さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

志垣澄幸『黄金の蕨』

2018年07月01日 | 現代短歌 文学 文化
華やかな元禄の代は十六年平成はすでに二十七年過ぎき

 この歌からもうすでに三年、その平成も終わろうとしている。この歌は「十六」と「二十七」という数の離れ加減がだいたい十年である、というところに面白さがある。結句が三十年では倍に近くなってしまって、もう開きがありすぎる。昭和の次の平成にして、すでにこうなのだから、本当に昭和は遠くなったのだ。私の父は昭和二年生まれですでに故人であるが、その頃に小学生だった著者の思い出も、いまや昔語りのひとつになろうとしている。「あとがき」より。

「私たちの世代にとって、学童期に見た戦争は消えることがない。いつまで経っても、今そこにある現実と重なってよみがえってくるからである。くり返し詠んできたこれらの歌をどうするか迷ったのだが、考えてみると、もうすぐ戦争を体験した人の歌集出版もこの世から消えてなくなるだろう。ならば些細な出来事であっても、一少年の記憶としてあえて残しておこうと思ったのである。」

国のために死ぬこと子らに教へしと教師たりし日を悔いる媼は

特攻隊出撃を見送る少女らもやらせだつたと元特攻兵は

志願したのではなく志願させられて若きらあまた空に消えたり

戦の長びけば上陸せしといふ日向灘春の陽を吸ひやまず

これは事柄をのべた歌だけれども、私にとっては常識に属する戦争についての知識や感じ方も、後続の世代にとっては、そうではないのかもしれない。だから、こういう歌は残しておいていいのだ。私の父は予科練から三重の航空隊に入隊した昭和ひとけた世代の一人である。

春の川ところどころがとぎれゐてわれにも最後のあること思ふ

水底まで陽の透けてゐる細きながれ芹の葉むらのなかに消えたり

水の芯左岸に寄りてゐる川を見おろし見おろし橋わたり終ふ

水の面を吹きつける風のつれあひが幾度もいくども葦むらをうつ

 枯葦のさやげる川の辺にくればけふの余光を浮かべる水面

特に私は川の歌に心をひかれた。これらの歌からは、いつも空の光を感じているような作者の散策姿が彷彿とする。人生の終盤に近づいていることの自覚から、とりわけ川の流れは、一首めの歌のように人生そのものの喩となる。清々しい芹の葉むらのなかに流れ込んでゆく川水は、かつて半田良平の「彼岸より此岸にうつり来たる瀬の目にさやさやし冬の川みづ」という歌にうたわれたように、彼此の間をつなぐものなのかもしれない。

映画のやうにうまくはゆかぬ現世に出づれば雨に濡れてゐる街

 ※「現世」に「うつつよ」と振り仮名。

人の世をかなしみをれば階下にて妻が嬰児をあやす声する

 ※「嬰児」に「みどりご」と振り仮名。

舞ひあがる砂塵のごとき鳥の群れいつか来む日の空想ひゐる

こうして作者は、おしまいに引いた歌のように、現実の風景を介して生と死の重なった時間を相望するに至るのである。時間に統べられた人生の書物を丁寧に静かにめくってゆく者に許された充足の詩境が、ここにはある。