承前
伝統と「共同制作」的なもの 18
村田美穂子の『体系日本語文法』から 21
中川久定の一文から 24
「私」と「自分」ということについて 26
伝統と「共同制作」的なもの
山本健吉著『古典と現代文学』昭和三五年刊、昭和五八年二九刷の新潮文庫を古書店で見出す。固い内容なのによく売れた本のようだ。それが今は講談社文芸文庫に移り、もとの新潮文庫版は絶版となって古書価格百円也。山本健吉と言うと、どちらかと言うと保守的な美意識の持ち主というイメージがあるが、そんなことはない。山本の師、折口信夫が保守的なようでいて、実は根底的な部分で極めて革新的であったのと同様に、多く師説を祖述した山本の論説は、今日読んでみると実に刺激的であり、示唆に富む。何よりもモノサシが大きいところがいい。
「昨年十一月、T・S・エリオットが、ウェストミンスターのセントラル・ホールで、『詩における三つの声』という講演をやり、そのリーフレットが刊行された。(略)これは詩劇についての考察であるが、詩における三つの声とは、第一には詩人が自分に向ってのみ語りかける声であり、第二には詩人が多少を問わず聴衆に向って語りかける声であり、第三には詩人が劇中人物を創造して、その人物が他の人物に話しかけているという限界内で、自分の言いうることだけを言っている詩の声である。この第三の声が、純粋に詩劇の声なのであり、それは日本の詩人たちに、これまで意識され発想されることのなかった声なのである。」
「…茂吉は、人麻呂的な特徴のなかに、あくまで『全力的』『全身的』と言った個性的なものしか見ようとはしなかった…。その原因は、やはり詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない、日本の詩人の習慣が作用しているのではないかと思う。(略)つまり機会詩(オケージョナル・ポエム)としてしか、詩を受け取ろうとしない考え方である。(略)人麻呂には、女の形容として『玉藻』『沖つ藻』などを持って来ることが多いが、これについても、茂吉は眼前に、人麻呂がそれを見て写生しているのだから生きてくるのだと言っている。この点からも、写生という観念が、根底において作者の経験した事実の尊重ということ、言いかえれば、詩はその場その場の機械詩として、従ってまた詩は現実の感情の裏づけの上に成立するものだという、暗黙の前提の上に築かれていることがわかるのである。」
「…はっきり個人の名を冠した作品であっても、偉大なものほど『独創』的であるよりも、『共同制作』的であるのだ。」
「芭蕉以後、発句が連句から独立して俳句となって以後、俳句は単独では、芭蕉において連句として到達した高さにまで到りえたことがない。」
ここには「詩」というものが、私の個的な経験を越えたものであるという文学観がある。そうして、文学史における最も輝かしい詩的な達成は、常にある共同的な場において育まれたものだという知見が示されている。ここには巨視的な視野に立った近代批判というものがあるのであって、その文脈において、山本は、茂吉のきわめて近代的な人麻呂観と、それを支えている写生説を批判するのである。
日本の詩人の無意識の癖が、「詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない」習慣だというのは、短歌にかかわっている者が傾聴すべき意見であるように思われる。そのうえで、では山本の言う共同創作的な契機とは何なのだろうと考えてみることも無駄ではないように思われるのだ。
村田美穂子の『体系日本語文法』から
高校の古典文法は別として、義務制の学校教育においては、ますます文法教育が軽視される傾向にある。従来の学校文法が破綻しているにもかかわらず、文科省がその取り扱い方を変えようとして来なかったためである。読むことにも書くことにも役に立たない死に体の学校文法のかわりに、日本語教育に携わる人たちは、実践的な文法理論の構築を始めている。中でも日本語教育に携わりながら、実際の日本語の在りように即した理論を自前で構築しようとしている人たちの成果には、目を見張るべきものがある。
私は日本語の〈語り〉に関する論考のななかで、江藤淳の次の言葉を要約して引いた。
「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」。たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。これは日本語の物語の構造に由来するものなのである。 江藤淳著『昭和の文人』
右の江藤の所論を裏付けるものとして、私は村田美穂子著『体系日本語文法』を推したいと思う。長くなるが同書から二箇所ほど引用する。たとえば、文語の〈過去〉の助動詞「けり」は、次のように説明される。
