さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

島田修三『露台亭夜曲』

2020年12月13日 | 現代短歌
 先に椎名誠のことを書いたが、いくつになってもやんちゃ坊主的な精神を失わない大人というのは、どんな世界にもいるものだ。歌人だと島田修三にそんなところがある。最近続けて二冊歌集が出たが、たとえばこんな歌。

  学長は強権ふるへと強ふるこゑ天降りくるなり、ありがたいねえ   島田修三
    ※「天降り」に「あも-り」と振り仮名。  『露台亭夜曲』

  泣きながら膿出しながら飯啖らふ子規の娑婆苦をもとな想ふも

 いつの間にか学長のような地位につくことになってしまって、人事や役所との対外交渉などに忙殺される日々に疲れている。まさに憂き世の苦しみ。それはあの子規の塗炭の苦しみとは別のものだけれど。「東京の花売り娘」の一連をコピーして、例によって地元の小教室で参加者のみなさんといっしょに朗誦したのだが、掲出歌は読んだときに参加者の何人かが声を出して思わず笑った。男歌の色彩が強いから女性にはどうだろうと思って差し出したのだが、「おもしろい、おもしろい」となかなか好評だった。この短歌の斉読は、高齢の方には声を張って読むことが健康にもいいのではないかと思って続けている。何年も続けてきた会なので阿吽の呼吸でこういう反応がある。この日は毎年一冊出している自選の「二俣川短歌」が第7集ということで気持もやや高揚していた。
「東京の花売り娘」の一連を持って来たのは、高齢の方も多いので何か記憶をたぐってもらう手がかりになるのではないかと思ってのことである。こちらもいろいろ話が聞けるのがありがたい。

  「東京の花売り娘」を聴きながら西に曲がればバイパス暮色 

しばらく参加者たちはメロディーを口ずさんで思い出そうとしていて、あとで調べると岡晴夫の歌なのだが「高峰秀子?」というような声があがり、あれは「銀座カンカン娘よ」というようなやりとりの末、ふたつの鼻歌が混線してしまって、ついに誰もうまく歌わなかったが、一時場がざわめいた。ここで「歌のタイトルと結句の「暮色」という歌謡的な言葉が、実にうまくマッチしています」というコメントをつけた。

  鉛筆を舐めつつ励みし学童の日々ははや朝よりPCに滅入る

  書きかけの文末「いいのだ」バカボンの慈父ならぬ身はそこより進まず

  女房に逃げられましたと暗く告ぐ逃がしてやつたと思ひたまへよ

同じ「秋刀魚の事情」の一連から引いたが、作者の嗜好はいわゆる名歌志向ではなくて、むしろそういうものに対する含羞が先立つ。 理知の機敏さと神経の細やかさを、ユーモアと諧謔あふれるサタイアでもって覆い隠している。そこにこの作者の作品の魅力がある。

  小学唱歌「朧月夜」を母に聴かせ不意に抱かれし遠き遠き日よ

  夜のふけを書棚より抜き「人生の一日」読みしが哀しみ鮮し
    ※「鮮し」に「あたら-し」と振り仮名。

  伊藤エミもその妹もいなくなり南京豆はむかしのことば

  さよならもいはずいはれず気づかざる失せ物のやうに逝きけり人は

 この歌集には、芸能人から学者、歌人まで多くの人への挽歌が散りばめられている。老年を迎えた人間の哀愁というものが全篇にただよっていて、それは「露台亭夜曲」というタイトルにふさわしい。徳川夢声や、往年の銀幕のスターの名前、ジム・モリスンといったロックスターの名前のような固有名詞には、思い出の酸鹹甘苦の味がする。絶妙な言葉の料理人の手になる昭和と平成の記憶のなかの音のさざめきが聞こえる歌集なのである。

