さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

連休中諸書抜粋

2019年05月05日 | 日記
先日ブックオフに寄ったらルドルフ・ゼルキンの弾くベートーヴェンのピアノのCD11枚組というのが出ていたから、これからずっと楽しみで聞けるなと思って買って来た。ルドルフ・ゼルキンのレコードは、若い頃にメンタルがやられている時に何度も何度も聞いた。とりわけ後期のものがいいので、作品101などは鼻歌でうたえるぐらいだ。いま聞くとやや録音が粗く感じられるが、レコードだとまったく問題はなかった。

さて、久しぶりに「身めぐりの本」。身辺に何となく置いてある本を移動しようと思って、書名を選んで入力するつもりが、結果的にこういう書き物になっている。

・『詩と神話 星野徹詩論集』1965年9月1日、思潮社刊。680円。
これは「詩の読み方入門」とでもサブ・タイトルを変更して再刊したらいいのではないかと思う。文学の教科書として使えそうなので、現役の詩人が注釈をつけ加えたらいい。それは電子書籍でかまわない。引用した原詩も入れれば、いろいろな学科で使えるだろう。

・沢口芙美編『岡野弘彦百首』2018年3月、本阿弥書店刊。
 「人」短歌会関係のひとたちが結集している入魂の一書。

・相馬御風『訓訳良寛詩集』昭和四年十一月、春陽堂刊。
 訓みがやわらかくて調べがあり、滞りが無い。これ以上何の不服もない気がする。どこかで再刊しないかしら。

・舟越桂『個人はみな絶滅危惧種という存在』2011年9月、集英社刊。この価格では当時は最高だったかもしれないが、写真が作品になまな感じを与えてしまっている気がする。用紙も別にして、複数の写真家に撮らせたものを作り直すべきだ。タイトルも気に入らない。
※ などと書いておいて同じ日に平塚市美術館に行ったら、たまたま彫刻家と絵画をテーマにした展覧会をやっていて、舟越桂の作品もたくさん出展されていた。この展覧会は、とてもおもしろかった。

・吉田健一『本が語ってくれること』1975年1月、新潮社刊。
 29ページにドナルド・キーンの『日本の文学』に触れた文章があって、吉田健一はその本の訳者なのだが、この本では重点が連歌に置かれている点について、「日本の文学の本質を連歌、或は連歌の形を取つた傑作に見ることが炯眼、或は啓示であると考へるに値するものであることも納得される」と書いている。それが「国籍の問題を越えて文学といふものの本質を摑んだものである」と続けている。ドナルド・キーンと言うと日記、と思っている人が多いだろうと思うが、吉田健一は連歌だと言っている。日本の究極的な「コミュニケーション」の文化なのだから、連歌の研究は今後とも大いに推奨されてよい。

・福永光司『老子』昭和43年10月、朝日新聞社刊。
 図書館の廃棄本をもらってきたものだ。こっちの方が大きくて読みやすいのに何で廃棄するのかしらね。「ものごとを予見するさかしらの知識というものは、道の実なきあだ華のようなもので、人間を愚劣にする始まりである。」なんてことが書いてある。これは、わかりやすい訓訳だ。

・サマセット・モーム『英国諜報員アシェンデン』平成29年7月、新潮文庫。
 残しておいた最後の章を今日読了した。昔読んだけれども、すべて中身は忘れていたので楽しかった。隠忍自重の主人公の姿は、作者自身と近いところにあるが、この世の掟に従わせられている自由人という逆説、根源的な皮肉がここにはある。この本の冒頭で作者はチェーホフの作品について毒づいているのだが、書き上げられた作品自体はチェーホフ的な要素がある。プロットでいくらがんばっても、絶望的な現実のなかでは、空気のように立ち昇って来てしまう無為や退屈さの気配が、抑え込まれたメランコリーとなって登場人物の眼の中に光を発することになるのである。つまり、脇役というのは、作者の無意識であって、実は一人称語りの観察対象である脇役こそが主役であるという逆転が起きている。作者はそのことをもプロットのなかでうまく処理できたつもりになっているかもしれないが、案外にそうでもない、というような思索を可能にしているのが、この新訳の功績だろうか。

・辰野隆、林髞、徳川夢声『随筆寄席2』昭和35年7月、春歩堂刊。
 なかなか言いにくいようなことが、かえって座談だから出ている。

・加藤楸邨『新稿 俳句表現の道』昭和二十六年十月、創藝社刊。
 「先づ自然を観るに、何より大切なことは型をすてて観るといふことです。」
とある。そして次のような例句を示している。

竹縁を団栗はしる嵐かな   子規

ながれゆく大根の葉のはやさかな  虚子

残雪やごうごうと吹く松の風   鬼城

引く浪の音はかへらず秋の暮   水巴

八ヶ嶽凍てて巖を落としけり   普羅

頂上や殊に野菊の吹かれをり   石鼎

火になりて松毬見ゆる焚火かな  禅寺洞

鶏頭伐れば卒然として冬近し  元

きさらぎの藪にひゞける早瀬かな  草城

風たちて萍の花なかりけり   風生

吹き降りの淵ながれ出る木の實かな   蛇笏

船底の閼伽(あか)に三日月光りけり  乙字

草原や夜々に濃くなる天の川   冬葉

・林家辰三郎『南北朝』1991年1月、92年6月第四刷、朝日文庫。
 ルーペで拡大して読む。
「すなわち『太平記』によると、正成は出陣の際、天皇にふたたび叡山に行幸ねがい尊氏を京都に誘い込んで挟撃しようという献策をしたのに対して、坊門清忠ら公家衆の反対によって容れられず、正成は重ねて兵庫下向の勅命をうけて、「此ウヘハ異議ヲ申スニ及バズサテハ打死セヨトノ勅定ゴザンナレ」とて出陣したというのである。『梅松論』の場合でも尊氏を召しかえし君臣和解ができないとすれば、やはりこのような気持であったろうが、この『太平記』の記事によっても、正成は出陣以前に討死の決心を固めていたことになるのであって、明治以前にはこの点をもって千載にたたうべき忠義の心としていたのであった。ところが明治以後は出陣以前に討死を決心するのは真の忠義ではないという批難がおこったのである。そこで『太平記』の説を否定し、当日の戦況によりのがれうる見込みがなく、やむを得ず自害したという説が一般の通説となってきたのであった。しかしこの正成戦死の事情は、やはり『梅松論』によるのが最も正しいのではなかろうか。彼自身、前途の重大な見通しにおいて、朝廷との間に懸隔を生じていたのであるから、天皇を裏切らぬかぎり、死よりほかに道がなかったであろう。」
 これは現実的武略家としての正成という視点から資料『梅松論』の視点を是とする考えである。

・光明皇后御書『杜家立正雑書要略』昭和十一年五月、武田墨彩堂刊。