「「けりkeri」は、動詞「来」の連用形(名詞形)(き)に動詞「あり」の下接した「きki」+ありari」に発したとされる。「あり」は〈ありさま〉を表す仮面動詞で、現代語の「ある」と同様、発話時に目の前にあって「見えるもの」を専門に表した。「けり」は、放置したままの記憶がにわかに話し手のなわばり内に現れて目の前にあるという実感を表す形であったと考えられる。これが、「けり」が詠嘆を表すとされる根拠である。「見えるもの」はすべて、話し手の発話時に属しているからである。しかし、「けり」が過去を表すと考えるのは印欧諸語の文法を学んだことによって「過去」という概念を合理的とした短絡なのではないか。 (同書P48)
同書の終章には、次のように日本語と印欧語との違いが概括される。
「〈もの〉ということがらの素材を中心に考える本書の分類に従えば、日本語は文脈と場面に応じた個人的な実感をそのまま反映するヒト中心の言語、印欧諸語は大局的な普遍性を疑わないモノ中心の言語と言えるだろう。
渡辺実は、日本語では「わがこと」と「ひとごと」が文法的に区別されると指摘し、同時に、印欧諸語ではすべてが「よそごと」的に扱われると指摘している。なるほど、モノ中心の言語は「わがこと」も「ひとごと」もなく、すべて「よそごと」として述べる言語なのである。
「わがこと」は「私は嬉しい」と言えるが、「ひとごと」は「花子は嬉しい」と言えない文法的な制約を、日本語を学ぶ外国人は「impossibleありえない」などと言うが、なぜ自身とは別の肉体を持った花子の感覚や情意が自身について述べるのとおなじ形で表せるのか。そのことのほうを、日本語の文法は「impossible」とする。日本語による情報は、その場における、その話し手個人に帰するものなのである。(略)
日本語の文に文法的に要求されるのは、その情報が話し手自身に関係のあることがらか否か、情報の鮮度は、出どころは、聞き手との情報量の差は、そして話し手は述べた情報のどの部分にどの程度の責任を負うかという表し分けである。(略)このような言語を、その話者、つまり日本人自身は、文法がないと誤解しやすい。しかしそれは、印欧諸語の文法が日本語に当てはまらないための誤解である。」 (同書P313、314ページ)
だから日本語では、 特に文学的な言語においては、どんな客観的な描写でも語り手の「私」の翳りを帯びる(「私」が投影される)ことになる。日本語において話者の表情は極めて豊かなのである。
この点を戦後の一時期に「日本的なもの」への自己嫌悪にかられた人々は、日本語や日本的精神は、科学的性格と歴史的認識に欠けているとして批判した。しかし、この言語の持っている性格をよく認識して、印欧諸語との相違を自覚しながら文法や日本語による論理の精緻化と深化を図っていくなら、 われわれは〈近代〉の負性を根本的に克服しながら次の表現線の開拓に向かって進んでゆくことが可能となるだろう。
中川久定の一文から
偏西風の蛇行に起因するという記録的な猛暑の夏、自分が過去五年間ほどの間に書いた文章を編集し、同時に職場では、溜まった過去の文書ファイルを選別して不要なものを廃棄する作業を続けていた。そうしたら「創文」という出版社のリーフレットが出てきた。その中に中川久定の一文があった。「日本語による哲学 西田幾多郎をめぐって」という二段組四ページの文章が発表されたのは、一九九四年の十一月。リーフレットの巻末の広告をめくると、『西田哲学 没後五十年記念論文集』の広告が見えるので、これに関連して書かれた文章だということがわかる。
中川は、日本語における「述語」の第一次性(逆にフランス語における「主語」の第一次性)を確認したうえで、西田の「SはPでなければならない」という言い方について考察を進めてゆく。西田哲学は、述語が第一次性をもつ日本語の構造を前提として成立したものである。オギュスタン・ベルクは、『空間の日本文化』の中で日本語の特徴を次のように規定している。日本語は、フランス語のような「人称的、ないし主語中心的、自己中心的言語」ではなくて、「非人称的、場所中心的言語」なのである、と。
「西田によれば、「我とは主語的統一ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」という(「場所」)。」
「(略)判断が、自分を越えた「場所」の側から自分に迫ってきているという感覚、あるいはニュアンスとともに、この判断を表現するとすれば、次の文例が可能であろう。――「SはPであると(と私には)思われる」。」
この断章によって私が何を言いたかったのかというと、斎藤茂吉の「実相に観入して自然自己一元の生を写す」という言葉は、深く日本語の構造に由来する詩論だったのだということである。それはむやみと神秘的、非合理的な主張であるのではなかった。それは先述の最新の日本語文法論からも、和辻倫理学や西田哲学などからも跡づけることが可能な、近代日本人が生み出した、日本語による詩の方法の象徴的な表現だったのだと、今なら言うことができる。
「私」と「自分」ということについて
