さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

短歌と日本語による〈私〉の語りについて 1

2017年01月01日 | 現代短歌 文学 文化
一太郎ファイルの復刻。数年前に手刷りの冊子として数十部作って知人に配布したもの。当時、今井恵子さんが「和文脈」というようなことをおっしゃっていて、そういうコンステレーション(共振)がおもしろかった。

はじめに この冊子は、この五年間ほどの間に私が取り組んできた研究の中身を知人や職場の皆さんに知ってもらおうと思って編集したものである。Ⅰ章の文章は、短歌結社誌「未来」に「読みへの通路」と題して毎回一ページ五十回ほど連載した文章の後半を整理したものである。Ⅱ章には、短歌の総合誌に掲載した「アララギ」系の歌人についての短文を集めてみた。Ⅲ章には、最近取り組み始めた近世和歌に関する文章を入れた。

目次
  Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解 2
高安国世・リルケと「実相観入」 4
経験に依拠する仕方について 6
描写と説明について 9 
  ①自己分析のてだて
  ②「~のだ」による私語り
陳述について 14
  ①「がある」と「である」
  ②日本語による陳述とは

 Ⅰ
小林秀雄の「写生」理解

 小林秀雄に『考えるヒント』という著書がある。その中で斎藤茂吉の写生論について小林は、空海からベリンスキイまでさかのぼって引用しながら、茂吉の言う「写生」は、〈観〉の部分を含んでいるのだ、つまり、ものを見る時の態度(ものの見方)の問題を含んでしまっているのだと言っている。だから、「自然自己一元の生を写す」という茂吉の「実相観入」論は、西洋の客観主義的、科学的なリアリズムとは別物である、というのだ。われわれが子規以来の「写生」論を整理しようとして字句にこだわり始めると、ひどく込み入ったことになってしまう。その点、小林秀雄の右の理解を常に念頭に置いて「写生」をめぐる議論を見てみるならば、根底の部分をしっかりとつかまえているので、時間を無駄にしないで済むのではないかと思う。
 桶谷秀昭の『永遠と亡びゆくもの』という論集の冒頭に、「虚相について」という文章があり、二葉亭四迷の『小説総論』の言葉、「模写といへることは実相を仮りて虚相を写し出すといふことなり。」という有名な一節が引かれている。二葉亭の言葉は、ロシアの思想家ベリンスキイの「芸術の理念」を下敷としているのだが、細かい説明は抜きにして、右の言葉を字義どおり受け取るなら、「模写」の目標は「虚相」を写すことにあるのだから、桶谷によれば、「つまり、レアリズムという文学方法だか表現の結果だかが、事物の模写を生命としないということである」ということになる。これは、俗流の「リアリズム」理解に対する批判を含む言葉なのであるが、このようにとらえてしまえば、リアリズムというものも随分風通しの良いものに感じられることだろう。桶谷は言う。「(略)そのレアルな描写が生きるのは、作家が観察し、選択した事物それ自体のもつ力ではなくて、作家がそれらに付加した情熱の力によってである。」
 この言葉を、先述の小林秀雄がとらえた茂吉「写生」論と突き合わせてみると、桶谷の論は、小林の論とほとんど重なっていることがわかるだろう。ものを見る時に、作家が付加する「情熱の力」には、当然〈観〉の要素が含まれていると見なければならない。つまり、いやおうなく倫理的な傾きを持つことになる。読者はここで、小林秀雄の「写生」論の射程に驚くのではないだろうか。
 さて、桶谷は同じ論文で次のように書く。「二葉亭の『虚相』がいかにも混乱した、あいまいな概念であったにせよ、彼がその言葉にこめた想いは、生きた、現実的な本能に近い倫理感覚であり、それに強いられたかぎり、二葉亭の『模写』による文章の言葉は生きたのである。」
ここで桶谷の言う「倫理感覚」というのは、「生活という他者」にぶつかることによって、「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」に堕する「自己欺瞞」から抜け出そうとする意識の有り様をさしている。この、自意識という百年の課題は、何周もめぐって今再び若い歌人たちの問題になっているように私には思われる。もちろん、問題は「鋭敏な自意識の果て知らぬ遊戯」が「自己欺瞞」であるなどとは、簡単に言えないところにある。

