さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

佐久間章孔『洲崎パラダイス・他』

2018年04月05日 | 現代短歌
佐久間章孔さんの歌集を手に取ってめくりはじめたら、ひどく切ない気がしたのは、なぜだろう。作者があたためている戦後の追憶の光が、朱く長く伸びて、読者である私自身のなかに眠っている過去の時間を等しく染めてくるようだ。

晩年はうすむらきのこころざし遠き昔のかぜかぜふくな

測れない時間の束を置いてきたあの尾根道の続きがみえる

 何冊も歌集があっても不思議ではない歌人なのだが、三十年ぶりの第二歌集だという。岡井隆の門下として知り合って、駆け出しの頃の生意気な私にも親しく声をかけてくれたのが忘れがたい。

暗き夢を若き言葉に語り合い別れの握手は指折れるほど

かかる日の冷えた指先 さくさくと想い出づたいに歩いておれば

 「暗き夢を」、この初句六語音の地味な暗さ。それを受けた「若き言葉に語り合い」という二、三句目は胸にせまる。そうして、回想から現在の冷えた指へと戻って来る。「さくさくと想い出づたいに歩」く。これは、なかなか出る言葉の斡旋ではない。

うっすらと埃のかぶった電球が黄色かったよ 六十年安保前年

汗ばんだ肌と肌とが触れ合って祭のような密集隊形

 私の知らない作者固有の愛の思い出が、歌謡曲や邦画の世界への追想と相俟って、虹の残り香のような抒情をかもしだしている。それに父やその愛人の記憶や、少年の頃の秘密の記憶なども重なって、いくつかの映画の場面を続けて見させられているようなところもある。これは過ぎ去った時間の断片が綯い合わされた一巻なのだ。

 第Ⅱ章「ニッポン」は、産土の神として生贄にされ祭られた異邦人のことを扱った一連からはじまって、滅びた神の行方を尋ねてゆく意欲的な連作だが、もしかしたら作者にとってここで殺され見えなくなる神は、作者の世代のすべての思想的な営みの喩でもあるのかもしれない。

歳月を殺めたのはあなた 寒々と時の終わりの雉が哭きます

早春に閉じ込められたわたしたち熟れても堕ちても渓のふところ
 ※「渓」に「たに」と振り仮名。

寒々と神なき荒野 縋っても突き放しても姦ばかり
 ※「姦」に「わたくし」と振り仮名。

 したがってこの壮大な捜神の一連は、一世代全体への挽歌なのでもあるだろう。続くⅢ章の愛の歌も、作者の実人生への哀惜を刻むものと言うべきだろうか。

暗闇を集める深い井戸のような明日があそこで手招きしている

青い夜が呼んでくれたよ ひそやかなそして僅かな悦びたちを