さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

さいかち真文集 補遺

2017年10月09日 | 現代短歌
 ページ数の関係で割愛した小文があったので、ついでにアップする。けっこう愛着のある文章なのだ。

□小時評

 春日井建が帯文を書いた歌集に水上令夫歌集『彩み返さむ』(二〇〇三年九月・短歌研究社刊)がある。

大和地方への旅行詠を集めた歌集で、水上令夫の作品の間に、「未来」会員である妻の水上千沙さんの歌が何首か差し挟まれて構成されている。「彩み」は、「だみ」と読む。いろどる、彩色する、というような意味の四段活用動詞の連用形である。

  薬師寺に天平・昭和とふたつの塔「昭和の塔」は丹青の彩

という歌の結句に「だみ」と読み仮名が振ってあって、これは名詞となる。一集の成立の経緯は、

  思ひ消ゆる妻たづさへし寺へのみち癌擔ふいま妻に添はるる

という歌などからわかる。初句は、妻が心を病んだ時期にそれをなぐさめるために旅に出た記憶を踏まえているのである。同じ一連で、

  先を行く犬がをりをり振りかへるああそこだけの徑の明るさ

という水上千沙さんの歌の横に、夫の令夫氏の

  そこだけの明るさと妻なげきたる白毫寺への道鈍に曝れたる

という歌が並べて示されている。「鈍に曝れたる」は「にびにされたる」と読む。令夫氏の歌は、いわば返歌である。老年の夫婦の相聞歌。巻末近くには、

  きはだかく大気裂くこゑ倒れゆく朽木天柱への旅立ちならむ

という歌がある。今時こんなに古語を使い回せる歌人もそういるものではない。「天柱」はどう読むのか、あまのはしら、あめのはしら、あまつはしら。いずれにせよ、自身の命のはてを見据えつつ生あるものを荘厳した作品である。

  ふたりの影御堂の前にたたみゐつ互に死後を問ふこともなく

ここに日本の文化の現在がある。     (「未来」二〇〇六年)

□余白に 

 昭和十七年五月刊の中河與一編『女流十人歌集』を先日入手した。中河與一の短歌史における位置の微妙さもあるのだろうが、あまり話題にのぼらない本である。序文には、「思ふにわが国文芸の中心としての和歌の大半は女流によつて支へられてゐたのであつて(略)それは多くの男性をしのぐ優美の感情と、心を展かしめる放胆を歌の形式に託して歌ひいでてゐるのである。」とある。

 十人の顔ぶれは、与謝野晶子、四賀光子、若山喜志子、今井邦子、杉浦翠子、中河幹子、岸野愛子、吉川たき子、齋藤史、倉地與年子。編者は「自分はこれを大胆に選出したのである。世間の常識に従はず、昨今の和歌の危機を嘆くが故に寧ろおほらかに伝統の発想を女流の詠風の中に求めようとした。」とのべている。集中には日中戦争、欧州戦乱、対米開戦の衝撃が色濃く出ている。岸野愛子という大連に住み、歌誌「ごぎやう」に所属していた人の歌を一首引いてみる。

  わが念ひうちにしのべば流星の地にひきおとす光せつなき  岸野愛子

悪くない歌だと思う。    (「未来」二〇〇六年)


さいかち真文集1 2010年8月刊 前半

2017年10月09日 | 現代短歌
 一太郎ファイルの復刻。以下は製本を印刷屋さんに頼んだほかは、半ば手作りで作った冊子の再録である。目次にある中澤系論は、2016年12月19日にアップしているので割愛するが、読む会での資料はそのまま載せた。 

中沢系論ほか・さいかち真文集 1 

 はじめに  
 本来ならば一冊の本として刊行されるべき原稿である。それをこうして分冊のかたちにしてまとめている。これは半年前に作った長いタイトルの文集、『一九九八年の「未来」ニューアトランティス欄と一九九九年の「未来」月集欄を読む』の続編にあたる。表紙を含めて六十ページ。以前出していた「美志」という小冊子に似ている。前号の好評にこたえて作成することにした。皆様の友誼に感謝を申し上げる。これは私なりの悪条件との戦い方である。

 目次
メトロポリスの花束・藤原龍一郎小論 ☆3     
黄色い叛乱・森本平歌集『町田コーリング』 ☆ 9
加藤治郎歌集『環状線のモンスター』について ☆ 12
中澤系論(省略)および資料 ☆ 16 
作品評・韻律の伝達力(「歌壇」二〇〇五年六月号) ☆ 25
    対話の歌   (七月号)
    彼此を行き交う(八月号)
「前川緑歌集」のこと ☆ 42
〈痛み〉の場所・渡辺良歌集『受容体』を読む ☆ 50

メトロポリスの花束・藤原龍一郎小論

 さる六月十日、藤原龍一郎は、塚本邦雄の三回忌のあとに催された公開の鼎談の進行役をつとめていた。後期の塚本作品に焦点を当てながら、坂井修一や加藤治郎と並んで塚本作品への思いを熱く語っていた。その時の総合司会をつとめていたのが、林和清と魚村晋太郎で、会場からは北海道から駆けつけた短歌批評家の菱川善夫の挨拶があった。息子の作家塚本青史による挨拶もあった。その席上で藤原龍一郎は、会のことを思って興奮して眠れなかったというようなことを開口一番のべていた。若いころには神様のような存在だった塚本邦雄について、しかもその関係者が大勢集う会において、パネラーの一人として登壇するということは、確かに藤原にとって、喜ばしく緊張するできごとだったのではないかと思われる。
 一九九二年に刊行された第二歌集『東京哀傷歌』の後記に、藤原は次のようなことをのべている。

 「思えば、私が短歌をつくるようになった1970年代の前半、短歌の前線には岡井隆 も春日井建も不在であり、塚本邦雄は幻視界の彼方の遥かなる高峰だった。短歌はマイ ナーな詩形であり、流行やオシャレという言葉からはもっとも遠い存在といえた。
  こんな状況の中で短歌とめぐりあい、福島泰樹、三枝昂之といった先行者の作品から 刺激をうけ、情熱を吸収し、そして、なぜ短歌を選ぶのかを不断に問いつづけることで、 自分の表現を探っていかなければならなかったことも、今となってはかえって幸運だっ たのかもしれない、と思う。このような洗礼を経なければ、あくまで私性に根ざした述 志の詩、という現在の私の短歌観に至りえたかどうか、心もとないことは確かである。」                          『東京哀傷歌』

 このように作者自ら雄弁に自分の立ち位置を語っているのである。「あくまで私性に根ざした述志の詩」というような自己規定は、ものを書く人間は、本当はあまりしない方がいいのだが、著者はあえてそこまで踏み込んで言ってみせる。私は、藤原の評論集『短歌の引力』(柊書房)に収められた井上正一についての文章が好きである。それは「生きのびること」と題されていて、不遇だった無名のマイナーポエットの生涯に寄り添うようにして書かれた滋味あふれる文章である。

  「平凡に生き来しとしか思へぬに父の寝息は喘ぎに似たる      井上正一『冬の稜線』
   おとろへて飛ぶ秋の虫に逃げ道だけはせめて残して置いてやらうよ       『時鐘』

この二首の落差こそ、暗い深い闇なのだ。一九六〇年に「恋と革命に敗れた」として自 ら死を選んだ岸上大作には、ついに知ることができなかった、生の辛酸なのだ。生きの びることの苦汁なのだ。」                  『短歌の引力』

右の文章を見ればわかるように、藤原の言う「述志」というものは、別にそんなに格好のいいものではない。実の父に対して残酷なまでに冷厳な観察眼をはたらかせていた井上正一という歌人が、中年期に入り、いささか人生に疲れて来て、衰えて飛ぶ秋の虫に、せめて逃げ道だけは残して置いてやろうよ、というような弱者としての共感を示す歌を作るに至ったことを、「この二首の落差こそ、暗い深い闇なのだ。」と解説する筆者の筆は冴えている。死なないで生きのびることは、時には、すぐに死ぬよりずっと苦しいことである。続けて筆者は、「一人の岸上大作の陰に、生きのびることを選んだ無数の井上正一がいるはずなのだ。」と書く。ここには、「生きのびる」ことを選んで来た筆者自身のさまざまな思いが投影されているだろう。

 藤原の出世作となった「短歌研究」新人賞受賞作の一連は、第二歌集の巻末におさめられているが、そこには、職業人として生きながら、「文学」にかかわることの苦汁が表明されていた。

  逃亡と虜囚といずれわけがたきわれに自虐のごとき春雷   『東京哀傷歌』

  ラジオ局がもし月光の牢獄ならディレクターとはいかなる罰か

  巻き戻すビデオの中の逆行の人生、もしも、されど、それでも…… 

 「自虐」というのは、藤原好みの語彙で、屈折した、一種の受け身の感覚を示している。「抒情」という語を作者は多用するが、私はこの語句を見るたびに、自虐の背中に張り付くナルシシズムのようなものを感じ取る。そうして、そういう機制に敏感に反応する自意識を保持しているのが、ほかならぬ作者自身なので、そこのところを読みまちがうと、藤原の作品は読者に近づいて来ないだろう。

