女ふり変りつつ降りてゆきたり       浦上規一
  ボーイソプラノ曙の空にのびてゆく高層階の朝のおどろき        稲葉峯子

 どれも字余りや句割れと句跨り(一首めの二・三句め、吹き荒れ・こころ/立ち直る、三首めの二・三句め、合せて・顎を/ふる少女、四首めの一・二句め、ボーイソプ/ラノ曙の)のある作品だが、一様に三句めまで読んだところで小休止し、やや気息を整えてから下句に向かうあたりが巧みである。上の句で定型を外れた時、四句めはよほどのことがないかぎり七語音でおさえておいた方がいいということがわかる。
 一首めは、もやもやとした思いを吹き払ってくれるような五月の風に「メイストーム」というふりがなをつけたことによってスピード感が出た。二首め、京都は原爆投下の候補地だった。「そつと」の一語がきいていて、「夏歌会あはれ」まで読んでくると、ひそやかなムードが立ちのぼる。三首め、「ふり変りつつ」というのは、少女の聞いている音楽のリズムが変わったのだろう。四首めの結句の「おどろき」は、「目覚め」の意味だろう。

  国は六つ民族は五つ言語は四つ宗教は三つ入り組むといふ 細川謙三
  死の影に逐わるるのみに過したる戦いの日々を今に引継ぐ 太宰瑠維
  再発にあらず一世を負いゆかむ痛みぞ戦争が置きゆきし傷       赤阪かず子

 先月も先々月も日米ガイドライン、周辺事態法にかかわる歌がいくつもあったが、結局とりあげる気になれなかった。憤る気持は伝わって来るのだが、歌としては平板なつくりのものが多くなってしまっていた。時事に触発された歌は本当に難しい。一首めはコソボ問題。二首めはこれだけは譲れないという自己確認の歌。戦争中の死にまむかう他はなかった時の記憶はいまに新しい。三首めの歌は、どういう傷なのかこの歌だけではわからぬながら(わからなくともよいが)、痛みは心身ともに痛むようなものなのであろうと思う。意志して痛みを負った時に、それは自己の歴史となり、自分の存在の証となる。宗教的な感覚だが、現実の痛みは容赦ないものがあるのだろう。

  河野愛子臥せ居し個室の建て屋無く丈高き樹の枝茂りたり  平松啓二
  いま語るに病歴のすさまじさ上衣のホック外しながらに

 結核の治療法のひとつとして患部を切除するというものがあった。そのためにあばら骨が何本かなかったり、背中一面に手術の縫いあとがあったりする方々が大勢いらした。そういうことを知らないと、二首めの歌はわからないだろう。年配の方には常識でも、一九六〇年以降に生まれた世代には常識ではない。しかし一連の中にいちいち結核という言葉を入れるのもわずらわしい話だ。河野愛子に特別な思いを寄せる人がわかればいい歌ということになるだろうか。先日、自分の父の裸の背中に黒ずんだ部分があるのに気がついて、どうしたのかと問うたら、「肋膜をやったことがあるから」と事もなげに答えたので驚いたことがあった。父は軽くすんだのであろう。今まで気がつかず、特別な話題にしたこともなかった。私はいつからか短歌は「残念」というものを忘れない詩の型式であると思うようになった。さまざまなものに思いを残すから歌うわけなので、この一点を見失ったら、いったい自分が何をやっているかもわからなくなるのではないだろうか。ほかに、

  半地下の窓より見れば街灯は月の如くに渦なす光            大島史洋
  抱擁の歓喜仏語るお庫裏さんはにかむ老いの頬ふくよかに   舛井義郎
  すうるりと咽喉をくだる葛切りにわが母恋の三年過ぎたり       恒成美代子
  真白にぞ梨の花咲く棚下に記憶の父は木に触れ歩む   本間芳子
  われに来し道を再び帰りゆく背のあたたかさ見えずなるまで       新免君子
 (一九九九年十二月号)

【追加】 ○ さいかち真が選んだ痛みの歌 (九九年九月号から)

