作者が着物のデザインと制作の仕事をしている京都在住の人だということで、何となくひとつのイメージができあがるのは、やむを得ないことだけれども、日常のあわいに美しいものを求めようとする心の傾きを、言葉に写(移、映)そうとして歌を試みる時、自ずから視線が固着する対象をとり上げることは、短歌の生理にかなっているので、自然詠も和服の制作・染色家としての感性を磨き上げるための一助となって、共通感覚的な拡がりのなかに溶け込んでゆく。そこがいいと思う。
「秋冷の水」一連八首をそのまま引く。
秋冷の水を選びてつんつんと秋蜻蛉とぶ夕かげの中
細石踏みてし渡る瀬をはやみ裾濡らしてぞ しばしとどまる
川中にたゆたい立てば瀬をはやみわれたちまちにうろくずとなる
めぐりあいて見し十三夜 ともがらの多くを隔てて過ぎし二年
寝ね際のわれに降りくる声あれば胸にたたみて朝へ渡らん
われもこう尾花りんどう野紺菊 花野に眠る夢見て寝ねん
目つむれば美しき花野のひろがりて雲を渡せる風も吹くなり
覚めていよ目覚めてあれと降る光あらねど眠り際のおぼろは
※二首目の「細石」は「さざれいし」と読む。四首目の「二年」は「ふたとせ」。五首目の「寝ね際」は「い(ね)ぎわ」。
これは要するに現代の和歌なのだけれども、こんな人が近藤芳美の選を受けていたというのも戦後という時代である。本人は「あとがき」の中で、
「一九七四年の未来合同歌集『翔』のノートに「連帯をむしろ拒み…」と書き記した私は、道浦母都子さん、森直子さんという近藤芳美の愛弟子に混じりながら、社会に目を啓いた歌をうたうことはなく、吐く息を自ら掬うように狭い身辺をうたうことしか出来なかった。一九七〇年も一九九五年も二〇一一年も歌にのこすことはなかった。」
と書く。社会的な事柄にコミットし続けることをもとめた戦後の「未来」の中では傍流となる覚悟のなかで、こういう歌を作り続けてきたのだろう。自分の感性を自分でまもるということである。
たびら雪一片一片数えつつ ひすがら在りて少し明るむ
雪踏みて濯ぐべきものありやなし小雀のあとを従いてゆくのみ
ああ雨と傘をさすとき明るめば守られて在るわたしと思う
受身であるということを、ことさら女性性と結び付けて読むつもりはない。「ひすがら雪を」(むろん手作業をしながらだろうが)見つめているうちに直って来る心とか、「小雀のあとを従いてゆく」意志のかたちとか、笠の下の明るさに「守られて在る」と感じる感覚とか、どれもその一瞬に流れている時間の豊かさを感じさせてくれる作品であり、こういう言葉を虐使しない行き方が、依然としてまだ日本の詩の中にあり続けていることに感動する。