96 尋時鳥
ほととぎす山のおくまで尋ねきてなかぬとしかと思ひけるかな
一四六 ほとゝぎす山のおくまて尋きてなかぬ年かと思ひける哉 文化二年
□此うた、江戸で評判ありて、「聞えず」といひたりし。海野源兵衛、「江戸で聞えぬといひては外聞あし」といへり。此集をときたる書あるなり。此歌、つれなきをよめりしうたなり。素性法師をかすめたり。「松かげの岩井の水を結び上げて夏なき年と思ひけるかな」。松の陰に岩をしつらひたる水のやうなれども、さにあらず。山川の汀に松があるなり。其山川をせきとめて汲むやうにするが山の井なり。井ぜきをあてゝすこしたゝ(ゞ)よはすなり。其れを岩で作りたるなり。「結ぶ」とは、手もて汲むなり。此のうたは松陰を流るゝ岩井の水なり。さて後に兼盛の歌に「つゝ井筒ふみならしてもすゝ(ママ)む頃かな」とあるは、井戸を掘りたるなり。(改行あり)
今の「なかぬ年かと」の歌は、素性のおもかげなり。本家があるなり。それ故手柄が少きなり。うたでないといふても、くにたゝぬといふてもよきなり。「思ひけるかな」、いつもうらに出づる詞なり。そうではないものといふことなり。然るにもどらぬ歌もあるなり。本居らが一概に極めたるは誤なり。正面でをさまる歌もある也。もどる格と極めたるは、あしきなり。「百人一首」、「長くもがなと思ひけるかな」は、よみくだしたまゝなり。
※この段、繰り返し記号はそのままとした。
○この歌は、江戸で議論があって、わけがわからないということであった。海野源兵衛が、「江戸で意味が通らない(など)と言っているのは外聞が悪い」と言った。この集を説いた書がある。この歌は、(人の)つれないようすを詠んだ歌である。素性法師をかすめている(踏まえている)。「松かげの岩井の水を結び上げて夏なき年と思ひけるかな」(※恵慶の歌)。(この歌でみると)松の陰に岩を造作してある水のようだけれども、そうではない。(反対に)山川の汀に松があるのだ。その山川をせきとめて汲むやうにするのが山の井である。井堰を当てて少し流れをとめるのである。それを岩で作ってあるのだ。「結ぶ」とは、手で汲むのである。この歌は松陰を流れる岩井の水である。さて後に兼盛の歌に「つゝ井筒ふみならしてもすずむ頃かな」とあるのは、井戸を掘ったのである。
今の「なかぬ年かと」の歌は、素性のおもかげである。本歌があるのだ。それだから手柄が少ない。(江戸の連中が)歌でないと言っても、句として立たないと言っても(別に)かまわない。「思ひけるかな」は、いつも反対のことを言う時に出る詞である。そうではないものということだ。そうは言っても、(反対の意味に)もどらない歌もあるのだ。本居らが一概に決めてしまったのは誤りである。正面で収まる歌もあるのだ。戻る格と決めつけてしまったのは、よくない事だ。「百人一首」で「長くもがなと思ひけるかな」は、詠みくだしたままである。
※掲出歌は「筆のさが」(国会図書館デジタル本)にも「大ぬさ」(日本歌学大系第八巻)にも出てこない。ちなみに「大ぬさ」では「ほととぎすかへる山には聲もなし世にふるほどやなき渡りけん」があげられている。
※「素性法師を」とあるのは、「拾遺集」の恵慶法師の誤り。「河原院のいづみのもとにすずみ侍りて 松影のいはゐの水をむすびあげて夏なきとしと思ひけるかな」一三一。
※「兼盛の歌につゝ井筒」とあるのは、俊頼の歌で、「つゝ井筒」は、「石井筒」の記憶違いであろう。「泉辺納涼といへる事をよめる ひさぎおふる山かたかげのいしゐづつふみならしてもすむ心かな」『散木奇歌集』三三〇。こちらの結句の方がいい。ちなみに『夫木和歌抄』一二四四五では、結句が「すずむころかな」となっていて、「家集、納涼を」とある。これは詩に鈍感な後世の誤写ということになる。景樹の談話にある「ふみならしてもすゞむ頃かな」だと『夫木和歌抄』か、それと同じ系統の本で覚えていたということになる。ここでは宣長については触れない。
97 待郭公
ほととぎすすがたは見えぬものゆゑにねやの板戸をあけてまつかな
一四七 ほとゝぎすすかたは見えぬものゆゑに閨の板戸を明けてまつかな