 このほかにもう一つ、作者好みの語彙として、「嘘」という言葉を第一歌集の代表的な歌に見いだすことができる。作者の自選五十首(『現代の第一歌集』)の冒頭の四首を引く。それから、「自虐」という語が見られる歌も一首引いておく。 
 言の葉をもてあそびたる罰なるや夢みる頃を過ぎてまた夢

 散華とはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことなのだろう

 ほろびたるもの四畳半、バリケード、ロマンポルノの片桐夕子

 嘘いくついいわけいくつ吐きて来しくちびるに花花は紫陽花

 週間宝石「自虐の詩」を笑いつついつしか強者の側につくわれか

 私はここで、「罰」とまで言わなくてもいいのではないか、自分の言ってきた言葉が、すべて「嘘」であるなどと、そこまで言わなくてもいいのではないか、と思うのだが、このように言い切ってしまった言葉を読んだあと、「うん、やっぱりそうかもしれない」という説得される感じが、ついで呼び起こされるのは、何故だろうかと、いつも不思議に思って来た。こうして書いているうちに気が付いたのだが、それを呼び起こしているのは、「岡田有希子」や「四畳半、バリケード、ロマンポルノの片桐夕子」といった、時代の匂いを濃厚にまつわらせた語彙を含んだ前後の歌なのである。藤原龍一郎の「述志」の歌は、それだけでは作者の思いが迫り出し過ぎるところがあって、「自虐」や、自「罰」やの中和剤を必要とし、さらにまた、過剰なまでの風俗的な固有名詞の氾濫によって支えられているという特徴があるのではないか。

 二〇〇二年に刊行された『花束で殴る』という歌集のあとがきで著者は次のようなことをのべている。

 「一九九二年から二〇〇一年までの十年間の作品がこの一巻に収録されている。『19 XX』が「時代」、『嘆きの花園』が「東京」、『切断』が「言葉」という主題のもとに 編集された歌集であるように、この『花束で殴る』の主題は「私」である。私性の詩で ある短歌で、どのように「私」というテーマに挑んだか、作品を読んで確認していただ ければありがたい。」                                              『花束で殴る』
これまでに刊行された歌集の性格をつかむうえで、わかりやすいので引いてみた。ここには短歌批評家としての藤原龍一郎の几帳面さが、よく出ている。『花束で殴る』というのは、まるでハード・ボイルド小説の題みたいで、格好いい。何首か歌集から引いてみる。

  ゲーム中断したるたまゆらをモニターにリアル・タイムの内戦映り

  『種牡馬辞典』220ページ、ムーンマッドネスそのせつなき名忘れられない

  黒く塗れ!と誰かが言った 明日こそはレボリューションと誰もが言った……

  塔晶夫著『虚無への供物』贖いし一九六九年二月の霙

  真夜中も虹の架橋は電飾をまとい悲壮なコスプレである

  満月を蒼き虚空に配置してハマー・フィルムのような世界だ

  ギョーカイの人なれば世を浮き沈み世界の果ての滝へと落ちる 『花束で殴る』

 ニッポン放送の職場と、住んでいる湾岸の喧噪に囲まれながら、藤原龍一郎は、極彩色の消費文化の洪水に押し流されている人間が、都市空間に歴史と記憶を回復しようとすると、どれだけの苦闘を強いられるかを、身をもって示している稀有な存在である。

 藤原の電脳日記「夢見る頃を過ぎても」は、実に話題豊富で、短歌についての話題だけではなく、競馬やプロレス、それから俳句と書物の収集の話などが豊富に盛り込まれていて、実に楽しい。大昔の文学青年が、そのまま初志貫徹した姿、それが現在の藤原龍一郎なのだということを、読者は自然に納得させられるのである。しかし、翻って、趣味人としての作者の日常の姿をサーチすることに慣れてしまうと、ついわれわれは、この作者が提起している大きな課題を意識しないことになってしまうのかもしれない。これは、インターネットの危ういところである。

  終末の映像として凝視する煙雨にけぶる池袋サンシャイン

 地下鉄は首都の地底を縦横に走りてわれも首都の走狗ぞ

  文学と、そう、ブンガクとことさらに言葉に出せば二四時の時報  『花束で殴る』

 志なかばにして倒れた藤原の詩友の仙波龍英には、パルコの歌があった。走狗というのは、学園紛争時代には、権力の走狗などといって相手を論難する時に使われた語だ。私は藤原龍一郎には、最後まで「文学」と言ってほしいと思う。
(「詩歌句」に掲載 二〇〇七年六月筆)

黄色い叛乱・森本平歌集『町田コーリング』

 一九七〇年代後半からパンク・ロックのムーブメントが、主にイギリスのロック・シーンで展開されて、それが急速に成熟していったのを、八〇年代の前半に青年期を過ごしていた私も知っている。著者の森本平は、若い頃にロックバンドをやっていたことがあるので、その頃の音が、体の中に、精神の底に食い入ったかたちで血肉化されているのだろうと思う。これを書く前に、パンク・バンド「クラッシュ」のCDを中古屋で見つけて来て聞いた。そのヴォーカルが、本書の巻頭に献辞を捧げられている、つい先年物故したロック歌手のジョー・ストラマーである。アルバム「ロンドン・コーリング」はなかったので、その前のアルバムの「白い暴動」を聞いたのだが、昨今の腐ったポップ・ミュージックの、ラブ・ソングしか能がないような惰弱なものとはちがって、真っすぐで過激な政治的社会的なメッセージを、ロックンロールの禁欲的なリズムに乗せて、がつん、がつんと打ち付けて来る、厳しくて真剣な音楽なのであった。そこには、私が好きだったプログレッシブ系ロックの自己陶酔がない。ジョー・ストラマーは、初めから終わりまで眼を怒らせて、叫び続けている。安易な共感と連帯を拒否している。罵倒し、こき下ろし、痛々しいほどにストレートである。それは、私自身の青年期のある感じを生々しく蘇らせるものでもあった。森本平にとっても、「クラッシュ」のジョー・ストラマーはそのような存在であったのにちがいない。そうして、今ここに私がジョー・ストラマーの作品の説明として並べた言葉は、そのまま森本平の作品に当てはめることができる。

ジョー、君のいない世界だ 踏み台に相応しからん木の蜜柑箱
 
 さっさと首をくくった方がましなほど酷い世界に、われわれは今生きている、という意味の歌。これが、ジョー・ストラマーへの挽歌なのだ。

 パンク・ロックには、パンク・ロックの話法というものがある。それは現実社会の不正と不条理を糾弾してやまない風刺の言語を持つ。一方でその徹底的に攻撃的で破壊的な言語も、商業資本によってひとつのファッション(服装や髪形も含めて)として様式化されてしまったという過去がある。まぎらわしいのだが、創作行為の源泉に怒りを置きながら、その怒りを一定の様式化されたロック言語として販売する、というのが、この分野の音楽の苦しい存在様態である。だから、それは初心を忘れれば、あっと言う間に堕落する。そういう危うい存在であるロック・ミュージックに心を寄せて来た日本の視聴者が大勢いて、森本平はその中でも良質な部分に属しているだろう。

 さて、短歌にそのパンク・ロックの話法を導入したらどうなるのか、というのが森本平の一貫した試みであった。われわれが作っている短歌には、特に近代短歌以来積み上げた話法の歴史というものがあるが、そこにパンク・ロックの話法を持って来てぶつけたら、当然それは異質なものとなるし、破壊的なものにもなる。問題は、短歌にそのパンク・ロック(だけではないが)の話法を導入することは、妥当なのか?ということになるだろう。ここのところで、菱川善夫のように、それを「醜歌」として肯定する立場もあるだろうし、逆に一方的に嫌悪し、忌み嫌う立場もあるだろう。端的に言って、森本平の話法は、従来の短歌の話法を異化する作用を持つものである。良識を逆なでし、怒りを買い、人を不快にさせるような言葉を、わざわざ持って来る。悪趣味なものを積極的に収集していると言ってもいい。しかしながら、その悪意の底を流れる一筋の純粋なものを見失ってはならないだろう。忘れもしないが、角川「短歌」に次の一連を見つけたとき、改めてこの作者の創作意志は本物だと私は思ったのだった。

泡を吹くコカ・コーラより学びたる文化の極み――だから、死になよ。

  わからねばヨブ記を読めと折々のニュースが諭す――だから、死になよ。

うかうかとここがあなたのパラダイス時計は爆ぜた――だから、死になよ。

 型破りである。そうして、ある種の読者の神経を、たぶんまちがいなく逆なでしている。こんな一連もある。

第九条 国軍として自衛隊を保持し米本国の意向に常に従う

第十二条 国民は努力を怠って権利と自由を日々手放すべし

  第十八条 日常としてのそれ以外何人も奴隷的拘束を受けない

 ここには黒い笑いがある。これも、ある種の人々、何の批判的精神も持たない読者には、わからないか、迷惑な作品であろう。こういう痛烈な作品が原因で、作者は実際に働き口を失ったことがあるという。野暮な学校経営者もいたものだ。

