さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

竹内文子『午後四時の蟬』

2018年07月26日 | 現代短歌
この本をめくってみて思ったのは、新幹線の歌が多いな、ということだった。竹内さんの師の岡井隆にも、新幹線の歌はたくさんある。

 朝戸出の「ひかり」に乗りてぬばたまのダークスーツの群に混りぬ

 平日はことにビジネスマンのスーツ姿が多い朝の新幹線の、独特の緊張感、少し苛立たし気で、人によっては疲労感も漂わせている空気が伝わってくる。もう一首、同様に枕詞を用いた新幹線の歌。枕詞と「ひかり」という呼び名は相性がいい。

 ひさかたの「ひかり」の窓ゆ右富士は喘ぎつつ見え大寒となる

 朝方に沸き出でし雲は昼すぎて富士をかくせり恥ぢらふ富士を

 二首目も電車のなかから見えている富士。朝のうち見えていても、大地から湿気が放散され始めると、たちまち富士はみえなくなる。この歌集には、電車に乗っている歌もたくさんある。

 九頭竜と神通を越え帰らなむ淋しき駅をいくつも過ぎて

 八尾とは枯あぢさゐの似合ふ町いかに胡弓は辿り着きしか

 竹内さんは旧仮名文語派だけれども、ベースには軽妙な会話的な調子があり、一九八〇年代のおしゃれでポップな文体が流行った頃の余韻が、全体に感じられる。岡井隆が豊橋に住んでいた頃の歌誌「ゆにぞん」の思い出を記した一文も巻末に収められている。たとえば、骨折した時の次のような歌や、ミサイル発射のニュースについての歌を見てみよう。

 肋骨は鳥籠にして折れたればわたしの鳥が逃げてゆきたり

 発射場はトンチャンリ・プクチャン かの国の地名と言へどどこかかはゆし

 この内容をリアリズムで歌に作ったって楽しくない。顔をしかめながらのユーモアだ。この腰の骨を折った歌の四ページあとに、巻末の「さうだ。ボヘミアへ行かう からす麦の風に触れたる音(ルビ、「ね」)を思ひ出せ」という歌が来る。骨が折れだしたらもう無理しない方がいいとは思うが、現代の八十代は、かつての六十代に相当するのかもしれない。

 しかし、竹内さんは戦争体験を歌に残すことができる世代の一人なのだった。波音の聞こえる海辺の疎開地にいて空襲に向かう敵機を見送っていたという歌があり、次の歌がある。

海のむかうのふるさとに降る焼夷弾海に映えしを美しと思ひし

 ※「美し」に「は(し)」と振り仮名。

 明けぬれば焼けただれたるわが家に小さき仏塔ころがりてゐし

 空襲が遠目には美しく見えた、という体験談はおおく語り残されている。これもそういう歌のひとつだが、幼い頃の思い出は鮮烈である。

 仏具屋を横目に見つつまさかあんなきんきらきんのあの世でなからうに
 
 八月の雨は大粒ピーマンを炒めるときのやうな音して

 「前向きな失恋」と「ぐにやぐにやな恋」夏の花火に名をつけてみる

 おしまいに夏の歌を何首か引いてみた。



大谷真紀子『風のあこがれ』

2018年07月26日 | 現代短歌
 読んではいても、それについて何かまとまった批評文を書こうとすると、いつまでたってもコメントできないまま時間が過ぎてしまって、結局触れないままになってしまう、ということが結構ある。それで、ちょっとした感想にすぎないのだけれども、書いてみることにする。

〇大谷真紀子『風のあこがれ』
 三冊めの歌集だというが、大谷さんは、「未来」のベテランの歌人である。

うちそとのそれぞれの世や触れるなき古き玻璃の歪みを見上ぐ

朱を入れるにためらいのありさてもさて九十歳の恋歌さやぐ

その夫の膝に抱かるる家猫を妬む一首に立ち止まりたり

 一首めは、家の古いガラス窓の内と外には別の空気が流れているというのだ。これは一昔前の嫁姑関係などに悩まされた女性なら、すぐにぴんと来る歌の世界なのだが、これだけ核家族化が進展して家族の解体状況が進行してしまった時代には、わかりにくい歌になっているのかもしれない。

二、三首めは、選歌の歌。「未来」の古参の歌人には、地域の短歌教室の指導者をしている人が大勢いる。大谷さんもその一人だ。九十歳のおばあさんの恋歌は、夫(「つま」と読む)の懐に抱かれる猫への嫉妬の歌であったという。おもしろい。 …とこう書いたのであったが、後日著者より書信があり、これはNHK学園の通信添削の業務のことをうたったものである、ということであった。訂正いたします。

怖ろしい雨が降るぞと幼き日ニュースに聞きてやがて忘れき

先日の豪雨災害のような状況を思う人もいるのかもしれないが、この歌はおそらく原爆実験のニュースのことなのである。これもなかなか伝わりにくくなっている歌だ。第五福竜丸のことは、「未来」ではしばしば歌われていた。短歌で社会的な事柄や思想を歌わなければならないというのは、大谷の師の近藤芳美の教えだった。

この国のゆくえ如何にか十方に夕陽をたたみ草靡きたり

近年は、「この国のゆくえ如何にか」と思う事柄が増えた。課題山積の社会である。「十方に夕陽をたたみ」という終末の感じは、山や谷などの起伏の多い地に住む作者らしい言い方である。「草」は民草、青人草という言葉を連想させるし、そういう含みも持っているだろう。

先生の足を撫でたりそのかみの喧嘩太郎の百姓の足

歳月が塊となり燃え始め窓辺の少女もいなくなったよ

一首めは、遠方に住む恩師を見舞った歌。二首目は、遠い青春の日を追想しつつ、歳月の嵩を思っている。

五人家族四箇所に暮らす八月尽米を研ぎつつ鼻歌うたう

その昔、私の母もよく厨仕事をしながら鼻歌を歌っていたのを今思い出した。流行歌の一節であったろうか。あるいは女学校で習った歌のどれかであったか。一連を見ると作者の夫は単身赴任が長いのだ。衣類の荷物に『「不良中年」は楽しい』を入れたという歌もある。あの本には、確かうまくいくための愛人の年齢の計算式なんていうのも載っていた。愉快な牽制球である。

幸いは心の裡に在るものをながく祈りき壱比賣さんに

※「壱比賣」に「いちひめ」と振り仮名。