「私」が確立された「近代的な自我」などではなく、高度化した資本主義社会の中で、さまざまな広告宣伝情報に突き動かされながら、商品やイメージの消費への欲望を日々刺激され続けているだけの受け身の存在なのだということを自覚した時に、とりあえず「私」は「自分」というものであるだろう、という所までは確認できる。日々「自分」を編成し直してやっているから、自己実現を第一とする近代的な「私」としては、完全に圧伏されながらでも組織の中で働く事ができる。(一方で働くことは、自己を社会の中で生かすことにほかならないから、つらくても無意味ではない。)
さて、短歌をひとえに「私」語りの文学だと言うと、「近代的な自我」語りの文学のことという勘違いが起こってくる。それで、そのとんがった「私」を、もう少し現実のすり鉢の底にすり潰して、短歌は「私」の文学であり、同時にまた「自分」についての文学でもあると言ってみたら、われわれの日常の感覚に近くなるのではないだろうかと私は思う。
ここで言う「自分」は、「みづから分く」とも「おのづから分く」とも読めるものである。この「おのづから」を手がかりとして、日本の文芸の場所的な性格を考えることができそうだ。
そうして、詩歌の解釈も、日本語では「おのづから」生ずるものなのではないか、と思われて、日頃の自分の文章について苦笑しつつ思う。
市倉哲郎の『和辻哲郎の視圏』(春秋社)という書物を読むと、和辻の仕事を語ることを通して市倉が行っている戦後批判が、なかなかおもしろく感じられる。市倉は和辻の『倫理学』について次のように述べる。
「日常世界に埋没することが重要なのではない。ハイデガーでも同じであるが、日常を非日常的に生きる覚悟が大切なのである。あるいは、無意識的に実現している通常の状況を、絶えず非日常的な決意をもって生きることが、といってもいい。」 (一六九ページ)
詩歌の作者というのは、究極的には、こういう覚悟を持って自分の場所を生きているのではないか。眼前の対象を感受し抜くことによって、個我はそのつど編成し直されたかたちで現れるのである。同じく「間柄」の中に生きながら、単に奴隷であるだけの生き方と、そうではない生き方との間には違いがあるはずだ。もともと探さなくとも、「自分」はここにいるのである。それがわからないから、自己発見などという吹けば飛ぶような目標を掲げることになる。年齢を重ねれば重ねるほど、それは恥ずかしいことになるのである。
伝統と「共同制作」的なもの 18
村田美穂子の『体系日本語文法』から 21
中川久定の一文から 24
「私」と「自分」ということについて 26
伝統と「共同制作」的なもの
山本健吉著『古典と現代文学』昭和三五年刊、昭和五八年二九刷の新潮文庫を古書店で見出す。固い内容なのによく売れた本のようだ。それが今は講談社文芸文庫に移り、もとの新潮文庫版は絶版となって古書価格百円也。山本健吉と言うと、どちらかと言うと保守的な美意識の持ち主というイメージがあるが、そんなことはない。山本の師、折口信夫が保守的なようでいて、実は根底的な部分で極めて革新的であったのと同様に、多く師説を祖述した山本の論説は、今日読んでみると実に刺激的であり、示唆に富む。何よりもモノサシが大きいところがいい。
「昨年十一月、T・S・エリオットが、ウェストミンスターのセントラル・ホールで、『詩における三つの声』という講演をやり、そのリーフレットが刊行された。(略)これは詩劇についての考察であるが、詩における三つの声とは、第一には詩人が自分に向ってのみ語りかける声であり、第二には詩人が多少を問わず聴衆に向って語りかける声であり、第三には詩人が劇中人物を創造して、その人物が他の人物に話しかけているという限界内で、自分の言いうることだけを言っている詩の声である。この第三の声が、純粋に詩劇の声なのであり、それは日本の詩人たちに、これまで意識され発想されることのなかった声なのである。」
「…茂吉は、人麻呂的な特徴のなかに、あくまで『全力的』『全身的』と言った個性的なものしか見ようとはしなかった…。その原因は、やはり詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない、日本の詩人の習慣が作用しているのではないかと思う。(略)つまり機会詩(オケージョナル・ポエム)としてしか、詩を受け取ろうとしない考え方である。(略)人麻呂には、女の形容として『玉藻』『沖つ藻』などを持って来ることが多いが、これについても、茂吉は眼前に、人麻呂がそれを見て写生しているのだから生きてくるのだと言っている。この点からも、写生という観念が、根底において作者の経験した事実の尊重ということ、言いかえれば、詩はその場その場の機械詩として、従ってまた詩は現実の感情の裏づけの上に成立するものだという、暗黙の前提の上に築かれていることがわかるのである。」
「…はっきり個人の名を冠した作品であっても、偉大なものほど『独創』的であるよりも、『共同制作』的であるのだ。」