高安国世・リルケと「実相観入」

 前回の話題を続ける。ちょうど水沢遥子さんの『高安国世ノート』という本が出たばかりだ。昭和三一年の「短歌研究」七月号で高安国世が、手塚富雄、森田たま、清水基吉と座談をしていて、こんなことを言っている。
 「リルケという詩人は自己を捨てるというか、主観と客観の融合というものを目指してやつたように思うんですね。だから方法としては斎藤茂吉の実相観入というものと一脈相通じると思うんですがね。」
 目からうろこが落ちるような発言というのは、こういうものを言うのだろう。いろいろなことが一度に了解できる。日本人でリルケが好きな人が多いわけもわかるし、高安国世のリルケや茂吉の読み方もわかる。同じ場で高安はこんなことも述べている。
「向うの人は個人が閉ざされていてね、そういうところでリルケなんかも孤独を感じて、そこから抜け出そうとしたわけでしよう。」
「(略)知性への追及の果てに西洋文明は一つのゆき詰りに来てると思うんですよ。主観と客観との分裂が現代の悩みになつてきてるんで、東洋を見直す気持があるんでしようね。」
 茂吉の方は、周囲に自然があふれた日本的風土の中で「実相観入」と言った。そのことと、西欧の伝統の中で近代人として悩んだ果てにリルケが選び取った方向が、逆の向きから出会いながら、たまたま重なって見えている。それを高安国世という大知識人が、双方の違いを十分に認識しながら言った言葉が右に引いたようなものとなった、ということではないかと思う。だから、この認識は高安国世の内在化した西洋の知の問題である。繰り返しになるが、水沢さんの本には、高安国世の次のような言葉が引用されている。
 「僕はリルケが『物』の詩に赴くのは、近代的自意識を脱するため、新しい調和を回復しようがためと思いますが、日本の多くの美しい歌は近代的自我の形成を経ずして東洋的な自然との融和感を基礎としているように思うのです。」
                        (「或る不安について」一九五六年)
 たぶん問題は、われわれの「孤独」の質なのだろう。現代の日本人は、もしかしたら昭和三一年の頃よりもリルケの悩みを悩めるところにいるのかもしれない。むろん、あらゆる劣悪な条件を捨象したところで、仮にそう言ってみるのであるが。
 どうしてこんなことを書いているのかというと、それは「自然」を詠んだ歌のことを考えてみたいからである。現代のわれわれにとって自我や自意識といったものは、統一的なものと言うよりは、むしろ多くは細分化され、寸断されたものとして、たまさかに現象するだけのものとなっている。現代のわれわれの身体は、多くの場合に、無数の消費的な権力関係、ミシェル・フーコーの言ったような微細な権力が織り成す場として存在しているのにすぎない。そういうところで、新しい歌の作者にとって「自然」の歌はどのようにあらわれて来るのだろうか。再び逆のベクトルのところで、われわれがリルケのような方法と出会うことはないのだろうか。そのための導きの糸として高安国世の作品を読み直す道も開けているのではないだろうか、ということである。

