さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

小見山輝歌集『神島』

2017年10月05日 | 現代短歌
 はじめに三首引く。

 讃岐不二も青佐の山も暮るる頃海は烏金の色にかがやく
  
  ※「烏金」に「うきん」と振り仮名。 「海」の一文字が当初抜けていました。失礼しました。

 漁船二、三ばい巨大タンカーに呑みこまれ元のままにてまた現れぬ

 屋代島大畠の瀬戸に早瀬なし煌めきながら潮が満ち来る

 こういった瀬戸内海の景を詠んだ歌がどれも印象的である。光と影の交錯する大景を平易な言葉づかいで、気張らずに詠んでいる。作者には、海民の裔という自覚があるだろう。海が好きなのだ。

 色さへやさらに果てなき海面を降りうつりゆく大粒の雨

  ※「海面」に「うなづら」と振り仮名

 たちまちに雲を破りて射す日の光海阪にしるしゆく船もなく

 大根の花に囲まれ赤石に腰かけてゐる鴉を連れに

 「あとがき」によれば、作者は十四歳で満蒙開拓青少年義勇軍の一員として敗戦を迎え、敗戦後の一年間広い満州を放浪し、何とか生還することができた。海辺に出た時に故郷の神島と同じ匂いを嗅いで、もしかしたら戻れるかもしれないと思ったという。このあたりの事情は、先に砂子屋書房から出た『現代短歌文庫 小見山輝歌集』に詳しい。

 夏の日の片照る街を通りけりJ・Pサルトルの矮躯一体 

 家群は墓場 夏日に炙られて耳許に来るは蚊の声ばかり

 めまひしてふと立ちどまる街の辻昔の「サンワ・ムジン」の所

  ※「躯」は略体字。旁は正字の「區」。

 これは、「炎暑の頃」と題した一連より引いた。いたって自由な歌風である。サルトルはむろん幻視である。「家群」が「墓場」に見えるのも幻視。昔の「サンワ・ムジン」には、たぶん地域の共同体におけるアジール(自由な避難場所)への郷愁をにじませている。炎暑を実感としてとらえながら、同時に嬉嬉として戯れてみせるのは、根っ子のところに強固な諧謔の精神が常に働いているからである。