先に椎名誠のことを書いたが、いくつになってもやんちゃ坊主的な精神を失わない大人というのは、どんな世界にもいるものだ。歌人だと島田修三にそんなところがある。最近続けて二冊歌集が出たが、たとえばこんな歌。
学長は強権ふるへと強ふるこゑ天降りくるなり、ありがたいねえ 島田修三
※「天降り」に「あも-り」と振り仮名。 『露台亭夜曲』
泣きながら膿出しながら飯啖らふ子規の娑婆苦をもとな想ふも
いつの間にか学長のような地位につくことになってしまって、人事や役所との対外交渉などに忙殺される日々に疲れている。まさに憂き世の苦しみ。それはあの子規の塗炭の苦しみとは別のものだけれど。「東京の花売り娘」の一連をコピーして、例によって地元の小教室で参加者のみなさんといっしょに朗誦したのだが、掲出歌は読んだときに参加者の何人かが声を出して思わず笑った。男歌の色彩が強いから女性にはどうだろうと思って差し出したのだが、「おもしろい、おもしろい」となかなか好評だった。この短歌の斉読は、高齢の方には声を張って読むことが健康にもいいのではないかと思って続けている。何年も続けてきた会なので阿吽の呼吸でこういう反応がある。この日は毎年一冊出している自選の「二俣川短歌」が第7集ということで気持もやや高揚していた。
「東京の花売り娘」の一連を持って来たのは、高齢の方も多いので何か記憶をたぐってもらう手がかりになるのではないかと思ってのことである。こちらもいろいろ話が聞けるのがありがたい。
「東京の花売り娘」を聴きながら西に曲がればバイパス暮色
しばらく参加者たちはメロディーを口ずさんで思い出そうとしていて、あとで調べると岡晴夫の歌なのだが「高峰秀子?」というような声があがり、あれは「銀座カンカン娘よ」というようなやりとりの末、ふたつの鼻歌が混線してしまって、ついに誰もうまく歌わなかったが、一時場がざわめいた。ここで「歌のタイトルと結句の「暮色」という歌謡的な言葉が、実にうまくマッチしています」というコメントをつけた。
鉛筆を舐めつつ励みし学童の日々ははや朝よりPCに滅入る
書きかけの文末「いいのだ」バカボンの慈父ならぬ身はそこより進まず
女房に逃げられましたと暗く告ぐ逃がしてやつたと思ひたまへよ
同じ「秋刀魚の事情」の一連から引いたが、作者の嗜好はいわゆる名歌志向ではなくて、むしろそういうものに対する含羞が先立つ。 理知の機敏さと神経の細やかさを、ユーモアと諧謔あふれるサタイアでもって覆い隠している。そこにこの作者の作品の魅力がある。
小学唱歌「朧月夜」を母に聴かせ不意に抱かれし遠き遠き日よ
夜のふけを書棚より抜き「人生の一日」読みしが哀しみ鮮し
※「鮮し」に「あたら-し」と振り仮名。
伊藤エミもその妹もいなくなり南京豆はむかしのことば
さよならもいはずいはれず気づかざる失せ物のやうに逝きけり人は
この歌集には、芸能人から学者、歌人まで多くの人への挽歌が散りばめられている。老年を迎えた人間の哀愁というものが全篇にただよっていて、それは「露台亭夜曲」というタイトルにふさわしい。徳川夢声や、往年の銀幕のスターの名前、ジム・モリスンといったロックスターの名前のような固有名詞には、思い出の酸鹹甘苦の味がする。絶妙な言葉の料理人の手になる昭和と平成の記憶のなかの音のさざめきが聞こえる歌集なのである。
学長は強権ふるへと強ふるこゑ天降りくるなり、ありがたいねえ 島田修三
※「天降り」に「あも-り」と振り仮名。 『露台亭夜曲』
泣きながら膿出しながら飯啖らふ子規の娑婆苦をもとな想ふも
いつの間にか学長のような地位につくことになってしまって、人事や役所との対外交渉などに忙殺される日々に疲れている。まさに憂き世の苦しみ。それはあの子規の塗炭の苦しみとは別のものだけれど。「東京の花売り娘」の一連をコピーして、例によって地元の小教室で参加者のみなさんといっしょに朗誦したのだが、掲出歌は読んだときに参加者の何人かが声を出して思わず笑った。男歌の色彩が強いから女性にはどうだろうと思って差し出したのだが、「おもしろい、おもしろい」となかなか好評だった。この短歌の斉読は、高齢の方には声を張って読むことが健康にもいいのではないかと思って続けている。何年も続けてきた会なので阿吽の呼吸でこういう反応がある。この日は毎年一冊出している自選の「二俣川短歌」が第7集ということで気持もやや高揚していた。
「東京の花売り娘」の一連を持って来たのは、高齢の方も多いので何か記憶をたぐってもらう手がかりになるのではないかと思ってのことである。こちらもいろいろ話が聞けるのがありがたい。
「東京の花売り娘」を聴きながら西に曲がればバイパス暮色
しばらく参加者たちはメロディーを口ずさんで思い出そうとしていて、あとで調べると岡晴夫の歌なのだが「高峰秀子?」というような声があがり、あれは「銀座カンカン娘よ」というようなやりとりの末、ふたつの鼻歌が混線してしまって、ついに誰もうまく歌わなかったが、一時場がざわめいた。ここで「歌のタイトルと結句の「暮色」という歌謡的な言葉が、実にうまくマッチしています」というコメントをつけた。
鉛筆を舐めつつ励みし学童の日々ははや朝よりPCに滅入る
書きかけの文末「いいのだ」バカボンの慈父ならぬ身はそこより進まず
女房に逃げられましたと暗く告ぐ逃がしてやつたと思ひたまへよ
同じ「秋刀魚の事情」の一連から引いたが、作者の嗜好はいわゆる名歌志向ではなくて、むしろそういうものに対する含羞が先立つ。 理知の機敏さと神経の細やかさを、ユーモアと諧謔あふれるサタイアでもって覆い隠している。そこにこの作者の作品の魅力がある。
小学唱歌「朧月夜」を母に聴かせ不意に抱かれし遠き遠き日よ
夜のふけを書棚より抜き「人生の一日」読みしが哀しみ鮮し
※「鮮し」に「あたら-し」と振り仮名。
伊藤エミもその妹もいなくなり南京豆はむかしのことば
さよならもいはずいはれず気づかざる失せ物のやうに逝きけり人は
この歌集には、芸能人から学者、歌人まで多くの人への挽歌が散りばめられている。老年を迎えた人間の哀愁というものが全篇にただよっていて、それは「露台亭夜曲」というタイトルにふさわしい。徳川夢声や、往年の銀幕のスターの名前、ジム・モリスンといったロックスターの名前のような固有名詞には、思い出の酸鹹甘苦の味がする。絶妙な言葉の料理人の手になる昭和と平成の記憶のなかの音のさざめきが聞こえる歌集なのである。