さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

藤井幸子『無音のH(アッシュ)』

2018年01月21日 | 現代短歌 文学 文化
 本がとてもきれいで、外カバーを外して手にした感じが心地よい。平成二年角川書店刊、印刷所株式会社熊谷印刷、製本鈴木製本所。装丁伊藤鑛治。全体に花があしらわれていておしゃれである。歌は凛然として清潔で、気位が高い。

 夜をこめて駆けねばならぬ人びとの頭のうへひそと陸橋わたる  藤井幸子

  ※「頭」に「づ」と振り仮名。

 伐り株の尖りのごとき冬は来つ磨きあげたる靴はけわが背

 二首目の「わが背」は夫のことだから、一首目も、激務にいそしむ夫を送り出している妻の歌であろう。「頭(づ)のうへひそと陸橋わたる」というような把握のしかたにみえる、暗がりや、日常のなかにふだんはやり過ごしている存在に対する鋭敏な感覚の働かせ方は、短歌ならではのものである。

 謀りて金持ちゆきし人に遇ふ夕昏れの橋の上で笑ひたり

 これは何とも言いようのない偶然の出会いである。作者が自分をだました人間を、昂然と胸を張って見下しているところに、本人の計算を超えた凄みがある。

  叔父といふものとこしへに若くして青天に懸かる白きたふさぎ

  将軍の息子に嫁ぎ戻されし叔母の膚の薄むらさきや

 ※「膚」に「はだへ」の振り仮名。

 これは、子供の頃に見た記憶を詠んだものであろう。叔父は戦死したのかもしれない。中産上流階級以上の家柄の一族の生活というものが背後にあって、そのあたりの出自は歌集全体に濃厚に刻印されている。

  日時計をめぐり揚羽の去りしあと季節は五ミリほど動きたる

しゃれているけれども言葉の運びが堅実で浮ついていないから、ここで季節の動きを嗅ぐと言っても修辞が突出しない。渋いうまさがあって、理があると言っても、こういう理なら構わないのである。

他国語で交はせし会話はアルコホルの乾くがやうに痕形のなき

生ひとつ支へてゆふべ乾く指かろき指輪がくるくる回る

経済報はた社報か朝の屑籠にちぎれちぎれに見ゆる君の名

これらの歌を見ると、神戸に住み、外国語の必要な会社に勤めて事務をとったらしい作者の生活が浮かんで来る。三首目の歌は、一、二首目の歌より時間的にだいぶ後のものだが、夫の仕事の厳しさを暗示している。

昏れはててなほ京紅のやうな空からまはりしてふつととまれば

いたりあのドレスを人の購ひ呉れし季節の破片が韻るけふのそら

 ※「韻」に、「な」と振り仮名。

京洛のウィリアムズ家昼ふかしネコといふ名の猫を呼ぶ声

こういう典雅でしゃれた歌を上手に詠む人がいるということが、日本の文化の高さなのである。ついでによけいなことを書くと、文科省も小学校から英語を習わせるなどという愚挙はやめにして、国語の時間数をきちんと子供たちに保障していかないと、こういう歌の面白さがわかる文化的な基盤がなくなってしまう。母語の習得が確立していないところで外国語を習うのは、無駄事なのである。文語は、藤井幸子の歌の質を保障するものであり、これが口語であったら読む楽しさは半減するだろう。