  〈絶望〉に絶望をする夕暮れにたこ焼きひとつ落としてしまう

穴を掘る 役にもたたぬ穴を掘る 朝昼晩とただ穴を掘る

  プラトンに教わったこと午後二時にポッキー鼻から食ったら痛い

特大の国旗の脇に飾られしセクシー・ダイナマイトな乾燥死体

 ブッシュのアメリカが起こした戦争と、それに追随するほかなかった日本。ここで「絶望」には、たこ焼きひとつ、プラトンには、鼻から食うポッキー、といったチープな取り合わせが生きて来る。この落差は、真に「絶望」しようとする者の意欲が生み出したものなのだ。 (「砦」二四号 二〇〇七年四月)
  
加藤治郎歌集『環状線のモンスター』について

 現実の世界は暴力に満ちている。紛争と局地的な戦争も絶えない。詩歌は、現実の暴力をどうやって自己の一部として構成するのか。むろん、それは言語のイメージによって為される。では、どんなイメージをもって暴力の意味、もしくは無意味は開示するのか。また、言語によって開示されるものは、暴力それ自体の直接性なのか。それとも暴力についての何らかの思考なのか。あるいは倫理なのか。

 加藤治郎の短歌のあるものには、読んだ時に暴力的なイメージを喚起されるものがある。今度の歌集では、意識的にそういう作品を多く並べている。作品の作られた時期が、ちょうどアメリカによるアフガニスタンとイラクでの戦争の時期に当たっている。メディアを介して伝えられたとは言え、戦争の緊迫感と緊張感はまぎれもなく肌身に感じ取れるものだった。それを加藤治郎は作品化しようとしている。

 とりあえず言っておくならば、われわれ人間は暴力的なイメージを楽しむことができる存在だということである。人間には動物としての攻撃性がある。それを文化のかたちで昇華させたものがスポーツだと動物学者のコンラート・ローレンツは言った。暴力は苦い。特にその被害者にとっては圧倒的な不当さを持つもの、世界の理不尽そのものである。しかし、それを見ることには快楽が伴う場合がある。

 まず加藤治郎の作品がもたらす快/不快があるとしたら、それは暴力的なイメージを楽しんでいる作者/読者である自分自身への不快感ということになるだろうか。それから、作品自体がわざわざ「快」の要素よりも「不快」の要素をより多く喚起して来る場合がありながら、その背後にある思考(思想内容)が読み取りにくいということも、いらだちをかき立てる原因のひとつである。

 連作としては短く切り詰められすぎているために、一つの章を読んだだけでは、作者が個々の暴力的な事象に対してどのような態度なり情緒的な反応なり、倫理的な対応を示そうとしたのかが、よくわからない。その点が倫理的な態度表明が明白で意識的な渡辺幸一の作品などとは対蹠的である。ただ加藤作品にあって渡辺作品にはないものがある。それは暴力的な事象を知的に裁断する前の情緒的なイメージの提示自体に作品のねらいが集中しているということである。そこにはオノマトペの使用や、イメージの衝突や、パーレンやルビを用いた異化とポリフォニー(発話の多声化)の手法など、あらゆる方法的な意匠がこらされている。特に丸ガッコを逆にした使い方 )( は、新たな技法として注目に値するだろう。丸括弧 ( ) には、但し書きとか、補足とかいったニュアンスがどうしてもつきまとうので、それを逆にして使用することによって、一行につながった短歌をそこで切断するニュアンスを純粋に強調することができる。それは一字あけとは別種の断裂なのであり、作品に開けられた穴、もしくは切り傷である。

 さてイメージというものは、原初的なものでありながら同時に高度に政治的な作用を持つものでもあるのだ。だからイメージは、思想的なものだと言ってもいいのである。このことを踏まえたうえで加藤作品を見ると、端的に言うならば読者にどのような思想を語ろうとしているのかがわからない時がある。ここで私は、別に無理に作品が倫理的でなければならないと言っているわけではない。そうではなくて、原初的なイメージが同時に高度に政治的なものであるような危機の位相を持ち絶える姿勢において、加藤作品は時にあまりにも快楽主義的だということである。言い方は悪いが、どこかで暴力的な事象を楽しんでいる時がある。これは多くの日本人がそうなのである。見る側であり、傷つく側ではない。煎じ詰めると自分がその暴力の犠牲になっていないために、余裕がある。まれに紛争地や疫病流行地に行く人だけが、本物の緊張にさらされている。

  弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて

 うまい歌である。でもこれは映画やゲームの画面のなかの出来事にみえる。ところが、

  ケイタイの平たき中にあらわれるニッポン人の首は痛しも

 は、意味はわかるが作品としては弱い。あとがきにもあるが、これはチェーンメールで中学生の間に邦人殺害の動画が出回ったことに戦慄を覚えて作られた一首である。先に引いた作品は、作者の修辞的な洗練が際立っているにもかかわらず、撃たれた頭が自分の恋人や息子のものだったかもしれないという痛みはない。一方で現実の日本人の死者の斬られる首は「痛しも」と感じられる。ところが、「痛しも」と言った瞬間に作品は詩的興味の乏しいものになってしまう。ここに詩歌の難しさがある。
 ここには引かないが、自爆テロのチェチェン人姉妹をうたった一連がある「潜水病」の章は力作だが、読んでいくうちに作品の素材が別の対象へとスライドしていって、とりとめがなくなる。そういう歌集の構成上から来るもどかしさと、わかりにくさがある。この一連では繰り返し出てくる「鶏」のイメージの処理の仕方が不徹底であると感ずる。一連になっているために、かえってわからないということがある。

  収容所行きはなけれど右回り循環バスの老人の群れ

  キノコ雲やがてほどけてゆきし後の怖ろしき形思い居たりき

 こういう歌は、まさに自分の身に近いことだからわかる。一首めのブラックユーモアも効いている。

  溶けそうな四角いマーガリンがあり怒鳴りあい喚きあい抱きあう

 言語感覚の冴えが身上の詩歌人として、こういう作品だけを作っていても十分にやっていける作者である。
  いんいちがいちいんにがに陰惨な果実の箱はバスの座席に

  少年兵は鉛筆のようぎんいろの認識票を胸に垂らして

 こちらは、いいのではないか。こういう歌には、先程から私が批判してきたような他所事の感覚がない。時代の危機が深まったぶんだけ、遊びが許されない雰囲気が強まっている。そのなかでどういう〈遊び〉は正しくて(ふさわしくて)、どういうものが正しくない(ふさわしくない)のかは、厳しく吟味されるべき時代が到来していると私は思う。おしまいに結語めいたことを書いてみるなら、作品に他者(過去と現在の世界の死者。他国の死者も含む)の視線を内在化させる努力が、作品から余分な要素を削ぎ落としていくことになるのではないだろうか。 私は、加藤はそれを為し得る作者だと思っている。           (二〇〇五年 レヴューの会レジュメ改稿)

中澤系論 (省略 2016年12月19日の項へ)  
   

〇資料 本日は花の候、中澤系歌集『uta0001.txt』 のためにわざわざお集まりくださり、有り難うございました。今日は主役の中澤 系さんは、病気で出席できませんが、内容はテープで作者の耳に届ける予定です。現在、歌集の残部はなく、何とかして重版したいと思っていました。幸い再びご家族の協力を得て、それができそうな状況です。この本を欲しがっている方が、私の周辺にはたくさんいます。今日もお持ちでない方は、その際にぜひ手に入れていただきたいと思います。
 さて、この本の成立には、多くの方が関わっています。跋文を執筆された岡井隆先生、それから栞文を執筆された佐伯裕子さん。お二人には今日の会の発起人になっていただきました。本当に有り難うございました。それから、本日は都合で参加できませんが、同じく栞文を執筆し、中澤さんの歌集について、今もあちこちに書いたり言及したりしてくれている穂村弘さん、加藤治郎さんのお二人にも、私はここで中澤さんにかわってお礼を申し上げたいと思います。先月開かれた斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』の出版記念会のレジュメに、穂村さんが、中澤系さんの作品を引かれていたことは、会場におられた方の記憶に新しいところだろうと思います。昨年の「短歌研究」の十月号の若手歌人の反響と、十二月の「短歌年鑑」の文章を見て、私自身、もう少しこの歌集のために何かしなくてはいけないと考え、この会を企画しました。
 この歌集は、出版直後に、歌集の第Ⅱ部の末尾の作品、つまり作者が「未来」に投稿した最後の一連が、川本真琴さんというポップス・シンガーのアルバム「DNA」の歌詞をそのまま使って再構成したものであることが、明らかになりました。幸いに作者と著作権管理会社ソニー・ミュージック・エンタテインメントの許諾を得て、事なきを得ましたが、何しろ作者は意思表示が困難な難病で寝たきりなため、こうした手違いも起きてしまいました。けれども、このことによって中澤さんの作品集の独自性が損なわれることはないと思います。これは、病が進行する中で、半年以上「未来」への原稿送付が途絶えた後、やむにやまれず送ったメッセージだったのではないかと私は推測しています。DNAというタイトルが暗にそれを物語っています。結果として、歌集の硬質な文体が、ここで崩れてしまっている印象があるのですが、最後の投稿ということで、編者としては、これは省くわけには行きませんでした。歌集をお持ちの方は、一二〇ページの「1/2」という章題の下の余白に、「この一連は、歌手川本真琴のアルバム『DNA』の歌詞を再構成したものである。」という一行を付け加えていただくようお願いいたします(付記。第二版では、この趣旨の言葉が挿入された)。
 私見では、中澤さんの作品は、八十年代から九十年代にかけてのポストモダン的ニヒリズムに浸透された青年の痛々しい内面をさらけ出しながら、認識の詩を目指したところに特徴があります。その後の本人の病気のこともあり、それを知ればなおのこと、ひりひりとするような読後感が残ります。彼の作品には、まるで自身の病気を先取りし、予感しているようなところが感じられます。そのことに運命的なものを感じて、作品の力ということと、表現ということの恐ろしさを思い、私は一種の厳粛な気持にとらわれます。今日はそのことの意味を多角的に検証してみたいと思っています。
 幸いに、若手の新鋭歌人の黒瀬珂瀾さんに司会をお願いしたところ、快く引き受けてくれました。「未来」からは、若手の中沢直人さん、笹公人さん、それから私の世代に近いところで嶺野恵さん、秋山律子さんにもパネラーをお願いしたところ、どなたも快く引き受けてくれました。皆様の文学の場における友情に感謝します。会場の皆様には、積極的なご発言をお願いいたします。