「芭蕉以後、発句が連句から独立して俳句となって以後、俳句は単独では、芭蕉において連句として到達した高さにまで到りえたことがない。」
ここには「詩」というものが、私の個的な経験を越えたものであるという文学観がある。そうして、文学史における最も輝かしい詩的な達成は、常にある共同的な場において育まれたものだという知見が示されている。ここには巨視的な視野に立った近代批判というものがあるのであって、その文脈において、山本は、茂吉のきわめて近代的な人麻呂観と、それを支えている写生説を批判するのである。
日本の詩人の無意識の癖が、「詩というものを、作者の現実の感情の等価物としてしか見ようとしない」習慣だというのは、短歌にかかわっている者が傾聴すべき意見であるように思われる。そのうえで、では山本の言う共同創作的な契機とは何なのだろうと考えてみることも無駄ではないように思われるのだ。
村田美穂子の『体系日本語文法』から
高校の古典文法は別として、義務制の学校教育においては、ますます文法教育が軽視される傾向にある。従来の学校文法が破綻しているにもかかわらず、文科省がその取り扱い方を変えようとして来なかったためである。読むことにも書くことにも役に立たない死に体の学校文法のかわりに、日本語教育に携わる人たちは、実践的な文法理論の構築を始めている。中でも日本語教育に携わりながら、実際の日本語の在りように即した理論を自前で構築しようとしている人たちの成果には、目を見張るべきものがある。
私は日本語の〈語り〉に関する論考のななかで、江藤淳の次の言葉を要約して引いた。
「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」。たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。これは日本語の物語の構造に由来するものなのである。 江藤淳著『昭和の文人』
右の江藤の所論を裏付けるものとして、私は村田美穂子著『体系日本語文法』を推したいと思う。長くなるが同書から二箇所ほど引用する。たとえば、文語の〈過去〉の助動詞「けり」は、次のように説明される。
「「けりkeri」は、動詞「来」の連用形(名詞形)(き)に動詞「あり」の下接した「きki」+ありari」に発したとされる。「あり」は〈ありさま〉を表す仮面動詞で、現代語の「ある」と同様、発話時に目の前にあって「見えるもの」を専門に表した。「けり」は、放置したままの記憶がにわかに話し手のなわばり内に現れて目の前にあるという実感を表す形であったと考えられる。これが、「けり」が詠嘆を表すとされる根拠である。「見えるもの」はすべて、話し手の発話時に属しているからである。しかし、「けり」が過去を表すと考えるのは印欧諸語の文法を学んだことによって「過去」という概念を合理的とした短絡なのではないか。 (同書P48)
同書の終章には、次のように日本語と印欧語との違いが概括される。
「〈もの〉ということがらの素材を中心に考える本書の分類に従えば、日本語は文脈と場面に応じた個人的な実感をそのまま反映するヒト中心の言語、印欧諸語は大局的な普遍性を疑わないモノ中心の言語と言えるだろう。
渡辺実は、日本語では「わがこと」と「ひとごと」が文法的に区別されると指摘し、同時に、印欧諸語ではすべてが「よそごと」的に扱われると指摘している。なるほど、モノ中心の言語は「わがこと」も「ひとごと」もなく、すべて「よそごと」として述べる言語なのである。
「わがこと」は「私は嬉しい」と言えるが、「ひとごと」は「花子は嬉しい」と言えない文法的な制約を、日本語を学ぶ外国人は「impossibleありえない」などと言うが、なぜ自身とは別の肉体を持った花子の感覚や情意が自身について述べるのとおなじ形で表せるのか。そのことのほうを、日本語の文法は「impossible」とする。日本語による情報は、その場における、その話し手個人に帰するものなのである。(略)
日本語の文に文法的に要求されるのは、その情報が話し手自身に関係のあることがらか否か、情報の鮮度は、出どころは、聞き手との情報量の差は、そして話し手は述べた情報のどの部分にどの程度の責任を負うかという表し分けである。(略)このような言語を、その話者、つまり日本人自身は、文法がないと誤解しやすい。しかしそれは、印欧諸語の文法が日本語に当てはまらないための誤解である。」 (同書P313、314ページ)
だから日本語では、 特に文学的な言語においては、どんな客観的な描写でも語り手の「私」の翳りを帯びる(「私」が投影される)ことになる。日本語において話者の表情は極めて豊かなのである。