三十年前の今宵浅草署に子を訪いき畏友島成郎を頼り励まされ   渓 さゆり
明暗の明を思おうモンパリのミスタンゲットの遠い華やぎ   太波牟礼男
プラットホームから落っこちそうと思ったら翔べばいいんだ呆けても鳩は  柴 善之助
毛髪で編まれし灰黄のブランケット包まれている思想がわらう   渡辺 良
型抜きした人参の屑は捨てられる(アポトーシスだ)かかる死もある 竹内万砂子
くちなしがかをるかをれば常ならぬ世の座敷にぞ坐るばかりなる 紀野 恵
九十を前にし花嫁迎へたる先生を不死鳥と信じゐたりき 星河安友子
間近にて撃てば跳ね上がり死ぬという戦闘ならぬ徴発にして 並木 薫
戸谷教授「新型」の新の意味をしも知りゐて我に告げにけらずや 岡井 隆
爆音に涙きざせり空さむくさみだれ暗く地をば流るる 岡田立子
唐突に意識濁りて生徒の前にしどろもどろとなりゆきしとぞ   間鍋三和子
信じましょう自己治癒力を八ミリの傷口持てる幸ちゃんを抱く    町田良子
なだめてもすかしても泣き止まぬ自閉児のすがる転勤の朝 川田芳胡
いいのかと輪唱のやうな問ひかけを持ちつつ洗ふいくまいの皿 北野幸子
追われゆくものは飛びゆくことだけを考えており星から星へ 及川佶   (二〇〇〇年一月号)

○ クロストークより・「未来」七月号をめくってみて

  初恋の少女を夢にまざまざとわれは老いたるままに見つめぬ       中村卯一
  次の世というも添いとぐるひとはなし水晶橋は濡れて浮かべる  三輪佳子
  廃船のキャビンに揺らぐ陽炎のはかな心を君も怖れよ  久瀬昭雄
  演習に緑育たぬという金武の山真夜を轟く春の雷   永吉京子
  家々の燃え落ちる音の絶え間なく追われ追われて夢より覚めぬ  高山淑子

 座談会〈「写実」は甦るか〉のすぐあとの近藤欄のページに見いだした作品である。こういう歌を読むと、年齢というものへの恐れを、もっと自分は持たねばならないと思う。
                        (一九九八年十一月号)

○ 工房月旦 二〇〇三年十月号

指折りて「かんたん短歌」を作り居る児等の額に汗浮きそめつ    服部伊智子
「かんたん」と言へど求むるもの深く取り組む児等の面輪しまり来

 子供たちの顔のいきいきとした描写が印象的な歌だ。

  はるばると訪ねて祖母の部屋に寝る頰にゆらめく楓の影あり 本間みゆき
  身じろげばふたたび見ることの無きような細き残月が浮かぶ宵空 高橋二美子

 それぞれ下句と上句が多少長いような感じは受けるのだが、それが一首をひどく損ねているというのでもない。微細なものに感応する作者の心のありように触れた気がする。

車止めを通り人影なき径に最も親しきものなり雨は    三木佳子
左右を打つ暗きひびきよ立ち止まり雨を聴くべく傘持ち替える

 私の母は、よく雨の日が好きだと言っていた。心は持ちよう、ということだろうか。

  父の友とながく思ひき幼き日親しみ聞きし日天さん月天さん   倉谷耀艸

 日を重ねるごとに大切になる思い出だ。

  走り根が怒りてつづく桜並木の蘖のみどりに癒されており    林 幸子

 ひこばえは何月だろう。一、二句に納得。  

くれないを帯びしメールに会いたくてノートパソコン再び開く 馬渕美奈子
  葉隠れにみどりの花を見つけしとメールに入れて心安らぐ 

 馬渕さんがパソコンやメールの歌を作る時代になったか、と思う。とても自然な感じがしたのだった。

「人体は家屋のようなものである」外科医渡邊房吉書きぬ   渡辺 良

 たぶんこれは一連の父親の残したノートに取材した歌のひとつだろう。手法としては古いのだが、端的にとらえた医師の言葉が、一気に読み手の方に届く。

  枯れ果てて色失いし鶏頭をつぶさに描く絵の前に立つ        小松 昶
  ウォーキングマシンの動きに歩かされ歩いて何処にも辿りつけない   縄岡千代子

現状を追認するほかはないという受動的な心の構えの中で、押されてゆく自分を見ている目があり、その目があるということに救いがある。

  梅雨寒が続きて胸の傷痛むパウロの棘を吾もいただく        長谷川純江

なかなかこうは歌えない。思いついて本多峰子さんの歌集を取り出した。『ミカエルの秤』二〇〇一年五月刊に、

  嘆き嘆きてついに感謝にいたる詩篇夜の御堂出でて涙はあふる 本多峰子

というような歌があった。人が苦難に耐える姿は一様に気高い。金井さんの後記も美しいと思って私は読んでいる。

  人は皆おのれに耐えて生きいると安らげど深きふかき寂寥      本多峰子

 短歌は生老病死の従者であろうか。そうかもしれず、そうでないかもしれない。
 (二〇〇四年一月号)
 
注記 「剥、頬、葛」は、略字で印字した。渓作品の国字の「三十」は、書き改めて引いた。