経験に依拠する仕方について

 小川国夫に『漂泊視界』というタイトルの随筆集がある。その「後記」にこんなことが書いてある。
「最近、私は或る青年の小説原稿を読んだ。自伝的な作品で、かなりな出来栄えであった。ことに描写が優れていて感心したが、気に懸る点がないでもなかった。で、彼と会った時、次のように批評した。
――あなたの小説には美点もたくさんあるが、不徹底な印象が残る。それはなぜかと考えて見るに、あなたが自己形成の跡を追体験し人生の意味を問い直そうとしているのか、或は、自己の体験を基にして自分の外に作品を創り上げようとしているのか、ということが不明だからだ。勿論そのいずれかにスッパリ分けられるものではないが、自伝的な作品を書こうとする場合、この二つの行き方を両極として意識することは必要だと思う。」
 一九七二年、冬樹社刊の小豆色のクロース装の書物である。右の言葉は、「あなたの小説」というところを「あなたの歌」という言葉にかえて読めば、そのまま或る種の短歌作者にとってヒントとなる言葉ではないだろうか。
 さて、前者の例になるかどうかは知らないが、今ふっと思い浮かんだのが、東峰夫の自伝的な小説『ちゅらかあぎ』である。沖縄から出て来た青年が、製本屋に就職して安い給料で働くのだが、そのうちにいやになってやめてしまい、それでも気に入った本を読んだり、日雇いのような仕事をしながら、好きな文章を書くことはやめないでその日暮らしを続けている、というような内容の、わびしいけれど不思議とさばさばした自由な読後感が得られる作品である。
 後者の例としては、最近読んだものの中からあげると、河出文庫の田中小実昌初期短編集『上陸』がおもしろかった。作品には、いかさま占い師の手伝いをしたり、港湾労働者の仲間になって危うく戦争中の朝鮮半島まで連れて行かれそうになったりするその日暮らしの若者の生活が描かれているが、細部に作者が実際に体験したことが投影されていると感じる。でも、あまりにも内容が荒唐無稽なので、一篇が「ファルス」(坂口安吾)だということがすぐにわかる。ここでの作者は、いったん「私」を放り捨てているのである。 むろん小説の約束事と短歌の約束事は異なっている。
 小説における私性ということについて、江藤淳が『昭和の文人』の中で、はっとするようなことを書いていた。
 「テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述をおこなうという技法こそ、西欧の物語話法の基本的な約束事にほかならない」が、日本の近代小説の実作者たちは、一貫してこの「西欧の物語話法を迂回し続けて来た」というのである。
 たとえば谷崎潤一郎の『細雪』において、作者はテクストの外部ではなく内部にいて、小説の登場人物の陰に身をひそめている。小説の登場人物は「三人称の仮面をつけた一人称」である。それは江藤によれば、日本語の物語の構造に由来するものなのである。
「それはやはり、秋聲や谷崎が、小説はいかに仮構であれ『嘘』ではなく、人間と人生についての『真実』を語らねばならず、しかも日本の作家である以上それを日本語で語らなければならないということを、よく心得ていたからであった。」というのである。
 ここで批評は、日本語の文法と統辞法に由来する、自己の体験について語ることの容易さと困難さに向き合うことを求めている。

描写と説明について 

  ①自己分析のてだて

 散文の理論を、短歌の分析や実作に役立てることはできないか。以下にもっとも簡便なかたちで、その一つを示す。これは私が短歌の作り方を人に教える時にやってみて、評判が良かったものである。
 散文の文章には、大きく分けて「描写」の文と「説明」の文がある。例文を示す。
 昨晩私はよく眠れなかった。
 それは次の日の会合が気になっていたからだ。
 この二つの文のはじめの方が「描写」で、あとの方が「説明」である。「説明」は、短歌に応用する場合には、「感慨」と言い換えてもよい。つまり、前者の一文が客観的だとしたら、後者の一文は主観的である。基本的にこのふたつのタイプの文章を織り混ぜて日本語の散文は書かれている。近代小説の典型とされる芥川龍之介の「羅生門」などにおいては、「描写」文が中心の段落と、「説明」文が中心の段落とが明確に区別して書かれている。
 文末の表現としては、前者が「~た」に代表され、後者が「~のだ、~のである」に代表される文法的な対照がある。
 これを「日本作文の会」では、作文教育の現場での応用がきくかたちで、理論化している。具体的には小学校の低学年までを「第一指導段階」として、その段階での「記述=叙述の指導」について、日本作文の会のテキストでは、次のような解説がなされている。
 〈そのときのものやことの姿とうごき、事実と事実関係、そのときのものやことのようす、他人のうごきやことば、自分の心理の内面のことをよくふりかえり、よく思い出しながら、これを「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」といいおわる日本語の単語(述語)を選び配列しながら「文」をつくっていく、その「文」をかさねて、部分の文章をつくり、さらにすじのとおった全体の文章をつくっていく指導をする。
 ただし、文章の部分部分のところで、「ことわり」としてのみじかい説明を、そのつどそのつど、いれる必要があるときは、「です、ます、のです」「だ、である、なのである」といった「現在・未来形」を用いた「文」でかくことについての記述指導も、この段階ではしていく。〉
右の教師向け解説文のひとつめの段落が、「描写」文についてのもので、「ただし」以下の段落が、「説明(感慨)」文についてのものである。日本作文の会で「ことわり」と呼んでいるものと、私がこの小文で「説明」の文、または「感慨」を示す文と呼んでいるものはほぼ同じである。私はここではあまり厳密さをもとめる必要を認めない。ひとつの考え方として、おおざっぱでいいから、右の「描写」と「説明」という二つのタイプの「文」はちがうのだということを読者に認めてもらえれば、それでよい。
 さて、短歌の場合はどうなのかと言えば、すべて「描写」と「説明」のふたつに分けてしまうのは、粗雑にすぎるだろう。短歌では、純粋に客観的な「描写」文というのはほとんどなくて、大半の「描写」文が、「説明」的なニュアンスを持っていると言っていいだろう。にもかかわらず、二つのタイプの文の占める割合を比較することによって、ある作家の変遷や、一冊の作品集の傾向を最大公約数的につかむことはできる。また、自己分析にもこれを役立てることができるのである。