□「物ゆゑに」、見えぬものゝ何故に、といふやうになる「てには」なり。戸をあけて空を見てまつ心じやとなり。人を待つに門に出るが如し。人情なり。姿は見えぬのに何故にあけてまつのじや、あけてまつことかな、となり。
○「物ゆゑに」は、見えないのに何故に、というようになる「てには」(の使い方)である。戸をあけて空を見て待つ心じゃ、というのである。人を待つのに門に出るようなものだ。人情である。姿は見えないのにどうして(板戸を)開けて待つのじゃ。開けて待つことだなあ、というのである。
※遅まきながら解説すると、「~となり」という語法を用いた自解には、己の作品の持っている本意の筋というものを客観的に説明する口調があるだろう。
98 八重葎くも路にまでやさはるらんとひがてにするほととぎすかな
一四八 八重むぐら雲路にまでやさはるらむ問がてにするほとゝぎす哉 享和二年
□「葎のやど」、人のとはぬが通例なり。「八重」は、その上に、上に、よくときそふ故に八重と云ふなり。人の来るにはさはるが、雲路に迄やさはるさうな、となり。
「とひがて」、とひがたくするなり。とひかねる事ではなきなり。此のうた、あまりつれなき故のたくみなり。「とひがて」の所「さはる」、「むぐら」に打ち合ふところなり。
○「葎のやど」は、人が訪わないのが通例である。「八重」は、その上に、(もっと)上に避けようと(して)競うので八重と言うのである。人が来るのには障碍となるが、(それが)雲路にまで障るそうだよ、というのである。「訪ひがて」は、訪い難くするのである。訪うことができない(という)事ではないのである。この歌は、(相手が)あまりつれないための趣向である。「訪ひがて」の所は「障る」、「むぐら」と打ち合うところである。
99 輿女待郭公
妹とわがふたりきかんの一こゑをねたくもをしむほととぎすかな
一四九 妹とわがふたり聞(きか)んの一聲をねたくも惜むほとゝぎすかな 享和二年 初句 妹と吾ト を訂す
□二人して一こゑをきかうとして、はえのある夜じやに、ねたくも鳴かぬなり。「ねたくも」は、いぢわるういゝと云ふ所なり。いぢのわるいやつのえゝと云ふ所なり。
○二人して一声を聞こうとして、栄えのある夜じゃというのに、憎らしいことに鳴かないのである。「ねたくも」は、意地悪いという所である。意地が悪い奴だねえ、という所である。
100 遠聞子規
ほととぎすなくなる空のとほければ猶しのびねのこゝちこそすれ
一五〇 郭公鳴(なく)なる空の遠ければなほしのび音(ね)のこゝちこそすれ 文化十三年
□「しのびね」、四月頃のほそきこゑなり。
○しのびねは、四月頃のほそい声である。
101 月前杜鵑
さやかなる月故だにもねられぬを山ほととぎすなく夜なりけり
一五一 さやかなる月ゆゑだにもねられぬを山郭公啼夜なりけり
□下の句の歌なり。月のすゝ(ゞ)しきわけばかりでもねられぬに、其上に時鳥のなく夜じや、此の「鳴く夜なりけり」と云ふよみ方は、景樹(が)開発なり。「山時鳥鳴てけるかな」でもすむなれども、さやうにつかはぬが趣あるなり。
「さよなかと夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたる見ゆ」「古今」、月小也といふと同意なり。「月わたるみゆ」と云ふは、月が小さくあまりにすむ夜のさえきつたるをいふ歌なり。こゝに此うたを引くは、雁がねの聞ゆる空の事をいふべきなり。雁金のしきりにこゑのする夜じや。こゑのちらほら聞ゆる夜じやが今夜もだはい、となり。「万葉」の詞書にて見えるなり。今まのあたり聞かずとも其の夜をいふなり。「だに」、景樹「てには」の事を書きたる解に、「だに」は力者をやしなふが如し、といひたるなり。掃除をすれば持はこびにもよし、火事にもよし。力のある所にいるべき「てには」なり。力者は土俵にて角力するが本職なり。其れをその意味合ありて力仕事につかふなり。つよきことにつかふなり。助字もその如し。いづくんぞといふ字を「てには」につかふが如し。「だに」は直の字也。「たゝ(※ただ)」とよむ「たゝ」は、たゝ(※ただ)しきなり。「しき」をそへたるは第二義なり。「たゝ」が本源なり。「こひ」に「しき」のつきたるが如し。「だに」、「たゝ(※ただ)」といふことなり。一の「た」の字也。省くなり。月故「たゝにも」と云ふことなり。「はつかり」と云ふ工合なり。