諸書雑記 椎名誠 高田榮一 松田みさ子 阿部昭

2020年12月13日 | 
. 椎名誠の少年時代の思い出を書いた『黄金時代』という小説を読んでおもしろかったので、似たような匂いのするものをブックオフでさがしたら、『トロッコ海岸』(※『猫殺し その他の短編』改題。これ『猫を捨てる』ではないのネ。ちなみに友達が殺そうとした猫は最終的に死なないで済むのだけれども、そこにシュールな赤目男がどかーんと登場するところが椎名流。)というのがあった。読んでみたらやっぱり的中で、この本に収録されている短編が核になり『黄金時代』が書かれた、と著者の自解にあった。懐かしい少年の頃の遊びの記憶がふんだんに盛り込まれており、半裸体の大人と、はだかの少年たちが、ごちゃらごちゃらと錯綜している過去のできごとの喫水線を、作家の抱く夢の世界に接続すると、近年文芸誌に連載しているような独自の超現実主義小説の世界が拡がってくる。そこでは、やくざ者や、浮浪人や、乞食や、一所不住の移動季節労働者のような人達が大きな役割を演じていて、かつての日本の庶民の日々の哀歓と愚行と、いいかげんかつ真剣な生き方を全面的に肯定する共感力が、ずっと底に流れているのである。あわせて買って来た大河小説ならぬ著者自称「小川小説」の『新宿遊牧民』という結果的におもしろサクセス・ストーリーになっている自伝小説も二日ほどかけて読み終えた。やや粗放な印象のある書きものではあるが、たぶん丁寧に書き直したら宮本輝の大河小説みたいに十倍の長さになってしまうだろう。

 ついでに忘れないうちに書いておくが、椎名が就職した会社の上司だった爬虫類研究家の高田榮一(たかだ えいいち、1925年 - 2009年)は、新短歌の作者である。椎名の『新橋烏森口青春篇』で高田が朝礼の挨拶の時にポケットから蛇がにゅーと顔を出すのを片手で押し込み、またにゅーと出て来るのを押し込みながら話をしていたというエピソードなどは強烈で、蛇嫌いの人には恐怖の会社勤めだろうが、そこは男ばかりが出て来る椎名誠の世界である。著者らしい独特な誇張があるが、奇人変人としてカリカチュアライズされている人物は、どこにでもいるような勤め人なのだ。だいたい企業社会という無理な機構のなかに閉じ込められている人間は、どこかしらヘンである。とは言いながら、椎名の周辺に登場する人物の変人率、奇人率はかなり高いかもしれない。
 これも忘れないうちに書いておくが、「パパはなんだかわからない」という山科けいすけの「週刊朝日」連載漫画のタイトルと同じフレーズは、椎名の『新宿遊牧民』のなかにあった。直近の同誌では、某総理大臣とおぼしい人物が自分に対するイメージ調査報告を聞きながらマクスをした顔でかんかんに腹を立てる姿を夢で見て「いやな夢を見た」と起き直っておわる、という漫画がおもしろかった。

 それで、私は椎名の『新宿遊牧民』ではなく、埼玉の歌人松田みさ子さんの『青あらし 私の戦後』によって高田の名前を知ったということを、ここに書いておきたかったのだ。
 戦後すぐから看護婦と女性の待遇改善のためにたたかった松田さんの自伝的エッセイでは、爬虫類研究所として有名になる家を訪ねて、白い大きな蛇を首に巻かせてもらった体験記が書かれている。その時の蛇の手触りが歌人らしい繊細な表現で書かれていて、私は彼女の短文を、何十年も前に自分が担当していた高校「国語表現」の授業で文章のサンプルとして生徒たちにくばったことがある。ちなみにウィキペディアの項目には高田榮一の短歌も含めた文学関係の仕事についての記述がほとんどない。
 松田みさ子さんには、歌人の研究会である十月会で二度ほどお会いして、(この会には、広告代理店につとめていた強烈な個性の人物が、近藤さん夫妻の悪口をがんがん言うのですぐに顔を出さなくなってしまったが。まあ、それで別の視点から見える近藤夫妻の人物像を知ることもできた。)出たばかりの本を十冊ほど送ってもらった。そのうちの一冊は当時新人だった笹公人さんのような若手にも送って私なりに拡散につとめた。今でもいい本だったと思っている。松田さんは「多摩歌人」という冊子を出していたが、何度めかの交通事故で亡くなってしまったと聞いた。強度の近眼だった。そういう目が悪い人にやさしくない社会は依然として変わっていない。