さいかち真文集1 2010年8月刊 後半

2017年10月09日 | 現代短歌
 一太郎ファイルの復刻。以下は製本を印刷屋さんに頼んだほかは、半ば手作りで作った冊子の再録である。目次にある中澤系論は、2016年12月19日にアップしているので割愛するが、読む会での資料はそのまま載せた。  

  後半

○「歌壇」作品評  六月号 韻律の伝達力  
 この六畳に夜々のねむりの北枕その枕辺に本積み上げて     清水房雄

 はなから縁起でもない歌を引いているようだが、ある人の説によると、北枕は大地の気の流れに沿ったものだから、体に良いものなのだそうだ。これはたぶん道教の発想で、漢文が専門の作者は、中国の文人の故事にならって、そうしているのかもしれない。そうであるとしても、一首から受ける印象はあまり明るいものではない。一連の、

  八十九年何よろこびの有りしかと薄ら笑ひを洩らしたるのみ
  統計にもさまざま有りて男性の自殺は早朝女性は昼ごろ

 というような歌をみると、いくつになっても人生は悩みが続くことに変わりないことを思わせられる。そうした現実を見つめ続ける精神の勁さを持つことに、無償の意味を見いだそうとするところに、近代文学のリアリズムの理念があった。眼前の厳しい生活事象に直面した時に、それに向き合うてだてとして、リアリズムは威力を発揮してきたのである。自他の陋劣さに最後まで視線を注ぎ続けようとするところに、清水氏のアララギ人としての意地というものがある。

  ひらひらと跳ねくる白き膝がしらぼたん雪しくソニー通りに       篠 弘
ふうはりと芽のほどけくる高曇りしてプラタナス枝をひろげつ
モナリザの画板が空調に歪むといふ夜のニュースより泥酔はくる

この一連は、銀座の画廊をめぐりながら往年を回顧するという構成のものだが、全体を通して、言葉が自在に働いていることを強く感じさせられる。作者は、いま老年の予感のなかで、円熟した歌境にあるのだろう。絵がテーマになっているせいもあるかもしれないが、右に引いた歌のどれにも、絵画的な感覚の揺れのようなもの、動きつつあるものを筆で描こうとする時のダイナミックな輪郭のぶれのようなものが、出ている。そうして、それがなかなか様式的に洗練された印象を与える。さながら一つの描法を確立した画家の画風に接する時のような爽やかさで、それが感取できたのである。

  盟てつばきはあかし 生き生きて光のなかに暗くわらへり       日高堯子
うつとりと老父母は日だまりに穴といふ穴みんなゆるめて
  鳴門はや 乳房のふもとながれゐる朱はあたたかし朱は生きる色

篠弘が中間色を多用する画風だとすれば、こちらは原色派である。一連には色彩語が多用されており、あきらかに色を意識して作った歌もある。一連の背後には、釈迢空の作品世界の持つ呪的な空間や、四国遍路の風光を下地に置きながら、三首めからは作者の地声が聞こえてきたような気がした。それは、初句の詠嘆のあと、二、三、四句が描写句として、やや受け身の安堵感を持ちながらやわらかく語りつぎ、それを受けて立ち上がって結句の「朱は生きる色」という強勢に至る筋道が、惚けた父母と日々対面しながら生きる作者の現実の受容と、その中での自己励起という心の動きを、一首の調べがそのままなぞるもののように思われたからなのだった。この強勢の作り方は、短歌のひとつの型なのだけれども、そうした型を通して短歌の調べが持ってしまう伝達力というものが、あるのである。

 六月号の特集は「韻律の不思議」である。一つだけ取り上げてコメントすると、今野寿美の「折り合いをつけている文語と口語」という文章の視点が、すでに幾度も確認されていることではあるが、今日の短歌の文体を語る際の基準点に位置するのだろうと思った。啄木と青山霞村の『池塘集』の口語歌の話から始まって、早川志織と吉川宏志の作品を引きながら論じてゆくあたり、無理なく読ませるものがあった。今野は吉川の歌、「いつか僕も文字だけになる その文字のなかに川あり草濡らす川」という作品について、「初句は六音で勢い込んだ語り出しとなっており、歯切れ良いこの部分の口語に対して、それを受けるのは文語混じりの繰り返しの句法。それが韻律的な快さを与えている。」と書いているが、簡潔な筆致の、作品に付き添うような読みの言葉は見事である。やはり論者が何事かを語るのに、四頁分程度の行数は必要なのだと思ったことであった。

 さて、「口語」といってもそれは書き言葉の一種である。その口語による短歌の言葉自体に、「詩らしさ」を保証するものが、なくてはならない。今日の若手の口語による短歌作者の多くは、それを意図してか、しないでか、修辞や素材の選び方において、独特の奇矯さや、人の意表を突くことに血道を上げているように見える。次に読む東直子も、日頃からそういう修辞合戦の文化圏で活動している。一連の後半には実験的な修辞に傾斜した作品が並ぶのだが、私は前半の方が普遍性があると思った。

  呼び声に答える声がこだまする なぜなぜ青いビニールシート     東 直子
  見送りはそこの角まで ゆれていた雲のかたちがきれいに消えた
行列は星のどこかにつづいてるあなたのうしろのうしろにわたし
  眉のない女の子たち改札を抜けておたまじゃくしの如し

一連二十首の中から四首引いたが、三首めは、一見するとメルヘンの世界に見えるが、「うしろのうしろ」と言うことによって、死すべき存在としての運命を予感している。だから、ただのムードだけの歌ではない。また、一首めの「ビニールシート」というような語が、現実の手触りを呼び込んでいる。そういうところが、なかなか巧みな作者である。ただ歌会の批評風に付け加えておくと、四首めの「眉のない女の子たち」が、早熟な化粧をして眉を剃っている女の子たちだということは、わかりにくい。読者によっては、そうでない読み方をしてしまうかもしれない。ここには細部の描写不足があるのではないか。
時田則雄の一連二十首の中には、口語交じりの歌が三分の一ほどある。次に引く一首めと二首めの「だよ」という語りかけの言葉は、三首めのような現実を背景に置いて読む時に、その含んでいるニュアンスが了解されるものだ。投げ出すような、ため息のような、在るものの意味を確かめる響きである。読者が作者のことを知っていることによって成り立つ共感の領域が、ここにはあるのだが、一首一首の集中度は低くなっている。その点がどうなのかと思ってみたりするのだ。

農協の車両整備の工場へ運ばるる泥まみれの青いトラクターだよ     時田則雄
  肥えすぎの猫抱き椅子に凭れゐる妻だよ土の匂ふ春だよ
この二年のあひだに父逝き息子逝き明日の仕事に呑まれてをりぬ

 さて次に、文語を基調としながら、それに口語を混交させた歌の楽しさを遺憾なく示した例があるとしたら、それは高野公彦の「ふだらく」と題する一連三十五首のようなものになるだろう。

  世の中は深くて遠し香箸にいまだ出会はぬ六十三歳           高野公彦
  久羅下那州ただよへる国平成の今も震へて山や家を倒かす
  励ましてくれた人、ほめてくれた人その中でいちばん古い人、母よ  
  水煙は刃光りす千年の櫛風沐雨思ほゆるまで
塔の秀の水煙をふり仰ぐとき補陀落そこにある如き燦

 どの歌も、「飛行船やまと漂遊記」というタイトルの飛行船のように軽快で、軽合金製の表面には磨きがかかって、ぴかぴかと輝いている。三首めなどは、わざと型を崩した口語で作っている。そうして四首めのような古語、孤語の探索を通して丹念に拾い上げられた言葉の活用は、読者の好奇心をかきたて、一連全体に精彩をもたらしている。作者は、大和紀行の歌に新境地を拓きつつあるのではないか。

 それから、文語の教養派の歌では、米口實の特別作品二十首「南殿の花」がおもしろかった。おおどかな王朝和歌風の文体で、作者は四位の貴族歌人の感懐に、想像によって分け入ってうたうのである。古人に仮託した浪漫派風の嘆きは、作者自身のものでもあるだろう。作者は大正十年生まれだ。