○下の句の歌だ。月がすがすがしいという理由ばかりでも寝られないのに、その上に時鳥が鳴く夜じゃ(「となり」の省略)。この「鳴く夜なりけり」という詠み方は、景樹の開発である。「山時鳥鳴てけるかな」でも済むのだけれども、そのようには使わないのが趣があるのである。
「さよなかと夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたる見ゆ」「古今集」の「月小也」というのと同じ意味である。「月わたるみゆ」と言うのは、月が小さくあまりに澄む夜の冴えきった様を言う歌である。ここにこの歌を引くのは、雁がねの聞こえる空の事を言うべきだ(ろう)。雁金のしきりに声のする夜じゃ、声のちらほら聞こえる夜じゃが。今夜もだわい、というのである。「万葉」の詞書で見えるのだ。今まのあたり聞かなくとも、その夜を言うのである。「だに」は、景樹が「てには」の事を書いた解で、「だに」は「力者を養うが如し」と言った(ことがある)。掃除をすれば持ち運びにもよし、火事にもよし、力のある所にいるべき「てには」である。力者は土俵で角力をするのが本職だ。それをその意味合いがあって、力仕事に使うのである。つよいことに使うのである。助字もそれと同じだ。「いづくんぞ」という字を「てには」に使うようなものだ。「だに」は「直」の字だ。「ただ」とよむ「ただ」は、「ただしき」だ。「しき」を添えたのは第二義である。「ただ」が本源である。「こひ」に「しき」の付いたようなものだ。「だに」は「ただ」といふことである。一の「た」の字である。省くのである。月故「ただにも」と言うことである。「はつかり」と(合せて)言う(のと同様の)工合だ。
※末尾の一文、解釈に苦しんだが、一応このようにとってみた。
ほととぎす山のおくまで尋ねきてなかぬとしかと思ひけるかな
一四六 ほとゝぎす山のおくまて尋きてなかぬ年かと思ひける哉 文化二年
□此うた、江戸で評判ありて、「聞えず」といひたりし。海野源兵衛、「江戸で聞えぬといひては外聞あし」といへり。此集をときたる書あるなり。此歌、つれなきをよめりしうたなり。素性法師をかすめたり。「松かげの岩井の水を結び上げて夏なき年と思ひけるかな」。松の陰に岩をしつらひたる水のやうなれども、さにあらず。山川の汀に松があるなり。其山川をせきとめて汲むやうにするが山の井なり。井ぜきをあてゝすこしたゝ(ゞ)よはすなり。其れを岩で作りたるなり。「結ぶ」とは、手もて汲むなり。此のうたは松陰を流るゝ岩井の水なり。さて後に兼盛の歌に「つゝ井筒ふみならしてもすゝ(ママ)む頃かな」とあるは、井戸を掘りたるなり。(改行あり)
今の「なかぬ年かと」の歌は、素性のおもかげなり。本家があるなり。それ故手柄が少きなり。うたでないといふても、くにたゝぬといふてもよきなり。「思ひけるかな」、いつもうらに出づる詞なり。そうではないものといふことなり。然るにもどらぬ歌もあるなり。本居らが一概に極めたるは誤なり。正面でをさまる歌もある也。もどる格と極めたるは、あしきなり。「百人一首」、「長くもがなと思ひけるかな」は、よみくだしたまゝなり。
※この段、繰り返し記号はそのままとした。
○この歌は、江戸で議論があって、わけがわからないということであった。海野源兵衛が、「江戸で意味が通らない(など)と言っているのは外聞が悪い」と言った。この集を説いた書がある。この歌は、(人の)つれないようすを詠んだ歌である。素性法師をかすめている(踏まえている)。「松かげの岩井の水を結び上げて夏なき年と思ひけるかな」(※恵慶の歌)。(この歌でみると)松の陰に岩を造作してある水のようだけれども、そうではない。(反対に)山川の汀に松があるのだ。その山川をせきとめて汲むやうにするのが山の井である。井堰を当てて少し流れをとめるのである。それを岩で作ってあるのだ。「結ぶ」とは、手で汲むのである。この歌は松陰を流れる岩井の水である。さて後に兼盛の歌に「つゝ井筒ふみならしてもすずむ頃かな」とあるのは、井戸を掘ったのである。
