さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

橘夏生『セルロイドの夜』

2020年12月14日 | 現代短歌
. 今日は某書店の古書コーナーで「現代短歌雁」のバックナンバーを見つけて、一冊五百円だったから二冊買って来た。そのほかに美術系の雑本も買ったがそれはすぐ見てしまったから、手元の歌集類を何となくめくりはじめたら、次の歌が目にはいってきた。
詞書に「冨士田元彦氏も小紋潤氏もいまや亡く」とあり、

  そのかみの雁書館の本なつかしき煙草の匂ひの染みつきし本   

 雁書館の四畳半ほどの事務所の壁にある本棚には、売るための本も置いてあるのだけれど、残部少数で長く置かれた本などには、たしかにうっすらと煙草の匂いがしみついてしまっていて、ああ雁書簡の本だなあ、とへんな感動をした覚えが私にもある。
 橘夏生さんの歌集のあとがきには、天井桟敷のオーディションに落ちてがっかりしている作者に寺山修司が手づから文庫本の『寺山修司青春歌集』を渡して、あなたには書くことの方がむいているよ、と言ってはげましてくれたとあるが、その文庫本は、私も高校の頃に熱中したものである。後年、冨士田元彦氏に会った際に、角川文庫の寺山修司の歌集が自分の短歌を作るきっかけのひとつになったと言ったら、「ああそれは、私が編集したんです」と即座に言われて、へえーっと驚いた記憶がある。 
 
『セルロイドの夜』からもう少し引いてみることにする。「夜の街」と呼ばれて、という詞書のある一首。

 そのかみに桂銀淑なるひかりあり宗右衛門町はいま沈黙の街
   ※「桂銀淑」に「ケイ・ウンスク」と振り仮名。

作者は大阪の人である。

 キッチンの秤がふるふこんな日は大津絵の鬼の目が炯りたり
   ※「炯-り」に「ひか-り」と振り仮名。

私はいま塚本邦雄に捧ぐ、と献辞のある歌集からあまり塚本ふうでない作品を探して引こうとしている。詞書のある歌はあまり塚本ふうでないものがあるようで、私にはそちらの個人的な述懐をもらすような歌の方がおもしろい。

  御陵血洗町コンドーム自販機はビニ本自販機とセット
    ※「御陵血洗」に「みささぎちあらひ」と振り仮名。
  
  あしひきの山川呉服店みかけたり飛田新地へいたる近道

一首目は「御陵血洗町」と「コンドーム自販機」という言葉の激突するところがすごいが、私的な詞書きが付せられていて、句またがりの効果的な使用はまさに塚本邦雄の方法であるが、内容や選択された語彙は塚本美学を換骨奪胎しているところがある。二首目は言わずもがな。
 
 麻酔のねむりのなかに置き忘れしごとき記憶のひとつ高瀬一誌の死も
   ※「高瀬一誌」に「たかせさん」と振り仮名。

この歌にも詞書があるが、ここには引かない。高瀬一誌は「短歌人」の拡大につとめた人で、独特な口語自由律の歌を作った。作者は「玲瓏」に入らないで「短歌人」に入ったために塚本邦雄に破門されたと歌集の後記に記している。

 便箋の白舞ひ上がるゆふぞらにわが名を呼びて走り去るもの

 うつしよに在るかなしさよ木枯しのなかにジャングル・ジムは毀れず

 次に引く歌は、詞書に川本浩美の歌が引かれている。

 吊り革のあたりまよへる花虻は近江のくにへゆきて死ぬらむ  川本浩美

これはいい歌だ。これに続けて、

 雲の切れ間にかがやける近江の死者の笑顔をこそおもへ  橘夏生

とあるが、挽歌なのだ。歌集のおしまいの歌。

 哭きながらたつたひとりで生まれ来しわたくしがまだ、哭いてゐる

深みのある歌で、しんしんと生き難いというひとはいるんだなあと思う。やはり挽歌の気配が濃厚である。この「わたくし」を包む孤独を慰めてくれる存在として身回りにある事物や事象が多く歌われているのが、この歌集である。というのは、いささか逆説的な言い方かもしれないが、短歌はもとより生に対して肯定的なものなのだ。私は先に次のような歌を引くべきだったのかもしれない。

 「さうさ、地上は時々うつくしいよ」飾り窓のアンスリウムが戦ぐ夏