  咲く花のひかり溢れてとどまらぬ廂にをれば涙ながれつ     米口 實
よろぼひてわが歩むなる道のうへ啼き移りゆく花鳥のこゑ

 すでに紙数も尽きようとしている。六月号の評論シリーズは、一ノ関忠人の「『兵士』と短歌」と題する文章である。いま私も戦時中の歌について、自分の所属する結社誌にいろいろと書いているところなので、これはなかなか教えられるところの多い文章だった。私は宮柊二の歌集『山西省』は、虚構を含んだ構成的な歌集として読むべきだと思うのだが、文中で一ノ関が引用している『兵士であること―動員と従軍の精神史』の著者の鹿野政直は、『山西省』を読んだ感動を兵士の歴史を研究するエネルギーに変えようとするのである。鹿野は早稲田で自由民権運動や、田中正造のことなどを講義していた歴史学者だが、短歌のような文学作品を資料に使って歴史を書いてみたいといつか述べていたことがあった。著者はその積年の念願を果たしたのである。
 「短歌」六月号より。子育ての楽しさを伝える一連の中から、一首だけ引く。全国のシングル・マザーの代表選手として、私は俵さんを応援したい。

  たんぽぽの斜面をゆけり犬が子がたぶん蚯蚓がきっと魑魅が      俵 万智

七月号 対話の歌

  とりがなくあづまのくにのおくがにてセコムされたる屋形に棲めり 岡井 隆
  くちなはのいづる庭さへあるべくもなきコンクリのあたたかさかな
  立ち入らでひとのあひだをかきわけてかへりきぬれば夕妻のこゑ

 「新古今的な住まひ方」と題した一連二十首より。奇抜なタイトルだが、その含みは、特に「新古今集」から着想を得たというような意味ではなくて、万葉、古今から現代のコマーシャルに至るまでの言語環境の総体をひっくるめて、自分の歌の領域に引き込んで来る作者の作歌の方法そのものが、「新古今的」ということなのだろう。最新設備が満載のマンション住まいをしながら、同時に古来の文人の隠棲的気分を確かめようとする時、「新古今的」とは、自ずと口をついた言葉なのだろう。もともと作者の場合は、ひとつのテキストや、特定の状況を媒介として、そこから自由連想的な糸を幾本も走らせながら、詩的想念を展開する方法を得意として来た。以前は難解のそしりを受けたこともあるが、近年は逆に意味の方を削ぎ落として、言葉の音の響きを楽しみながら、近世南画風の、画面に余白を取り込んだ作風となっている。

 一首目の「とりがなく」は言うまでもなく「吾妻」にかかる枕詞。実際はマンション住まいなのだろうが、それを「屋形」としゃれて言ってみせている。「セコムされたる」という言い方には遊びが感じられ、二首めの「コンクリ」という片仮名語の軽い語感も、歌に楽しげな表情を与えている。そうして、「あるべくも/なき」の句割れも、軽いユーモアを感じ取れるのではないかと思う。もう少し解説を加えると、初句の四語音節の「くちなは」と、「コンクリ」の四語音節は、一首の中で違った触感のもの同士が響きあっているのである。私は最近、夕暮れ時に都市の大きなマンションの前を通りかかった時に、不意に一斉に人が出で立ち、人声のざわめくような一瞬に出会ったことがある。三首めは、そういう感じをうまくとらえていると思ったのだった。

  山椿落つるもひとつは寂しからむ落ちてみつ、よつ、七つ相寄る 山埜井喜美枝
  二年目の帽子はややに草臥れてさらに疲れたる頭にのりぬ
  口さみし小腹空くなど安々と言ひて飢餓の日を早やも忘るる

 山埜井喜美枝の二十首「八十八夜」から。この作者は、古語を巧みに使いこなして滞るところがなく、しかも読んだ印象は、口語的で闊達な響きを持って印象されるところに特徴がある。ある年齢以上の関西の婦人の言葉には、日常の会話語が自ずと律文のような響きを持っている方がおられるが、作者の場合は、日々が古語的生活とでも言おうか、そういう言語圏の周縁に、歌の言葉が地続きで在るという感じがする。作者の歌は、どの歌もさばさばとした、九州女のきっぷの良さのようなものを感じさせるのだが、今思いついたままに書きつけてみれば、山埜井の歌は、徹底して対話的(ディアレクティック)なところに特徴がある。この歌人の作品は、歌う対象となる物や、自らの言動そのものとの不断の対話によって成り立っているのである。だから、会話に特有の遊び、冗談、しゃれ、地口、それから、奇抜な見立てへのこだわり、観察のうがち、といったものが呼び出されて来るのは、自然の成り行きなのである。掲出歌は、四句めが似た声調の歌をたまたま並べて引いてしまったが、「落ちてみつ、よつ」「さらに疲れたる」「言ひて飢餓の日を」というように、三音と四音(五音)に分けると、前半の三音に強勢が来て、それを受ける後半四音(字余り五音)という抑揚の作り方が、共通している。この四句めに見られるような調子の屈折と、反語的な機知の表出とは、基本的に相伴うものなのである。さて、現在の岡井隆が、「見ずもあらず見もせぬ」というような虚辞を意識的に用いて減速する調べを追求しているとしたら、山埜井はどんな加速と減速の方法を今後編み出して来るだろうか。

  この一粒いかなる花にならむかと思へど鸚哥の太き嘴が剥く      藤井常世
  屈せずと思ふこころよくろがねのドーベルマン二頭われにつき来る

藤井常世の「万緑の深さ」一連二十首から。一首めは、好奇心の旺盛な作者が、しげしげと飼い鳥の食餌のようすを見つめている姿が思い浮かぶ。前に並ぶ歌から、これは向日葵の種だと知っていて読むのだが、たしかにあの愚直な小鳥どもは未来に咲くべき花を食べてしまっているのである。二首めに引いた歌の二首前に、「よだれ垂らし喜ぶ犬と遊びしひととき 犬臭くなりて帰りぬ」という歌があるけれども、それと掲出歌の犬が同じ犬かどうかはわからない。ドーベルマンは、犬としてはかなり恐ろしい印象があるから、右の一首だけ取り出すと、歌がずいぶん強い印象のものになってしまうようだ。でも、これは線の太い、剛毅なところがある歌で、藤井常世の一種のモラリストとしての資質をよく示した歌だと思う。

 夏の陽の光眩しき午前九時 我は昨日の我に苛立つ   田中拓也
冷え冷えと空より下りくるものを待ち侘ぶ我は虹抱き締めて

 田中拓也の「恋瀬川」と題した二十首には、整った清潔な叙情が感じられる。二首めの歌の「空から下りくるもの」はいったい何だろうか。夜の闇か、月光か。全体に痛々しい孤独感が感じられ、相聞的な気分を下地にした構成的な一連の中で、これは理念的なものの詩的な表現として、高度な達成となっている。今の時代に、こういう祈りのような想念を純度を持って保ち続けることができるというだけでも、それはやっぱりひとつの価値であると思う。

 この号は「戦後六十年、それぞれの青春のうた」の特集で、伊藤一彦選による「青春の歌」百首選が載っており、田中の歌も一首採られている。ちなみに十年ほど前、本誌に載った伊藤一彦による「青春の歌百首選」を私は愛読した記憶がある。

 次の藤原龍一郎の一連「果敢無」は、林田紀音夫の句集『幻燈』から引いた俳句を一首一首の詞書として置き、それに対する応答の歌によって構成されている。

     濡れた身を情死の果てのごとく拭く

  死なざればバスタオルにて裸身拭き黒酢を飲みて眠らんとする    藤原龍一郎

     騎馬の青年帯電して夕空を負う

 コスプレとして電飾の軍服の少女一団堕天使のごと

   婚姻のオルガンが夜は挽歌を弾く

  俗臭を放つ肉体壊れゆく日々を愉しむ楽を奏でよ

     象に日が射すそのさびしさの極まるまで

  ジパングへ象は運ばれいくたびも象は運ばれ客死せしとぞ

 一首めは、下句まで読んで来て、微笑が口元に浮かぶ。この作者が最近体調を崩して入院したのを私は知っている。そのこととこの歌は、別に何の関係もないのかもしれないが、あると思って読んだ方がおもしろく読める。二首めの前に置かれてある俳句は、黙示録的、かつSF的な光景で、歌の方は、それをいかにもテレビ局前で見かけそうなスナップに変換してみせる。こういう応答は、藤原龍一郎の独壇場だろう。三首めを見ると、やっぱり自分の体が気になるということが根っこのところにあって、一連が作られているのではないかと思われる。日々の仕事の中で自分が俗悪なことを為しつつあるという鋭敏な自意識が生んだ歌である。四首めは、この作者のまだ未開拓の一面を示唆している歌だと思う。

ハンバーグ普及せしのちにつぽんにクレマチス増えて鉄線退きぬ   高野公彦

法華経巻第六(法師功徳品)に寄す

二十年ひげを剃る顔映しつつ鏡老いたり吾は老いざるに

牛羊の香、男の香、女の香、童子の香、叢林の香を聞きて老いゆく

 連載中の「飛行船やまと漂遊記」三十五首より。ここには引かなかったが、母をうたった歌の哀切さに共感した。ふと心づいてみると、この歌人には強固な日常の思想のようなものが、あったのだった。二首めからは、寺僧と作者が経てきた教師の日々の類似性のようなものを思った。経年の悲哀。

