さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

安田章生『歌の深さ』

2017年08月03日 | 現代短歌 文学 文化
 安田章生『歌の深さ』昭和四十六年創元社刊 より引く。

  夕日影田の面はるかに飛ぶ鷺のつばさのほかに山ぞ暮れぬる  光厳院

※「面」に「も」と振り仮名。

 「この歌を読むと、夕闇の世界のなかを一点の光となって遠く飛び去ってゆく鷺を見つめ、その姿を描きながら、作者は、その時の鷺の姿以上の何かをそこに見ていることが感じられます。それが、この歌に象徴性を付与している原因でしょう。」

 と解説が付されている。つぶやいてみると、「田の面はるかに」という二句目が大事なはたらきをしていることがわかる。鷺はそんなに高く飛んでいるのではないのだ。周囲が暗闇に没しようとしているなかに、白い鷺だけが夕日の残照を身に浴びながら、ほの光る存在となって動いている。距離があるから、その飛び方は一種の緩徐感を持って受け止められる。蛍の光のような感じのはやさで見えるのではないか。

「こういう歌は、和歌史的には、西行的なものと定家的なものとを受け継いで生まれたものだといってよかろうかと思います。ここには、西行に通じるものとして、鷺という対象を通しながらの自己凝視の深さがあります。また、定家に通じるものとして、現象を超えた象徴的な美的世界があります。」

「なお、この歌は、題材や表現上の問題としていうと、直接的には定家三十歳の時の作、

「 夕立の雲まの日影はれそめて山のこなたをわたる白鷺 」

の影響を受けているかと思われるのですが、この両首に限って比較しますと、定家の歌はよりあかるく写実的であり、光厳院の歌はより幽暗により象徴的であるということができるでしょう。」

という珠玉の解説の言葉が続き、さらに正徹の次の歌が引用されると、安田章生がおそらく戦後第一の中世和歌の読み手であったことがわかるのである。

  「 渡りかね雲も夕べをなほたどるあとなき雪の峰のかけはし  正徹

というような歌は、近代短歌とおよそ反対の性格を示している歌であり、近代の歌人たちには理解されなかった歌だと思うのですが、私は、そのスタイルは古風であるけれども、注目すべき歌だとおもうのです。命なき雲は、擬人化されることによって人間に近づいていますが、同時に人間を超えるような趣を呈して、夕暮の雲のかけはしを渡りかねながらも、なおどこか遠くへたどっていこうとしております。」

 結語として筆者は、中世和歌が、「近代短歌を超克しようとしている現代短歌にとって、興味ふかい示唆をいろいろ投げかけてくれるように思うのです」と述べていく。あまりにも「万葉」尊崇に傾いた近代短歌というものを乗り越えるために、和歌史の流れを踏まえたうえでの中世和歌の再評価ということを筆者は訴えていたのであった。