第Ⅰ部には雑誌で初読の際に感銘をうけた連作が並んでいる。それについては少しだけ以前書いたことがあるので、今日は第Ⅱ部の主に「沃野」に発表された作品に触れてみたい。
私は先日、ずっと続けている歌の小さな集まりで、歌集の一部をコピーして何人かで声を合せて読んでみたのだが、その歌の持つ簡素な描写と質朴な味わいに参加者からは驚きの声があがった。これでいいのね、というような声も漏れていたが、私が解説として加えたのは、三枝浩樹には八木重吉についての著書が既に一冊あり、このところ「短歌往来」にさらに続編を書き継いでいるのだけれども、その無私無欲なこころを希求する祈りの詩から学んだものが、主として身近な人々にあてた歌に流露したかたちが、この第Ⅱ部の歌なのだということである。また窪田空穂系統のひとたちが空穂から学んだ最良の要素として、こういう平易な言葉の使い回しというものがあり、それが八木重吉の詩への親炙と、作者固有の信仰から来る内的な要求とうまく融合した三角形をなすところにこのような作品が形作られていると見たらいいのではないかということである。
われわれは目にみえる作品の読者をしばしば見失ってしまいがちであるが、短歌というものは、もともと自分が親しくしているコミュニティーにあてた通信のような性格を持っているのであり、そこでは自ずから本歌集における第Ⅰ部にみえる思想と信仰を詠んだ緊張度の高い歌と、第Ⅱ部に多いどちらかというと日常に即した作品の両様があってもいいのだということ、また両者を貫き、その底に存在する作者の精神に違いはないのだということを私はのべた。
原くんの亡くなったこと 常磐町往時のにぎわいの懐かしきかな
芙蓉軒のパンのにおいを嗅ぎながらよく通いたりきみの家まで
「はーらーくん、あーそーぼ」「あそばない」きみの笑顔の応えが浮かぶ
※「応」に「いら」と振り仮名
ある年齢に入ると幼年期のこういう声の響きがとりわけ身に沁みて思われるようになる。そうしておさななじみを失うというような痛切な経験がある。次は「公園からぶらんこがなくなるという。」という詞書のある一連から。
座る椅子のなきままここに残されて元ぶらんこがぶらんこ恋えり
こども寄りこぬ一区画とはなりはてて… 空には木霊、ぎいぎいと鳴る
※ ※
もう少し求心的なうたを引いてみる。
ぴーんと割れた音を見ていた そのふるえ外に届かず誰も気づかず
ひびだらけの心にそっとあゆみ寄る北ドイツ的ピアノの暗さ
受洗のため沈みし水はいまもなお湧きてながるる 夏の日の中
木の間なる二つのながれまだ枯れず透きてながるる清らなるまま
ふゆくさの上いちめんの枯葉なり午前十時の日のやわらかさ
夏草をあの日わがために刈りくれし隠れたる手のきみを忘れず
四首目のような、何か清冽な水の流れに触れている感じがする友情と友愛の歌が、冒頭の「青空――十二歳のきみに」の一連からはじまってずっと本作品集を貫くライトモチーフとしてあり、
平明にて非凡 しずけき遺歌集の『白桜集』の歌を思える
という与謝野晶子にふれた歌からもわかるように、「平明にて非凡」であることを先人に学びつつ希求する歳月の歩みを、さりげなく差し出そうとするのが本集の持つ意味なのだ。
暑い夏に書けなかった感想の一端をようやくここに示すことができたことに、少しだけほっとしている。まことに読書の秋にふさわしい一冊。
私は先日、ずっと続けている歌の小さな集まりで、歌集の一部をコピーして何人かで声を合せて読んでみたのだが、その歌の持つ簡素な描写と質朴な味わいに参加者からは驚きの声があがった。これでいいのね、というような声も漏れていたが、私が解説として加えたのは、三枝浩樹には八木重吉についての著書が既に一冊あり、このところ「短歌往来」にさらに続編を書き継いでいるのだけれども、その無私無欲なこころを希求する祈りの詩から学んだものが、主として身近な人々にあてた歌に流露したかたちが、この第Ⅱ部の歌なのだということである。また窪田空穂系統のひとたちが空穂から学んだ最良の要素として、こういう平易な言葉の使い回しというものがあり、それが八木重吉の詩への親炙と、作者固有の信仰から来る内的な要求とうまく融合した三角形をなすところにこのような作品が形作られていると見たらいいのではないかということである。
われわれは目にみえる作品の読者をしばしば見失ってしまいがちであるが、短歌というものは、もともと自分が親しくしているコミュニティーにあてた通信のような性格を持っているのであり、そこでは自ずから本歌集における第Ⅰ部にみえる思想と信仰を詠んだ緊張度の高い歌と、第Ⅱ部に多いどちらかというと日常に即した作品の両様があってもいいのだということ、また両者を貫き、その底に存在する作者の精神に違いはないのだということを私はのべた。
原くんの亡くなったこと 常磐町往時のにぎわいの懐かしきかな
芙蓉軒のパンのにおいを嗅ぎながらよく通いたりきみの家まで
「はーらーくん、あーそーぼ」「あそばない」きみの笑顔の応えが浮かぶ
※「応」に「いら」と振り仮名
ある年齢に入ると幼年期のこういう声の響きがとりわけ身に沁みて思われるようになる。そうしておさななじみを失うというような痛切な経験がある。次は「公園からぶらんこがなくなるという。」という詞書のある一連から。
座る椅子のなきままここに残されて元ぶらんこがぶらんこ恋えり
こども寄りこぬ一区画とはなりはてて… 空には木霊、ぎいぎいと鳴る
※ ※
もう少し求心的なうたを引いてみる。
ぴーんと割れた音を見ていた そのふるえ外に届かず誰も気づかず
ひびだらけの心にそっとあゆみ寄る北ドイツ的ピアノの暗さ
受洗のため沈みし水はいまもなお湧きてながるる 夏の日の中
木の間なる二つのながれまだ枯れず透きてながるる清らなるまま
ふゆくさの上いちめんの枯葉なり午前十時の日のやわらかさ
夏草をあの日わがために刈りくれし隠れたる手のきみを忘れず
四首目のような、何か清冽な水の流れに触れている感じがする友情と友愛の歌が、冒頭の「青空――十二歳のきみに」の一連からはじまってずっと本作品集を貫くライトモチーフとしてあり、
平明にて非凡 しずけき遺歌集の『白桜集』の歌を思える
という与謝野晶子にふれた歌からもわかるように、「平明にて非凡」であることを先人に学びつつ希求する歳月の歩みを、さりげなく差し出そうとするのが本集の持つ意味なのだ。
暑い夏に書けなかった感想の一端をようやくここに示すことができたことに、少しだけほっとしている。まことに読書の秋にふさわしい一冊。