この点を戦後の一時期に「日本的なもの」への自己嫌悪にかられた人々は、日本語や日本的精神は、科学的性格と歴史的認識に欠けているとして批判した。しかし、この言語の持っている性格をよく認識して、印欧諸語との相違を自覚しながら文法や日本語による論理の精緻化と深化を図っていくなら、 われわれは〈近代〉の負性を根本的に克服しながら次の表現線の開拓に向かって進んでゆくことが可能となるだろう。
中川久定の一文から
偏西風の蛇行に起因するという記録的な猛暑の夏、自分が過去五年間ほどの間に書いた文章を編集し、同時に職場では、溜まった過去の文書ファイルを選別して不要なものを廃棄する作業を続けていた。そうしたら「創文」という出版社のリーフレットが出てきた。その中に中川久定の一文があった。「日本語による哲学 西田幾多郎をめぐって」という二段組四ページの文章が発表されたのは、一九九四年の十一月。リーフレットの巻末の広告をめくると、『西田哲学 没後五十年記念論文集』の広告が見えるので、これに関連して書かれた文章だということがわかる。
中川は、日本語における「述語」の第一次性(逆にフランス語における「主語」の第一次性)を確認したうえで、西田の「SはPでなければならない」という言い方について考察を進めてゆく。西田哲学は、述語が第一次性をもつ日本語の構造を前提として成立したものである。オギュスタン・ベルクは、『空間の日本文化』の中で日本語の特徴を次のように規定している。日本語は、フランス語のような「人称的、ないし主語中心的、自己中心的言語」ではなくて、「非人称的、場所中心的言語」なのである、と。
「西田によれば、「我とは主語的統一ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」という(「場所」)。」
「(略)判断が、自分を越えた「場所」の側から自分に迫ってきているという感覚、あるいはニュアンスとともに、この判断を表現するとすれば、次の文例が可能であろう。――「SはPであると(と私には)思われる」。」
この断章によって私が何を言いたかったのかというと、斎藤茂吉の「実相に観入して自然自己一元の生を写す」という言葉は、深く日本語の構造に由来する詩論だったのだということである。それはむやみと神秘的、非合理的な主張であるのではなかった。それは先述の最新の日本語文法論からも、和辻倫理学や西田哲学などからも跡づけることが可能な、近代日本人が生み出した、日本語による詩の方法の象徴的な表現だったのだと、今なら言うことができる。
「私」と「自分」ということについて
「私」が確立された「近代的な自我」などではなく、高度化した資本主義社会の中で、さまざまな広告宣伝情報に突き動かされながら、商品やイメージの消費への欲望を日々刺激され続けているだけの受け身の存在なのだということを自覚した時に、とりあえず「私」は「自分」というものであるだろう、という所までは確認できる。日々「自分」を編成し直してやっているから、自己実現を第一とする近代的な「私」としては、完全に圧伏されながらでも組織の中で働く事ができる。(一方で働くことは、自己を社会の中で生かすことにほかならないから、つらくても無意味ではない。)
さて、短歌をひとえに「私」語りの文学だと言うと、「近代的な自我」語りの文学のことという勘違いが起こってくる。それで、そのとんがった「私」を、もう少し現実のすり鉢の底にすり潰して、短歌は「私」の文学であり、同時にまた「自分」についての文学でもあると言ってみたら、われわれの日常の感覚に近くなるのではないだろうかと私は思う。
ここで言う「自分」は、「みづから分く」とも「おのづから分く」とも読めるものである。この「おのづから」を手がかりとして、日本の文芸の場所的な性格を考えることができそうだ。
そうして、詩歌の解釈も、日本語では「おのづから」生ずるものなのではないか、と思われて、日頃の自分の文章について苦笑しつつ思う。
市倉哲郎の『和辻哲郎の視圏』(春秋社)という書物を読むと、和辻の仕事を語ることを通して市倉が行っている戦後批判が、なかなかおもしろく感じられる。市倉は和辻の『倫理学』について次のように述べる。
「日常世界に埋没することが重要なのではない。ハイデガーでも同じであるが、日常を非日常的に生きる覚悟が大切なのである。あるいは、無意識的に実現している通常の状況を、絶えず非日常的な決意をもって生きることが、といってもいい。」 (一六九ページ)
詩歌の作者というのは、究極的には、こういう覚悟を持って自分の場所を生きているのではないか。眼前の対象を感受し抜くことによって、個我はそのつど編成し直されたかたちで現れるのである。同じく「間柄」の中に生きながら、単に奴隷であるだけの生き方と、そうではない生き方との間には違いがあるはずだ。もともと探さなくとも、「自分」はここにいるのである。それがわからないから、自己発見などという吹けば飛ぶような目標を掲げることになる。年齢を重ねれば重ねるほど、それは恥ずかしいことになるのである。
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