  橋かけてゆかねばならぬ向う岸ももあかりして離宮のごとし 小林幸子
端的に〈空飛ぶ聖座〉と称えられし教皇のこと想うひとり臥りいて    水落 博
ふたたびはあふことなからむと思ひゐしに何に今日の会に遠くより見し 吉村睦人 

 私は水落博氏の歌は、あれば必ず読むことにしているのである。吉村氏の一連にも胸をうたれた。戦後の青春の記憶であろう。

 「短歌現代」七月号より。

男をみな押し合ひ群るる白昼の足絡むかに見えてからまず      島崎榮一
沐浴場への道をさすらふわがあとに つきて離れず。ま白なる牛   岡野弘彦
 
八月号 彼此を行き交う  

 あれは水仙城これは菫城 かかる城ありと人知らざらむ        山中智恵子
ひとひらの骨となりたる星ありてフォマルハウト そのさびしさや
  いのちこぼす虹のはたてのわが恋は星の血汐のごとく在らなむ
  誰が夢精したたりてわが点滴と化す、病床のこの幻夢しも
  星は医師と誰か言ひけむ こはれゆく銀河を仰ぎとどめむものを

 「アンドロギュノス頌」と題された二十首より。おとろえを知らない奇想と、修辞の湧出に感嘆を禁じ得ない。一首めは、ヨーロッパの古城めぐりをしているような感じに花の群落が左右に望まれるのか、あるいは星空を夢想のうちに散策しているのか。続く二首めと微妙に響き合いながら、なぜか骨壺の骨を連想させる石か陶器らしきものが、星の破片として眼前に転げ出たりするのだが、この詠嘆は、二首ともが挽歌なのだろうと心付く。山中の歌を読む時の、夢の夜空をふわふわと舞うような独特な陶酔感は、何物にも変え難い。四首めが、入院して病院で点滴を受けている時の歌らしいのには、恐れ入る。山中智恵子は、言葉を斎き祀る巫女として、古の乙女の夢を現代に蘇らせる存在なのだ。

 余談になるが、岩波の「文学」の七・八月号は、「和歌のふるまい」という特集である。その中の鼎談で、森朝男が「上の句と下の句というのは、要するに意味的な文脈では繋がってないわけです。だからこそ面白い、歌の言葉なのだと言える。そこには飛躍があるわけです。(略)その序詞プラス主想という形式は、ある意味では、言葉の謎状態つまりは発生状態を演技するものと言えますね。懸詞も同じで、一語を意味的に二重化するのだから、意味の混沌、つまり発生期の言葉にしてしまう演技をしているのですね。謎言葉を内包することが、詩であることの照明みたいになる面があると思います。」と述べている。現在の国文学の和歌の研究者のレベルは、実作者の生理を見事に説明できるところまで来ているということがわかって、おもしろかった。山中のような歌がわからない、と言う人は、「わからない」と言う前に、わからない「謎」に遊ぶこころを取り戻すべきであろう。

  雨にゆるびし茅の輪をかこみ村人が括り直している夕つ方  永田和宏
  六十歳になれば旧仮名に変えんとぞ言えばやめよと声が笑えり
切りとり線の向こうに人が立っているカンナが赤い病院の庭
  今夜咲く月下美人の大鉢を抱え来て父の一歩一歩一歩
こんなにもぼろぼろのわれを知る人の無くて拍手のなか降壇す

「熊蝉」と題された一連二十首より。一首めは、琵琶湖の近在の社の風景だろうか。時間を見つけて病気快癒のための祈願をしているのだろう。二首めは、夫婦の会話であろうし、一連はその妻の大病以来、漠然と抱き続けている不安を底に置きながら歌われている。月下美人の歌を読んで、何となくほっとした。月下美人そのものを歌にするのではなくて、老いた父のゆっくりとした歩みに目をつけたところは、さすがと思う。
たこ焼きの如くくるりと返れるは魚取るためか鴨つぎつぎと  池田はるみ
  志ん朝のこゑが変つて姐さんの口説くせりふだ 鳥肌になる   
  年上の女の恋があはれなり病めばなほさらひたすらな恋
  姐さんは寝かしたつもりここに来るはずなきものと男が思ふ
幽霊のあはれがしんと染みるころその幽霊に近きわれはも

 「電車に」と題された一連二十首より。一首めは、水鳥の動作の比喩にたこ焼きが出て来るあたりが、いかにも歌集『大阪』を持つ池田はるみらしい、ユーモアの歌。二首め以下は、電車の中で志ん朝の落語のテープを聞いている作品をまとめて引いてみたが、ここにはスピーディーで軽快な「語り」がある。短歌にかかわっていると、人情の機微に通ずることが当然深くなるから、落語に限らずいろいろな人の気持がわかって、時に見事に彼や彼女にこころが寄ってしまう。おしまいの歌について、作者の場合は夫恋いが底にあるのだろう。

  幾本もの管につながりしろじろと繭ごもる妻よ 羽化するか、せよ。   桑原正紀
  耳もとで汝が名を呼べどしんとして古井戸のごときその耳
手の指が動いたといふそれだけであふるるものをもてあましをり
  もの言はぬ妻と語るを日課とし三つき経しころわれ少し老ゆ

 「妻よ」と題した一連二十首より。脳内出血で倒れて人事不省のままの妻を看病しながら、その回復を祈る哀切な歌である。一首めの結句も、二首めの下句も、平易な比喩が生きている。私は以前生意気にも、作者の歌集について、平穏無事の生を誠実に生きることの意味を教えられる、というようなことを書いた覚えがあるが、運命はここに至って、この歌人に苛酷な試練を課したのである。

  蠟燭を赤くともして入浴すハート・セキュリティーなべてゆるめて 河野小百合
  殺されにゆこうと思う象の足かくされている夏の泉に
  クルトンを浮かべてもらう皿二つ森を出るまであと一日ある
  ブラインドの隙間より入る夕ひかりハンサムな女でありしかサガン

「ハート・セキュリティー」と題した一連二十首より。軽快で、一首目などは、なかなかしゃれているが、全体にやや淡い感じがする。二首めの「殺されにゆこうと思う」は、自分の本の批評会などをこんなふうに言ったのかもしれない。これは前後にもう少しヒントがほしい歌である。サガンの歌は、サガンのような生き方へのあこがれだろうか、それともそういう生き方との落差を自覚した自己批評だろうか。

 九月号の特集は、「戦後60年、短歌のなかの戦争」である。一言だけ触れておくと、池田裕美子の「湾岸戦争と短歌」という文章のなかにある、「湾岸戦争は市民感情の上にも、第二次世界大戦後の日本の国家像・民主主義の支柱であった平和・不戦という看板が、今日のグローバル化する世界で国際貢献というカードの前に色褪せて無力であること、また憲法第九条を無意識の安全弁としてきた戦後の思想や信条の限界等を直感させるものであった。」という認識は、この日本国に住みながら現代の戦争を考える際に、大事な視点だと思う。

 特集に関連して一ノ関忠人が、「戦争を詠んだ歌五十首」を選んでいる。この中に塚本邦雄の著名な一首「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」が選ばれているが、この一首について、岡野弘彦が「短歌」八月号に占領体験とかかわらせて書いていたが、あれは、同時代を生きた人間の証言として貴重だろう。「短歌」も「短歌研究」も、九月号は塚本邦雄の追悼特集である。本誌では、九月号の時評で谷岡亜紀が、塚本邦雄の文体的な試行について、「精緻な方法意識による和歌と短歌の架橋の志」を抱きながら、「『今日の現実』に参入することによって、和歌と短歌の断絶を止揚した」と要約して述べていたのが印象に残った。谷岡は言う。「(略)塚本の死は、いよいよメトード(=方法)の時代の終り、主題、思想、方法の時代の終りを決定づけるだろう。その後に来るのが、流行に即した個人の気ままな感性のみが新しさとしてもてはやされる時代であるとしたら、短歌の今後は危うい。」と。

  海中のくらげは遠き汀指して漂ひながら透きて死すとふ         高野公彦
  遠心力に突如さらはれ百七人泥犂の底に沈みし御霊
  朝な朝なこもごもひらくあさがほの裏彩色のやうな紺いろ
  世界から一穂の火を取り出だすこと楽しくて莨火を点く

 高野公彦の連載作品を続けて読んで来て、ふと心づいたことは、作者が歌のなかで「死」というものに親炙している姿である。古陶や、仏像の展示された空間に立つ時に感ずる、古人の往生祈願の至福の気配、仏教的な瞑想の光が、高野作品には射し込んでいる。高野作品の言葉は、岩石の粉末から作られた日本画の絵の具のようである。綺語・孤語捜しは、とうにペダントリーの領界を出て、触覚的なものを伝えるための重要な要素をなすものとなっている。 

高野作品に流れていた、この世とあの世を往還する詩を書こうとする態度は、本誌連載の小池昌代の詩において極まる。八十歳の老婆の途切れ途切れの追憶は、失われたものと、現在の生と時間の光彩に輝く跳ね橋の水滴の間を往還する。
 それは林あまりの連載「リエコ」においても同様である。