今の「なかぬ年かと」の歌は、素性のおもかげである。本歌があるのだ。それだから手柄が少ない。(江戸の連中が)歌でないと言っても、句として立たないと言っても(別に)かまわない。「思ひけるかな」は、いつも反対のことを言う時に出る詞である。そうではないものということだ。そうは言っても、(反対の意味に)もどらない歌もあるのだ。本居らが一概に決めてしまったのは誤りである。正面で収まる歌もあるのだ。戻る格と決めつけてしまったのは、よくない事だ。「百人一首」で「長くもがなと思ひけるかな」は、詠みくだしたままである。
※掲出歌は「筆のさが」(国会図書館デジタル本)にも「大ぬさ」(日本歌学大系第八巻)にも出てこない。ちなみに「大ぬさ」では「ほととぎすかへる山には聲もなし世にふるほどやなき渡りけん」があげられている。
※「素性法師を」とあるのは、「拾遺集」の恵慶法師の誤り。「河原院のいづみのもとにすずみ侍りて 松影のいはゐの水をむすびあげて夏なきとしと思ひけるかな」一三一。
※「兼盛の歌につゝ井筒」とあるのは、俊頼の歌で、「つゝ井筒」は、「石井筒」の記憶違いであろう。「泉辺納涼といへる事をよめる ひさぎおふる山かたかげのいしゐづつふみならしてもすむ心かな」『散木奇歌集』三三〇。こちらの結句の方がいい。ちなみに『夫木和歌抄』一二四四五では、結句が「すずむころかな」となっていて、「家集、納涼を」とある。これは詩に鈍感な後世の誤写ということになる。景樹の談話にある「ふみならしてもすゞむ頃かな」だと『夫木和歌抄』か、それと同じ系統の本で覚えていたということになる。ここでは宣長については触れない。
97 待郭公
ほととぎすすがたは見えぬものゆゑにねやの板戸をあけてまつかな
一四七 ほとゝぎすすかたは見えぬものゆゑに閨の板戸を明けてまつかな
□「物ゆゑに」、見えぬものゝ何故に、といふやうになる「てには」なり。戸をあけて空を見てまつ心じやとなり。人を待つに門に出るが如し。人情なり。姿は見えぬのに何故にあけてまつのじや、あけてまつことかな、となり。
○「物ゆゑに」は、見えないのに何故に、というようになる「てには」(の使い方)である。戸をあけて空を見て待つ心じゃ、というのである。人を待つのに門に出るようなものだ。人情である。姿は見えないのにどうして(板戸を)開けて待つのじゃ。開けて待つことだなあ、というのである。
※遅まきながら解説すると、「~となり」という語法を用いた自解には、己の作品の持っている本意の筋というものを客観的に説明する口調があるだろう。
98 八重葎くも路にまでやさはるらんとひがてにするほととぎすかな
一四八 八重むぐら雲路にまでやさはるらむ問がてにするほとゝぎす哉 享和二年
□「葎のやど」、人のとはぬが通例なり。「八重」は、その上に、上に、よくときそふ故に八重と云ふなり。人の来るにはさはるが、雲路に迄やさはるさうな、となり。
「とひがて」、とひがたくするなり。とひかねる事ではなきなり。此のうた、あまりつれなき故のたくみなり。「とひがて」の所「さはる」、「むぐら」に打ち合ふところなり。
○「葎のやど」は、人が訪わないのが通例である。「八重」は、その上に、(もっと)上に避けようと(して)競うので八重と言うのである。人が来るのには障碍となるが、(それが)雲路にまで障るそうだよ、というのである。「訪ひがて」は、訪い難くするのである。訪うことができない(という)事ではないのである。この歌は、(相手が)あまりつれないための趣向である。「訪ひがて」の所は「障る」、「むぐら」と打ち合うところである。
99 輿女待郭公
妹とわがふたりきかんの一こゑをねたくもをしむほととぎすかな
一四九 妹とわがふたり聞(きか)んの一聲をねたくも惜むほとゝぎすかな 享和二年 初句 妹と吾ト を訂す
