さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

写真のある雑誌二冊から 雑感

2017年08月20日 | 
※しばらく消してあったが、復活させた。

「WIRED」という雑誌の28号に、坂本龍一に取材した記事がある。「ものづくりの未来」という特集で、この特集名も私はそそられたのだけれども、「音楽って、なんかうるさくて」という言葉からはじめるインタヴュー記事のセンスの良さは、なかなかのものである。  ※追記。今日21日に書店で検索してもらってやっと買って来た。この記事を書いたのは、KEI WAKABAYASHI という人だ。

 それで、その「WIRED」という雑誌名が思い出せなくて、書店で調べてもらったら、「ニューヨークの坂本龍一」という特集をしている雑誌が「SWITCH」という雑誌の四月号にあるようで、これじゃないなあ、なんて言いつつ、結局その「SWITCH」の九月号の方を買ってしまった。それは、荒木経惟撮影の宮沢りえのグラビアが載っていたからで、開いた瞬間に絶句。そこには、写真のハードボイルド、みたいな宮沢りえの姿があった。

 その余波からか、家に帰って、数年ぶりに部屋の本をどけて掘り出したピアノを即興演奏してしまった。鍵盤がひとつ鳴らない半世紀近く前に作られたカワイのアップライトなのだけれども、重厚・荘重かつ至純の音を出してくれる。ついでに余計なことを書くと、家にはほかに引っ越し後、数年間段ボール箱の後になっている足踏みオルガンがあるのだ。これは教会にあるようなストップ・オルガンで、その昔「時々自動公演」の二台オルガンを並べたパフォーマンスを見たあと、衝動的に欲しくなって注文して買ってしまったのだった。これも真ん中の「ソ」の音が出ない。我が家では、当分この二台を修理している余裕は無いのである。

 話を戻して、坂本龍一が音響彫刻の作品を叩いたりこすったりするための撥や刷毛様の道具の写真が、何というか、うっとりさせられるものだった。何かを表現をしている人の持つ道具には、表情・オーラがある。そういうものを普段から見てみたいと思っている。

 街に出て見ていると、たいていみんな、いろいろなものをすぐに写真に撮ろうとするけれども、写真に撮ると忘れてしまう、ということはないだろうか。体験を実のある経験として、生きる時間をきちんと受け止めることができないでいると、日常生活がすべて奪われた時間になってしまう。それは、避けたい。だから、落ち着いて「見る」ということがもとめられると私は思っている。

 写真を見るのも、何か感じるということができないと、ただ反応するだけになって、それはやっぱり経験にならない。セザンヌの絵みたいに、真剣な態度がないと、モノはあらわれない。写真にとるよりも、ノートやスケッチブックに下手でもいいから、絵にして描いてみた方が、自分のものになるということはある。  
 いそがしすぎるのが、やはり最大の問題だと思う。あまりにもいそがしすぎる現場には、いいことはひとつもない。余裕がなければ、劣化するのは早い。少しずつ工夫したり、修正したりする余地のない現場は、感性が疲労骨折してしまう。だから、いろいろなことに気がつくのが遅くなる。危機の兆候も見逃される。商売の場合は、たぶん儲けるチャンスも逃してしまうのだと思う。ゆっくりしていられないから、長い目で見た時には、客が離れてゆくのだ。そういうことがわかっていないで、目先のことだけで従業員も客も虐使しているような店を見ると、私は天邪鬼が胸のなかで暴れる気がする。少し話がずれた。

 十全に自分として生きていられれば、それでいい。音楽も、文学も、芸術全般がそのためにあるので、もちろん毎日の仕事もそういう部分がなければやっていられないだろうと思うのだが、苦労の骨を削るというか、そういうことが求められる現場は、そこらじゅうに見えていて、自分はとうていあれと同じことはできないと思う事が多々ある。こういう謙虚に見えるようなことを言って逃げているかな。

 私は、単に惰性でしかないもの、今の日本の官僚制みたいなものに敬意を払いたくない。商業というのは、本来そういうものではないと思うのだけれども、今は商業自体に官僚制的なものが入りこんでしまっている場所がある。それはあまり楽しくないのではないかと思う。

 つまり、遊びの要素。NHKドラマの「気賀」(もともとは「けが」と読みます)の楽市がいいのはそこで、あそこには商業の本来的に持って居る遊びや、詐欺に近いような、あぶなっかしい要素が生きている。もっとも定住を決めてしまった元盗賊、という場面はくだらなかったが。作っている当人たちがその意味を分かっていないというのも、面白い。たぶん動物的な勘であの楽市の場面をファンタジーとして演出したのだろうが、基本はまちがっていないと思う。利益の予測計算で多い所から手を付けるという習慣が、商売とか商業を楽しくないものにさせてしまっている。経営についての緻密化した理論なり手法なりを信じすぎるのもどうかと思う。

 私は、アメリカの効率優先とヨーロッパのスローと、両方の視点で考えるといいと思うよ、とこれから大学に入る学生さんには言ったことがあるが、何でも常に自分自身を相対化する視点を持っていないと、だめなのではないかと思う。

 ※夜になって文章を手直しした。21日にも直した。22日に見直し。雑誌名が逆になっていた。