さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』

2019年05月04日 | 現代短歌
・2019年4月、書肆侃侃房刊。

 いつだったか「短歌研究」に、この実在の平和園という中華料理店についての記事がのった。そこは名古屋の歌人のたまり場なのだそうだ。著者はその店の店主。短歌の真面目くさったところが苦手な人には、この歌集は、かなりいいのではないかと思う。

世の中は金だよ金、と言うたびに立ってる焼け野原にひとりで

警察24時で暴走族が持つバットがイチローモデルと気付く

深夜のドンキはフィリピン人の奥さんを連れたおじさん達のお祭り

退会のボタンが見当たらない通販サイトのような僕の人生

わたしが信長だったら国会議事堂をとっくに焼き払っていますよ

マジっすかそうなんですか初耳の三つの言葉だけで暮らしたい

年収を記入する欄だけ書いてないけど周りの人はどうだろう

わかさぎ釣りしている人が連なって空の小さな穴に吸われた

 こうやって書き写しながら、何度か笑い転げた。

桃原邑子『沖縄』平成30年1月、六花書林刊 新装版

2019年05月04日 | 
 平成11年に88歳で死去した著者の歌集である。この新装版は、ご子息の桃原良次氏と、短歌結社「地中海」の久我田鶴子氏の協力によって刊行されたものである。

捕虜になるよりも死ねとぞ教へたるわれは生きゐて児らは死にたり

ひそみたりし墓の壕より出でて飲むああ井の水よたたかひやみぬ

ひとも兵も平たくなりて死にゆきぬ立体なすものは撃ちぬかれたり

十死零生の特攻兵君が殺めしはわが子良太ぞ互みに哀し

流線の機種美しき三式戦のわが子の良太を切り裂きにけり

読谷に米軍上陸の昭和二十年四月一日に死にし良太の五十年忌今日

ヘリ墜ちて死にし米兵の悲しみは言はずマスコミもまた住民も

良太殺めし特攻兵の悔恨を思へば子の名刻めず平和の礎

 沖縄戦の死者で判明して居る人の名前は、みな「平和の礎」に刻まれているのではなかった。
こんなにも孤絶した戦争の経験というものがあったのだ。いのちはみんな等しいもの。「ヘリ墜ちて死にし米兵の悲しみ」を歌うに至った作者の精神の境位を尊く感ずる。

川野里子『歓待』

2019年05月04日 | 現代短歌
 この連休の前半は、尾崎一雄全集の第二巻を注意深く読んだ。その合間に、川野里子さんの新歌集をめくっていた。全集の第二巻には、昭和二十年前後の作品が収録されている。親族の死と自らの病と戦争の現実に直面しながら生きる姿をえがいた小説世界である。川野さんの歌集にも、苦難に面して生きる人の思いがのべられている。引いてみよう。

  「オフロガ・ワキ・マシタ」しんと木星も土星も聞きてゐるなり

  一匹のマウス握りてゐるこころマウスに縋るごとくにをりぬ

  自己主張してきしあはれスイッチ押せば驚きてコード巻き戻り来る

 身めぐりのものを相手にしながら、感情のふかいところから言葉をさぐって、自己を凝視している。機械に囲まれながら、われわれが抱えている根源的な孤独を一首目は暗示し、手作業のうちに押し込められている焦燥感を二首目はあらわにし、三首目は、われわれの〈欲望〉のありようを、満たされない欲求不満の地点から引き返すものとして巧みに家電のコードに仮託しつつ形象化している。一方に情念の当体を意識しながら近しい「モノ」と対話する批評的な精神のはたらきが感じられる。

 「あとがき」は、短いが亡母のことにふれたいい文章である。この作品集の底を流れる基調の感情が何か、ということがわかる。

  酸素マスクの中に歌はれ知床の岬は深き霧の中なり

  生きようとする人ベッドにゐる昼を蛇口に水はゆれながら立つ

   ※   ※

  一両列車とほりすぎたりゆつくりと何かを探すカーソルのやうに

  絶対安静 吊り橋となりしわたくしをだれかひつそり渡りゆきたり

 最後の方の章をみると、母の看護をしているうちに作者自身が心身の過労で倒れてしまったらしい歌がある。人生というものの過酷さに堪えて人間が生きるということのたいへんさ、危うさを描いている。尾崎一雄は文学を支えにして耐えたと書いている。川野も短歌を支えとして生き堪えているだろう。

 危機的な局面のなかで、生の場所と時間の一回性に突き当たるような言葉があらわれてくる。「蛇口に水はゆれながら立つ」、「何かを探すカーソルのやうに」というのは、単に修辞がどうとかいうことではない、そのように言ったときにはじめて照らし出される真剣でのっぴきならない生の真実の相貌を詩として示している。