さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

奈賀美和子の歌のことを

2017年07月28日 | 現代短歌
奈賀美和子の歌のことを。『風を聴く』より。

文楽人形はその手と脚をなげうちて千切れ飛ぶ心のさまを演ずる
   
※「文楽人形」に「にんぎやう」と振り仮名。

これに続くのが、次の歌だ。

口衝きて出でたる歌の一行の文語の息をこゑに味はふ

文楽にはまっている人の話を聞いていると、うらやましい。私にはいろいろな意味でその余裕がない。いつだったか故人となった人間国宝の太夫が演じている姿をNHKでみた。ほとほと打ち込んで見入って、聴き入ってしまったのだが、魂を鷲掴みにされて揺さぶられるというのは、あのことだろう。そう思って見ると、掲出歌の「こゑに味はふ」というのはまだ没入感が足りないようにも思うが、しかし、短歌の場合はここで止めておかないと大げさになってしまうということがある。

次の歌は、これに続く別の章に置かれているから、直接文楽とかかわりがあるようには読まれたくないのだろう。

滲み出づる声のことばの抑揚にわれはわれなる仮面をはづす

これも奥深い歌であって、「声のことばの抑揚に」触れることによって、「われ」は「われ」の「仮面」を外すのだという。人が歌曲をうたっている時が、まさにこれに当たる。歌謡曲をはじめとするもろもろの大衆芸能が原初から体得していた事は、うたった瞬間に自らを失うという機制であり、それは神祭りの「よごと」に始まって、厨仕事の合間に何やら知らぬ歌を鼻歌で歌っていた私自身の母の記憶にもつながるものだが、要するにそのような「心やり」の姿をこの歌はうたっているのだ。これも文楽の歌という気がするが、それだけに当てはめないで作者としては読んでほしいのかもしれない。

そもそも人間の心の使い方、頭の使い方というものがそのようなものなので、これはヘーゲルが言ったことだが、そういう心の態勢の基盤は、他者との共感や、共鳴を通じて体得されるものなのであり、そういう意味では人間の言語というものは、徹頭徹尾弁証法的なものなのだが、その哲理を短歌でふわりと表現できてしまうということが、私にはとってもおもしろい。

 ※タイトルの文字が、数日間誤変換のままでした。失礼しました。