  眠るってどうやるんだっけ  林 あまり
 横たわり 目を閉じてみる そしてそれから

  蛍光ペンのイエロー、グリーン輝いて
   世界一ファニーな私の聖書

 もし誰かが愛していると言ってくれても
   その人が眠ってしまえば忘れられるわたし

 端的に言うなら、林あまりの作品世界は、世界への受容性が損なわれていない青春の原初的な感覚を、もう一度追体験させてくれるものである。それは無垢で純一なものから照射される、われわれの世界の悲哀を見つめるまなざしである。
(二〇〇五年「歌壇」八、九、一〇月号)

『前川緑歌集』のこと

 前川緑は、奈良の風物の持つ歴史的な翳りを、自己の内面の揺らぎと重ね合わせて見ることができた人である。今現在のなかに濃厚に生きている過去の姿を見出しながら、自らもほろびつつある存在だということを痛切に感じ続けた。すぐれて情念的な存在としての女人であった。常住坐臥「もののあはれ」にひたりこんでいるかのようなその姿には、山寺に参籠した古代の女房たちはこうであったろうと思わせるようなところがあり、そのようにまるごと身体的に伝統と地続きでありながら、同時に鋭く自意識を緊張させた思惟を辿ってみせるところは、リルケなどから養分を得ていた。本書に多く収録されたエッセイのなかに、自身にとってリルケは大切なものだとある。

 右にのべたような前川緑の独自な部分を、亀井勝一郎は、歌集の序文で「古都のメランコリー」と名づけたいような気もすると言い、続けて「うち沈み、さういふかたちで激しい。」と引き絞った一語に評した。続く一節を少しだけ示したい。

  「朝茅原野を野のかぎり鳴く蟲のあらたまひゞき夜の原に坐す

 昭和十二年日華事變の起る日、この戰ひがこんなかたちで緑夫人の心に投影したこと を私は興味ふかく思つた。或はその日附がなければ、この歌は一種の凄さを帶びた女人 のやぶれかぶれの氣持をあらはしてゐるとうけとれる。『夜の原に坐す』は魂の投身の 相といふべきで、うち沈んで激しいと言つたのもこの意味である。」

 ……これだけ見ても、亀井勝一郎という人はよほど短歌が読めた人である。そうして右に引かれている歌は、戦争の衝撃を、劇的にとどろくような強い力を持って表現している。

 こうした独自な感性の痕跡として作品があったのであり、第一歌集の『みどり抄』という題は、生身の作者の一部を謙譲の気持ちをもって提示するのにすぎない、という含みを持つと考えていいだろう。そのことは作者自身がよくよく自覚していたことで、奈良の家にまつわる思い出をつづった文章に、こんな一節がある。

 家のお手伝いをしていた夫のいとこの女性におきみさんという人がいた。その人は、「いつか死なねばならないときには『戦争と平和』のアンドレイ公爵のように死のうかしらと、自身の目の高さに遠方を見てい」うような人であった。その人との関係は次のように印象的に記される。

「真冬、井戸で襁褓を洗っていると、『何を思って洗濯しているのでしょうね』といいながら、いつも手伝ってくれた。竿揚げを高くさし上げたおきみさんの手は大理石のようであった。……」                                   (「箱梯子のある部屋」)

本当に自分を理解してくれている人に自分がどう見えているかが、よくわかっているから、「何を思って洗濯しているのでしょうね」という一句を書き留めることができたのである。前川緑の作品は、抜き難く内向的で自己の思念に執する傾向を気質として持ったひとの歌、という気がする。そして自分をそのような状態に押してきた環境や、もろもろの条件を甘受する構えが、「女歌」なのである。そこには潔さ、生きることに添ったかたちでの美意識がある。だから、歌は、それ自体が目標とされたものではなく、よりよく生きるための自助努力の副産物としてうまれたのである。

 短歌史的には、どうしても『新風十人』のことが先に話題になりがちであるが、私は浪漫派の系統の歌人たちのピークのひとつが、戦争にかき消されてしまったが、昭和十年代の後半にあったのではないかと思っている。解題を書いた保田與重郎の文章にみえる「日本歌人」の合同歌集「朝の杉」の女性たちの一人として「緑さん」の作品をとらえたい、という言葉を私は信頼してよいものだろうと思う。

 それにしても、懇切丁寧な三〇ページ以上にわたる保田與重郎の解題を前にして、私は自分が特別に何かをそれに付け加えることができるとは思わない。できるだけ保田の文章のことを頭の中から追い出して自分なりに思いついたことを書いてみたのが、ここまでの文章である。しかし、以下の文章では、気になるところはほとんど保田の言葉を引かざるを得ない。
 さて私は次の歌を見て驚嘆したのだった。

  このゆふべ舗道も空も樹も橋もほのぼの白し弓形をして

 この歌について保田はこう書く。 
 「見たまゝで何の曲もない――むしろ曲を加へない、発見にすぎぬのである。それが歌 となると、美しい。非常に美しい。この発見の素直さは、広大な情緒の原因として示さ れている。」
 私もこれ以上の言葉を思いつかない。何となく和辻哲郎の著書『桂離宮』の内容が連想させられる歌である。意味だけではなく、柔和な調べによって事物が浮かび上がっている。その共通の美質を「弓形をして」という結句があざやかにとらえている。これに続けて保田は次の歌を引く。

  我に染む古さを捨てよ捨つるべき地下道下りる人の無き時刻

 これは気になるのだけれども一読してにわかに意味をとりにくい歌で、私は読みあぐねた。保田はこう書く。
 「歌といふ形を高度に緻密にするすべを知つてゐる。つまり近代詩を、歌の定型の中へ 消化したのだ。近代詩として描けば、余情など出ない。近代詩には文化的な裏づけと保 証が無い。何分にもまだ生れて二百年位の文化財だからだ。ところがこれが歌に消化さ れ、或ひは歌の定型に支配されると、一種の創造力をあふれさせる。しかしそれには作 者の素質も考へねばならないだらう。その作者は、偶然や瞬間を絶対感でとらへてゐる。 神のものにもとづいて生きることのできる人だ。これは多少女人に共通する心情の筈である。」
 これまた名評と言っていいだろう。「作者は、偶然や瞬間を絶対感でとらへてゐる。」この言葉に付け加えることができるようなものはない。保田ほどの読み巧者はいないのである。

 さて、この歌集には子供のことをうたった歌がいくつもある。そのどれもが、凜列でみずみずしくて、しかも不思議なぐらい思念に傾斜している。「雙つの眼」という一連から。

限りなくあかるくやさし雙つの眼その寂寥を思ふはろけさ
  深夜ふと吾が眼の覚めて眠られず童もさめて静かな眼をせり
  深奥に澄みとほりたる雙つの眼きよらにやさしわがこころ超ゆ

 子供の瞳を見つめながら、そのまなこの至純な深さに感じ入っている。私はこの歌を見た時に、子供の無垢の瞳に重ね合わせるようにものを見ている自分自身というものをイメージして、世界が澄明な生まれたままのような新鮮さで立ち現れることへの願いを感じ取った。一首めの「寂寥を思ふ」という四句めは、子供の歌としたら過剰な感じがするので、どうしても仏像を連想してしまう。保田はこの一連の歌を引きながら、立ち入って解釈することは、どうかと思われると言っている。さらに重ねて、心理分析などこの場合どうでもよいとも言っている。そこをあえて立ち入って書くと、三首めの「わがこころ超ゆ」という一句からは、一般的な母親の歌の枠を超えた希求する精神を感じ取ることができる。常に日常の境から思念の詩へと飛び立とうとしているのである。そうしてこの結句の飛躍の仕方は、保田が作者の「忘我」に陥る瞬間の表現にみえる「何かきらめく心的なもの」と言ったものと関連している。こういう表現の領域にあえて踏み込もうとするところに前川緑の歌の先駆性があったと、今なら言うことができる。

  子等ふたりうまいしつづく窓のべに戰の様を幻に畫く

 子供の存在はもっともこの人の心を慰めるものだった。子供は生きがたい作者の生きるよすがであった。一首は子供の眠りと外の戦争との対比が鮮やかである。同じ一連に次の歌がある。

  飛火野の萩に降り頻く雨の中鹿はやさしき毛ものなりけり

 この歌についての保田の解説がふるっているのだが、ここには引かない。読み始めると一頁ごとに立ち止まって何か言いたくなる。保田が長い解説を書いた気持がよくわかる。子供の歌のことに戻って、「鞭」の一連三首。

心よろひて行き來をすなる冬の街に幼き子等の靴音立てず
何處行くも幼き子等の眼にたちて鞭かくすごとし小さき手にでに
  この道をわが手に引かれ行く吾子をさりげなく見よとわれにつぶやく

 一首めは素朴な歌であるが、続く二首めと三首めは、何かとてつもないところがある歌と言ってよいだろう。どうして冬の街に出会う子供たちは手に手に鞭を持っているのか。どうしてこの母親は自分で自分に向かって「さりげなく見よ」とつぶやかねばならないのか。二首めについて。子供にとって見ず知らずのよその子供は、親しみ合う可能性と脅威的な部分を同時に持った存在として現れているだろう。その脅威に感ずる部分に母親は心情的に同化しているのではないかと思う。三首めも見られている子供の自意識に参入して、過剰に母親の愛のまなざしで見られることを負担と感ずる子供の自意識を自分のものとして歌っているのである。続く「霜」の一連より。

