さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

日記

2020年12月20日 | 現代短歌
今日の一首

  つき纏ふ処世は悲し嘘ばかりつきて時雨が本降りとなる  さいかち真

 さて、このあと黙ればいいのだが、まあ何か書いてみることにする。「週刊文春」の巻末グラビアの今年亡くなった著名人のページをしばらく眺めて、そう言えば岡井さんは載っていないなと思い、寺山さんは載っただろう、塚本さんはどうだろうか、なんてことを考えた。くだらないな。坪内祐三が書棚を背にして寝そべっている写真がある。書棚を前にしていれば極楽、という感じ。書痴として人生をまっとうしたんだから、でも早すぎる死だ。
 近所を散歩して、小学校と中学校が同級だった人の家の前を通る。雨戸が閉まっている。何かあったのだろうか、と思うが、旅行に行っているのかもしれない。
 実は先日彼が近所のスーパーにいる姿を見かけたのだが、明らかに向こうはこちらに気が付いて避けているようだったのだ。この昔のままの自分を嫌われているという感覚は、とても変な感じがして、何かすまないような気がしてしまったのだ。でも、今現在彼は私などとよけいな口をきくのが嫌な境遇にいるのかもしれない。いずれにせよ、いくつになっても特に親しくもなかったやつの顔など見たくはないだろう。生きているといろいろなことがあると聞いてはいたが、これもその一つだろうか。ごめん、あの時のばかな俺は、君をさんざん傷つけていたのだ。…こんなことばかり。そうやってすれ違って、死ぬまで相手のことを誤解して、たいていの人間は生きてゆくほかはないのだ。

 嘘はさう、冷たいミルクのやう優しく人に力をくれる  中島靖子

 『冬のあぢさゐ』より。私が1999年に出した評論集『解読現代短歌』に引いてあった歌を、いまふと思い出した。
これは、誰かが私に対してついた嘘なのかもしれない。嘘だとわかっていても、わたしはその嘘の包み込むようなやさしさに安堵している。きっと会えるから待っててねとか、百年待っていてくれますか、とか。いや、ここでの嘘はもう少し卑近なものだろうけれども、それがミルクのようにやさしく感じられるという、相手はどんな素敵な心優しいひとだったのだろう。
 今日は何をしていたかと言うと、昼前後は買い物。帰ってきてから最近中古で購入した版画の汚れた額から絵をはずして、額縁の色を白からブルーに塗り替えていた。絵のうしろには、ミューズ社のバリア紙を入れて、これまでのものは一枚後に置く。額は古いので変えようかと思ったのだが、その絵が長年痛みもせずになじんできた額なわけだから、ガラスをきれいに拭いてぴかぴかにして再利用することにした。マットも新しくサイズをはかって注文する予定。
 そのほかに今日は何をしたかというと、玄関のところに置いてあったゴーヤの鉢の蔓がすっかり枯れてしまったので、かわりに花屋でみつけた苺の苗をそこに植えつけてみた。この鉢植えというやつは、水をやるのを忘れると、あっという間にだめになる。今年の夏は特に植物にとっても人間にとっても過酷だった。本当にみんなよく生きてきたものだ。しばしば水やりを忘れられてしまうわが家の鉢植えどもは。