□二人して一こゑをきかうとして、はえのある夜じやに、ねたくも鳴かぬなり。「ねたくも」は、いぢわるういゝと云ふ所なり。いぢのわるいやつのえゝと云ふ所なり。
○二人して一声を聞こうとして、栄えのある夜じゃというのに、憎らしいことに鳴かないのである。「ねたくも」は、意地悪いという所である。意地が悪い奴だねえ、という所である。
100 遠聞子規
ほととぎすなくなる空のとほければ猶しのびねのこゝちこそすれ
一五〇 郭公鳴(なく)なる空の遠ければなほしのび音(ね)のこゝちこそすれ 文化十三年
□「しのびね」、四月頃のほそきこゑなり。
○しのびねは、四月頃のほそい声である。
101 月前杜鵑
さやかなる月故だにもねられぬを山ほととぎすなく夜なりけり
一五一 さやかなる月ゆゑだにもねられぬを山郭公啼夜なりけり
□下の句の歌なり。月のすゝ(ゞ)しきわけばかりでもねられぬに、其上に時鳥のなく夜じや、此の「鳴く夜なりけり」と云ふよみ方は、景樹(が)開発なり。「山時鳥鳴てけるかな」でもすむなれども、さやうにつかはぬが趣あるなり。
「さよなかと夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたる見ゆ」「古今」、月小也といふと同意なり。「月わたるみゆ」と云ふは、月が小さくあまりにすむ夜のさえきつたるをいふ歌なり。こゝに此うたを引くは、雁がねの聞ゆる空の事をいふべきなり。雁金のしきりにこゑのする夜じや。こゑのちらほら聞ゆる夜じやが今夜もだはい、となり。「万葉」の詞書にて見えるなり。今まのあたり聞かずとも其の夜をいふなり。「だに」、景樹「てには」の事を書きたる解に、「だに」は力者をやしなふが如し、といひたるなり。掃除をすれば持はこびにもよし、火事にもよし。力のある所にいるべき「てには」なり。力者は土俵にて角力するが本職なり。其れをその意味合ありて力仕事につかふなり。つよきことにつかふなり。助字もその如し。いづくんぞといふ字を「てには」につかふが如し。「だに」は直の字也。「たゝ(※ただ)」とよむ「たゝ」は、たゝ(※ただ)しきなり。「しき」をそへたるは第二義なり。「たゝ」が本源なり。「こひ」に「しき」のつきたるが如し。「だに」、「たゝ(※ただ)」といふことなり。一の「た」の字也。省くなり。月故「たゝにも」と云ふことなり。「はつかり」と云ふ工合なり。
○下の句の歌だ。月がすがすがしいという理由ばかりでも寝られないのに、その上に時鳥が鳴く夜じゃ(「となり」の省略)。この「鳴く夜なりけり」という詠み方は、景樹の開発である。「山時鳥鳴てけるかな」でも済むのだけれども、そのようには使わないのが趣があるのである。
「さよなかと夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたる見ゆ」「古今集」の「月小也」というのと同じ意味である。「月わたるみゆ」と言うのは、月が小さくあまりに澄む夜の冴えきった様を言う歌である。ここにこの歌を引くのは、雁がねの聞こえる空の事を言うべきだ(ろう)。雁金のしきりに声のする夜じゃ、声のちらほら聞こえる夜じゃが。今夜もだわい、というのである。「万葉」の詞書で見えるのだ。今まのあたり聞かなくとも、その夜を言うのである。「だに」は、景樹が「てには」の事を書いた解で、「だに」は「力者を養うが如し」と言った(ことがある)。掃除をすれば持ち運びにもよし、火事にもよし、力のある所にいるべき「てには」である。力者は土俵で角力をするのが本職だ。それをその意味合いがあって、力仕事に使うのである。つよいことに使うのである。助字もそれと同じだ。「いづくんぞ」という字を「てには」に使うようなものだ。「だに」は「直」の字だ。「ただ」とよむ「ただ」は、「ただしき」だ。「しき」を添えたのは第二義である。「ただ」が本源である。「こひ」に「しき」の付いたようなものだ。「だに」は「ただ」といふことである。一の「た」の字である。省くのである。月故「ただにも」と言うことである。「はつかり」と(合せて)言う(のと同様の)工合だ。
※末尾の一文、解釈に苦しんだが、一応このようにとってみた。