  幼児が今日の勉強をおこたりていねしを思ふあはれなりけり
 こちらはいわゆる写生の要素がある歌だから、こちらの方が一般には支持される筈である。
  そのねむりわれのねむりをねむれるごとく今宵ながむる女童の顔

 この歌は先に解釈した歌と同様に子供への強い感情的な同一化の生んだ歌である。作者は普段は眠りが浅いのであろう。自分のぶんまで子供は代わりに眠ってくれているのだ。後年に法隆寺の風鐸の音を聞いて、「私は心のなかのささやかな用心深い愛を思った。常に新しく生れ出る愛の在り方が思われたりした。」(「法隆寺のぎようき」)と書いた人である。少し子供の歌のことにかかりすぎたようだ。もう少し難解なところに触れてみたい。

  いのちほそき梢のごとく置かれたり狹きあはひの空は灰色 

 一読して先に一種の悲調がこころに届く。それから、ああ置かれているのは自分の存在のことなのだと心付く。そういう一本の「いのちほそき梢」として生きている。心の狭い隙間から見上げるような空が、灰色なのだ。これはさびしい心象の谷間より見上げた空であるとともに、実際の空でもある。

 こういう歌の構造、事象の歌への取り込み方は、前登志夫の歌に引き継がれているが、客観写生を優先する歌人たちの無理解にさらされた。その価値を保田與重郎は積極的に認め、称揚した。それは単なる身びいきの批評ではなかった。「日本歌人」という土壌がはぐくんだ短歌の内在的な詩法の進展のひとつのかたちが、前川緑の歌であろう。むろんそれは夫の佐美雄の仕事がなくしてはかなわぬものであった。

  貧しさの恥とならざる世となりて悔しきことの思ほゆるなり

これは敗戦後の歴史的な記憶をのべた歌の一つとして残さなくてはならない歌である。恥を忘れたのは、貧しさについての感覚だけではない。歌はそういうことを言外に示している。

  戰はなほ止まざれど世の中は水のごとくに青葉しにけり
  眞つ白い卵の殻を踏みたりし今朝のわが身の貧しかりけり
  匂ひなき何の花かもからからと夏の終りの畑に吹かるる

 同じ一連より続けて三首引いた。青葉も卵の殻も、ゴッホやセザンヌの絵を複製でなくはじめて原画で見た時のような鮮烈な印象を与える。前川緑の作品は、ものを見る時にはじめてそのものに出会うような直接性を持っている。それは保田與重郎が喝破した「絶対感」と言うことに尽きるのであるが、これは幾度言っても言い過ぎということはない。それが、右の歌では戦争への悲しみと相俟って三首めのような独特の滅びへの傾斜を見せている。精神的な飢渇感にうちもだえつつ、圧倒的な外界の力に身をゆだねている姿が、くっきりとした一人の姿を伝えている。しかし、やはり歌集の基調は戦前からの重たい女の日常の思いなのであり、それは一冊全体を通じて変わらない。

  子の眠る眞晝は泡立つ冬の日に胸處かなしくうづくまりゐる

 ここでは泡立つ冬の日という比喩が、鬱情と悲哀感にさいなまれている心の有り様を通してつかまれたものであるということがわかる。修辞だけが過剰な資本のように通貨として飛び回る近年の歌に対して、先代の歌人たちが身をもってつかもうとしたものが何だったのかということを、われわれは思い返してみるべきであろう。
(「日本歌人」二〇〇九年九月号)

〈痛み〉の場所・渡辺良歌集『受容体』を読む

 この歌集を読む前に、作者の師にあたる金井秋彦の第三歌集『水の上』を見ていた。平易な歌の間に、事実的な背景を消し去った難解な歌が混じっている。また、自己の内面性のようなものを深く信じて歌を作り続けている。そこには譲れない生理と化した個の思想があった。同様に渡辺良も「個」の歌、思念の歌を志す。金井も渡辺も近藤芳美の門下であった。
渡辺良の歌には、片仮名の観念語や概念語が頻出する。作者が精神科の医師だったという経歴もあって、それが少しもペダンティックに響かず、むしろ哲学用語や医学用語が歌の中で詩的に発光するように見えるところが、実に魅力的である。

平衡状態という夕なぎの海がありその夕照りを受けて病みいる
  切り傷を入れて静かに降りてゆく辺縁事項から最重要事項へ
  日和見をおそれいしかど弱毒の霊菌ひそとしのびよりたり

 一首めで「病みいる」のは、一個の身体である。二首目は手術中の、問題をかかえた身体であろう。三首めも病む身体である。このそれぞれの歌の身体の持ち主を、われわれは、作者の精神そのもの暗喩であると読むことができる。つまり思念の歌として読む。そうする時に、渡辺良の歌は、一種の触覚的なスリルを読者に覚えさせる。そういう奇妙な生々しさ、官能的な側面に、私は心を牽かれるのだ。それは金井秋彦の歌にも多少見られる要素であった。金井短歌は、作者の中で血肉と化しているのにちがいない。金井短歌の持っていた方向性の発展と深化として、渡辺良の作品を読むことは作者の名誉であろうし、また望むところであるのではないかと私は思う。

  思い出を一瞬に消す指ありてわれの頭上をさまようている
  捨てられずありたるわれのほとりにて泉のごとく声は笑いぬ
  わからないそれをわかると言いし時こわれはじめる橋がありたり
  低酸素症の頭でぼあぼあと窓に燃えいる〈外〉を見ており
  夢の手が夜の浅瀬に来ていてもすくわれようとは思っていない

 気になって印をつけてみた歌のうち、類似した作品を並べてみた。一首めの思い出を一瞬に消す指は、死であろう。
 二首めの「捨てられずありたるわれ」というのは、何ものかに「捨てられ」なかったのか、自分が自分を捨てられないでいたのか、日本語では自発と受身が同じ助動詞だから曖昧になっているが、その「われ」の曖昧さが、横に響く好ましい笑い声を印象深くさせている。

 三首めは、関係をつなぐ理解のための「橋」と解釈する。そこで曖昧なものを割り切ってしまってはならないのに、無理に「わか」ったことにしてしまう精神的な態度を批評的にとらえている。
 四首めは、目に見えるものをあえて〈外〉と表現する。これは現象学的な括弧付けの操作と思えばいいのだろうが、なぜそうなのかということは、やや謎である。その謎めいている観念性を面白く感ずるということは、ある。 五首めは、一首めとも共通するが、根底にタナトスへの思念の傾きを伏在させつつ、かえってそれを後期浪漫主義的な救済としてとらえないで、アイロニカルに現実的な断念を呼び込むわけである。
 もちろん、こんな歌ばかりだと読者は退屈してしまうわけで、右のような観念的な歌は、すべて次のような現場の歌に支えられているからこそ、より輝きを持つことになるのである。

  路地裏のひたくれないの木瓜の花孤老を診たるのちのまなこに
  麻薬施用者免許更新手続きは暗闇坂を下りて行くべく

歌集の随所に見られる往診の合間に切り取ったらしい風景が魅力的で、路地や「暗闇坂」という固有名詞がいぶし銀の輝きを持つ。

  ほんとうか脳は痛みにめくらむと痛みにこころは表皮を殺ぐと
  ビルケナウの雨の収容所と見ていしに日本の子どもたちが出てくる
  机下の脚にこむらがえりを耐えており言葉机上に打ち重なれば

 痛み。金井秋彦も痛みを歌う歌人であった。苦悩する存在としての人間の〈声〉を、長い間、医師としての渡辺良は聴いて来たのではなかっただろうか。ついでに言うと、この作者にとって戦争や収容所といったものがなぜ気になるのか、というと、それは、そこが〈痛み〉が剥き出しな場所だからではないかと私は思う。
  (シェラトン歌話会レジュメ)

あとがき 雁書館の冨士田元彦さんが亡くなられた。私はこの書肆から『合同歌集ネクサス』、百首鑑賞『川口美根子の歌』、評論集『解読現代短歌』、歌集『東林日録』、歌集『裸の日曜日』と実に五冊も本を出している。ずいぶんとお世話になったのである。ブルーブラックのインクで書かれた丁寧な葉書が幾枚も手元にあるが、契約の確認や事務的なやり取りの場合でも必ず丁寧な手紙を忘れなかった。冨士田さんは、発語のはじめに「ああ」と言ってから、早口でそわそわと話しはじめる癖があった。角川文庫の『寺山修司青春歌集』が自分の短歌入門のきっかけになっていると話したら、「ああ、それは私が編集したんです。」と即座に言われた。お金の話をしていた時に、「あの消費税というのが癪に障りますねえ。」と言って、感情を破裂させた。そういうところは、どこかロシアの小説の登場人物を思わせる粘着的な雰囲気があって、それが私にはおもしろかった。今思えば初対面の頃の私は三十代前半だったのだ。黒縁の分厚い眼鏡の奥の目は少し眠そうで、また少しばかり神経質そうだった。語尾を切り上げるように早口にしゃべったあと、顔全体がほどけるような笑顔を見せた。文芸のために生きた人であった。

  二〇一〇年八月三〇日刊 発行所 省略  編集・発行、さいかち真