さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

センター試験に代わる「新タイプ」の問題について

2018年04月16日 | 大学入試改革
 自分でものを考えさせるためのアクティブ・ラーニングが大切だ、そのためにセンター試験も変える必要があるのだという。しかし、現在のセンター試験は、受験生の力量を判断するうえでそんなに悪いものではない。ベストではないかもしれないが、これよりいいものが果たして可能なのかどうか。そもそも自分でものを考える能力の有無や、ものを考える力の程度を、一回の入学試験、それも二百字程度の記述試験の解答で判断しようとしているのだから無理がある。

 私は、何年も大学のAO入試を受験する生徒の指導にあたっていて気がついたことがある。私がヒントを出したり、文章の添削をしたりして手伝うことはできても、最終的に出された課題を解決するところは、やはり本人でなければできないということである。そうして、たとえこちらがヒントを出してやるだけでも、一人の指導にはかなりの時間がかかるし、まして本人の意見や考えを熟成させるためには、ある程度の時間を費やして説得したり、議論をしたりすることが必要だということだ。図書室に引っ張って行って、これを読め、あれを読め、こう読め、こういう方向で考えろ、というようなことをこちらの能力の限界まで手探りしながらやっていくと、ものすごく時間がかかる。私の場合は、特別に希望者だけ相手にして夏休み中にやっていたことだ。それでも志望先が高い所になればなるほど、簡単には受からない。手塩にかけて取り組んだのに落ちることもある。

 そういう時間のかかることを全部の受験生にやらせようとしているのが、今の新タイプの国語の入試問題だということだ。はっきり言って、それは無理である。第一ひとりひとりにそんな時間はかけられない。結局、応急対策の仕方をテクニックとして洗練させた受験産業の草刈り場となる。現にそうなりつつある。ベネッセとリクルート、それから大手の予備校その他のシェアの取り合いが始まっている。それなりに公平性を確保して成熟して来たセンター試験を変える必要など、まったくないのに、また保護者の教育費がよけいにかかることをはじめてしまった。結果はせいぜい官僚の天下りポストが増えるだけのことである。官僚が見せかけの実績を作って出世したり、さも新しい仕事をしたように見せかけるということに、全国の教員が引きずり回されるというだけのことである。

 アクティブ・ラーニングを言う事はかまわない面がある。けれども、現状は教育委員会のアドバイザーのレベルが低すぎる。生徒がいろいろ動いて活動していることをほめすぎるのだ。時間数は限られているのである。そこのところが、わかっていないと思う。

 これは実際にあった話だが、ある研究指定校で、何年かアクティブ・ラーニングに取り組んだあとで学校の三年生と一年生に同じ新タイプの問題を解かせた。そうしたらその平均点が同じだった。要するに、ちっとも国語の力がついていないということがわかった。「ひかりごけ」の感想文集をもとにして授業をやっていた太田先生の学校みたいに、うんとレベルの高い学習集団なら、話は別である。しかし、普通の学校なら、読解の能力は、精読や個々人の取り組みを軽視したところでは身に付かないのである。まして基礎学力の不足している子供たちの場合は、安易に話し合いをさせると、生徒間での学力格差が表面化してしまう。格好のよいことばかり言っている思い上がった人たち、指導員というような人たちの愚かしさにあきれながら、日々生徒のために黙々と自分のしなければならないことを続けている声なき教員のことを私は思う。

人口減と地方の課題

2018年04月16日 | 地域活性化のために
平成の大合併の後に、役場を失った市町村は、人口が二割近くも減っていた、という事実が総務省の人口調査からわかった。これは少し前の「毎日新聞」の記事だけれども、こういうまとめ方は、事柄の本質をきちんと示したものであると思う。それにしても、今後の日本社会の人口動態は予断を許さない。首都圏への人口集中と地方の過疎化、これをとどめるにはどうしたらいいのか、こういうことを私はその新聞記事をもとにして学生たちにも考えさせようと思っている。

 これに多少関連するが、しばらく情報収集を怠っていたら、いつの間にか滋賀県が長野県を抜いて日本一の長寿県になっていた。長野県は野菜をたくさん摂取するかわりに、世間で言われていたほど塩分の消費が減っていなかったということで、これは長野県では滋賀ショックとか言っているらしい。大勢の人の取り組みというものは、ほんの数年でも大きな差となってあらわれる、という事実がここからわかる。

このことから過疎化の阻止という事についてもヒントを得ることができる。一県単位の人々が集団でひとつの事に取り組めば、その成果は必ず四、五年から十年ほどのうちに目に見えるかたちで現れる、ということだ。だから、地方の政治や行政というもの、地方における自発的な運動や取り組みというものは、大事なのだ。自分の住んでいる地域では何をしたらいいのか?自分の住んでいる地域の二、三十年後をイメージした時に、いまから何をしていかなければならないのか。そういうことを若い人を中心にして真剣に話し合う場を作っていくことが必要だ。発電や、地場産業のあり方、後継者のいない農家の農地や遊休地の利用法、企業や研究所や学校の誘致など、さまざまな事象と絡めて総合的に考えたい。そういうことを中学生や高校生に考えさせたい。

毎日農業賞というのがある。これを見ていると農業高校の生徒が賞を取ったりしている。しかし、自分の住んでいる街の未来の産業を考える、ということは農業だけに限らない。過疎化の現状を憂える、という危機意識が、もっとその地域の心ある人々に共通のものとならなくてはならない。空き家。遊休地。休耕田。孤独な高齢者。介護難民。医師の不足。交通機関の赤字。若い人の都市への流出。こうした負のイメージがある現実について、逆転の発想でそれを変えてゆくようなアイデアを考えたい。本気でコーディネートし、人と人とをつなぐ事業を構想すること。

私が「君たちのうちの何人かは、将来市会議員になってもらいたい。」などと言うと、若い人たちはみんなげらげら笑う。現実のこととして思っていないし、自分は関係がない事だと思っている。どうもそのあたりで大きな勘違いがあるような気がしてならない。地域があって今の自分がある、ということを実感していない。へたにネットがあるために、みんなが東京都民のような感性でいられるものだと思っている。首都圏一極集中予備軍というような感性、これでは発明も工夫も育たない。あなた任せのまでは責任の意識が育たないのである。