江田浩司さんの『岡井隆考』が出た。江田さんの論考は、何しろむずかしいことが書いてあるうえに、こだわりの筋が特殊だから、これまで理解してくれる人が多そうには見えなかった。しかし、今度の本は、とにかく読みやすくなっている。各章の冒頭に「序」という文章が配置されていて、読者の労を省くための配慮がなされているうえに、研究論文的な章段でも、著者の対談中の言葉をはさみ込む、というような、読み手の好奇心をそそる仕掛けがたくさん施されている。
戦後文学における「短歌」と「現代詩」との間にある差異を意識しながら、伝統詩である短歌に関わり続けることの意味を自他に問い続けた岡井隆という存在について、詩・短歌・俳句の全ジャンルに通じながら語れるのは、この年代では案外に江田さんぐらいしかいないのかもしれない。師の目指していたジャンル横断の志と野心を受け継ぐ者として、著者の自負するところは無きにしもあらず、ということだろう。
本書はどこから読み始めてもいいと私は思う。何しろ索引まで入れると五六〇ページに及ぶという大部な書物だから、最初から読み通そうとしないで気になった章を先に読んでしまうというのでも、著者の主張はだいたい了解できる。江田ビギナーの人だったら、第一章のⅥ「詩における私性の問題」と、第三章の序に置かれた「韻文と散文のはざまに」をまず先に読んだらいいのではないかと思う。それから第四章の冒頭に置かれた「越境と融合」もいいだろう。ここから少しだけ引いてみることにしたい。
「短歌の革新性の内部に、詩歌のジャンルの境界を越境し、詩の表現を取り込んできたのが、岡井の創作の特徴の一つである。詩は短歌の革新性を主体的に推進させることに作用する。
岡井において、詩と短歌は併行して創作されていたわけではなく、複数の線が相互に絡み合うように、歌集の内部で総合的な創作の達成に寄与していた。それは、定型詩としての短歌の限界値を意識し、見定めながら行われた。岡井の詩は短歌の詩的革新性のもとで磨きをかけられ、短歌とともにあることで、相互の表現の限界値を拡張したのである。それゆえに、詩自体の生命に、新たな可能性を開花させるものであった。
岡井の詩には、素材やモチーフや「私」性に関する双方向の交感が短歌との間に存在する。その点が専門詩人とは異なる、岡井の詩の特徴である。短歌と詩は「私」性を素材にした相互補完的な関係性にあり、自己還元的なモチーフが濃厚で、私的な劇性に満ちている。」 (江田浩司) ※25日記。文末の「私的」を「詩的」と間違って変換して引用してしまいました。おわびします。
その通り、と私も思うものだ。戦後の第二芸術論による定型詩批判以来、長く「詩」人が、理由もなく「歌」人を蔑んだり、歌人の「私」性へのこだわりをばかにしたりして来た歴史が背景にあって、そこに岡井の詩への挑戦的な試行の理由のひとつがある。もう少し歴史的な経緯を考えてみると、江田はあまり言っていないが、「四季」派の詩人たちに対する戦後の革新的な詩人たちの徹底批判・「抒情」への批判というものがあって、近代詩の遺産全体、また特に音数律的なリズムを積極的に活用した詩に対して、それをどう継承し、生かしていくのかという問題が、岡井の問題意識の中には常にあった。
それから詩と「定型」の問題。日本語による「詩」と「散文」のちがいは何なのか。ちがいがあるとしたら、それはどこに根拠があるのか。そういった問題を岡井隆の詩を通して具体的に考えているのが、本書である。そういう面からするなら、本書は一冊全体が定型詩論である、と言っても過言ではない。さらに岡井隆の詩的営為のすべてが、そのようなものとしてある、と江田は主張しているのだ。それも、私はすんなりと受け入れられる。そういう説得力が本書にはある。
本書の論考の三分の一ほどは雑誌「Es」に発表されたものだ。さらに四分の一ほどは雑誌「美志」に掲載されたものだ。同人誌というものの大切さ、その意義を改めて思ったのである。
戦後文学における「短歌」と「現代詩」との間にある差異を意識しながら、伝統詩である短歌に関わり続けることの意味を自他に問い続けた岡井隆という存在について、詩・短歌・俳句の全ジャンルに通じながら語れるのは、この年代では案外に江田さんぐらいしかいないのかもしれない。師の目指していたジャンル横断の志と野心を受け継ぐ者として、著者の自負するところは無きにしもあらず、ということだろう。
本書はどこから読み始めてもいいと私は思う。何しろ索引まで入れると五六〇ページに及ぶという大部な書物だから、最初から読み通そうとしないで気になった章を先に読んでしまうというのでも、著者の主張はだいたい了解できる。江田ビギナーの人だったら、第一章のⅥ「詩における私性の問題」と、第三章の序に置かれた「韻文と散文のはざまに」をまず先に読んだらいいのではないかと思う。それから第四章の冒頭に置かれた「越境と融合」もいいだろう。ここから少しだけ引いてみることにしたい。
「短歌の革新性の内部に、詩歌のジャンルの境界を越境し、詩の表現を取り込んできたのが、岡井の創作の特徴の一つである。詩は短歌の革新性を主体的に推進させることに作用する。
岡井において、詩と短歌は併行して創作されていたわけではなく、複数の線が相互に絡み合うように、歌集の内部で総合的な創作の達成に寄与していた。それは、定型詩としての短歌の限界値を意識し、見定めながら行われた。岡井の詩は短歌の詩的革新性のもとで磨きをかけられ、短歌とともにあることで、相互の表現の限界値を拡張したのである。それゆえに、詩自体の生命に、新たな可能性を開花させるものであった。
岡井の詩には、素材やモチーフや「私」性に関する双方向の交感が短歌との間に存在する。その点が専門詩人とは異なる、岡井の詩の特徴である。短歌と詩は「私」性を素材にした相互補完的な関係性にあり、自己還元的なモチーフが濃厚で、私的な劇性に満ちている。」 (江田浩司) ※25日記。文末の「私的」を「詩的」と間違って変換して引用してしまいました。おわびします。
その通り、と私も思うものだ。戦後の第二芸術論による定型詩批判以来、長く「詩」人が、理由もなく「歌」人を蔑んだり、歌人の「私」性へのこだわりをばかにしたりして来た歴史が背景にあって、そこに岡井の詩への挑戦的な試行の理由のひとつがある。もう少し歴史的な経緯を考えてみると、江田はあまり言っていないが、「四季」派の詩人たちに対する戦後の革新的な詩人たちの徹底批判・「抒情」への批判というものがあって、近代詩の遺産全体、また特に音数律的なリズムを積極的に活用した詩に対して、それをどう継承し、生かしていくのかという問題が、岡井の問題意識の中には常にあった。
それから詩と「定型」の問題。日本語による「詩」と「散文」のちがいは何なのか。ちがいがあるとしたら、それはどこに根拠があるのか。そういった問題を岡井隆の詩を通して具体的に考えているのが、本書である。そういう面からするなら、本書は一冊全体が定型詩論である、と言っても過言ではない。さらに岡井隆の詩的営為のすべてが、そのようなものとしてある、と江田は主張しているのだ。それも、私はすんなりと受け入れられる。そういう説得力が本書にはある。
本書の論考の三分の一ほどは雑誌「Es」に発表されたものだ。さらに四分の一ほどは雑誌「美志」に掲載されたものだ。同人誌というものの大切さ、その意義を改めて思ったのである。