  夜のふけを書棚より抜き「人生の一日」読みしが哀しみ鮮し   島田修三
    ※「鮮し」に「あたら-し」と振り仮名。

 
 阿部昭で思い出したのだが、遊行寺のそばで友湘堂という印刷所を兄弟でやっておられた西野さんという秋櫻子系の俳句誌「波」の俳人が小説に出て来るのだが、もう知っている人も少ないだろう。同人誌にやさしい印刷所ということで、「美志」の印刷はそこで頼んでいた。版下を手作業で用紙に貼りつけて写真製版するという、今では考えられないような手間のかかるやり方だった。それで「波」には倉橋羊村さんが在世のころ何年間か入っていた。そのうちに退職した自分の職場の先輩が私のことを知らずに下手な句を初心の欄に出し始めたので、気がさしてやめてしまった。短歌の方で忙しかったせいもある。その印刷所を紹介してくれたのは、プロコフィエフのピアノ曲を自宅で暇な時に弾くという東工大出の理科の先生で、平田さんといった。彼はSFを専門にして生きていた。口癖は「なんかおもしろいことないですかね。」というものだった。今でも元気にしているだろうか。
 それでまた思いだしたが、別に自慢話とかいうのではなくて、私はその阿部昭について書いた文章を一度だけ若い頃の穂村弘さんに励まされたことがある。ちょうど中澤系の歌集の栞文を依頼した頃で、私がいちばん元気に外に向けて活動していた時期にあたる。その時に、あなたの書くものは読むことにしたよ、と言ってくれたのがうれしかった。それは私が「美志」に書いた「阿部昭の文章を読んでいたら頭の中に水が流れるような気がしていい気持になった」というような一文のことだったろうと思う。後に穂村さんのエッセイを読んでいたら「脳が汗をかいた」というような一節を見つけて、何十年もあとにその言葉が変奏されているような錯覚にとらわれた。もっとも私と穂村さんとの縁はそれきりで薄いものである。新歌集を送っていただいた時はとてもうれしかったので、一文をこのブログに書いた。

 阿部昭は私の身の回りには好きな人が多くて、「未来」の中野歌会で松浦郁世さんがほぼ全部読んでいると言っていた覚えがある。あとは門馬真紀さんに全集を貸したら舐めるように読んだとおっしゃっていたのが印象的だった。どうも歌人の愛読者が多い作家である。 
枝葉の雑談が多い文章になったが、削るのももったいない気がするので、このままにしておく。ここに名前を出した方には、そののちお元気ですか、と呼び掛けたい気持ちもある。

付記。12月13日付「毎日新聞」に「本の雑誌」創刊45年ということで編集長の浜本茂のインタヴュー記事がのっている。12月号は450号なのだそうだが、ちょうどこのタイミングに私が初めて椎名の本を読んで話題にしているという符号がおもしろい。しかし、出版界はたいへんで、土曜日の読書欄の片隅にみすず書房の「パブリッシャーズ・レヴュー」(もと「出版ダイジェスト」)がこの12月の号で最後になるというニュースが載っていた。白水社の分が来年1月に出て終刊となるとのこと。スマホは便利だが、出発点の検索のスタート地点が常にひとつしかないことが問題である。本や紙媒体のいいところは、幾種類も散開して展示されていることであるが、その分の面積が必要となるところが、この情報端末時代にそぐわない。しかし、紙媒体などで直接体験しながら気づかないようなことを自ら検索して探すことは不可能である。きっかけとなるワードがそもそもなければ、何も調べられない。だから、教養の下地がどうしても必要だ。何がその時代に必要なのかは、同時代の仲間の声の調子や姿から肌で感じ取るほかはない。だから、コロナでオンライン化が加速しているけれども、同級生と出会えない大学なんてあるわけがない。知識や教養というものは触覚的なものなのだ。椎名誠の教えをつづめて言えばそういうことになる。「本の雑誌」が生き残って来たのは、「無理をしない、頭を下げない、頑張らない」という社是のせいもあるだろうが、言葉の成立にかかわるもろもろの皮膚感覚的な要素を大切にして来たからである。