  ②「~のだ」による私語り

 岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を例にとる。「私」を主語として「~のだ」で結ぶ典型的な〈説明〉文は、著名な第一詩集『ambarvaliaあむばるわりあ』(昭和八年刊)にほとんど出て来ない。ひとつ引用してみよう。
   雨
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
 潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。
 この詩集の特徴は、右のような詩にあるということになっている。文末が「~た」からなる〈描写〉文の詩である。高校でまず教わるのが、冒頭の次の詩である。
   天気
 (覆された宝石)のやうな朝
 何人か戸口にて誰かとさゝやく
 それは神の生誕の日。」
 これは、若い人に詩についての先入見を与えるという意味では、なかなか影響が大きい詩なのだ。しかし、これを模範として詩を作るのは難しい。本格的に西欧語を習得した作者が、客観的な〈描写〉文を基本として詩を構成することは、自然ななりゆきである。この詩集には、難解な「失楽園」など、後年の作者の萌芽が見える詩が収められているのだが、そこに出てくる主語の「おれ」は、戦後の述懐の話法(おのれ語り)をもって書かれた詩と地続きである。それとて、後年の仮名のタイトルの『あむばるわりあ』(昭和二二年刊)の改作では、作者は「おれ」を取り去ってしまったかたちで整理したりしているから、この詩人にとっても、語りの主体のありようは、大きな課題だったことがわかる。しかし、その詩人が、第二詩集『旅人かへらず』を経て、『近代の寓話』以降、「私」を主語とした「~のだ」を多用する詩境に移って行った、ということのなかに、私は日本語の生理のようなものについての作者の自覚の深まりがあると思う。
   無常
 バルコニーの手すりによりかかる
 この悲しい歴史
 水仙の咲くこの目黒の山
 笹やぶの生えた赤土のくずれ。
 この真白い斜塔から眺めるのだ
 枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
 蓮華のような夕陽が濡れている。
 (略)
 饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
 はさまれて博士たちは恋人のように
 しやがんで何事かしやべつていた。
 (略)
 やがてもうろうとなり
 女神の苦痛がやつて来たジッと
 していると吐きそうになる
 酒を呪う。
 (略)
 客はもう大方去つていた。
 とりのこされた今宵の運命と
 かすかにをどるとは
 無常を感ずるのだ
 いちはつのような女と
 (以下略)
 五行目の「この真白い斜塔から眺める」主体が、作者・「私」であることを読者は疑わないだろう。その結びは「~のだ」である。酒の女神と踊ることに「無常を感ずるのだ」という私語りとしてせり出してくるのが、日本語の〈説明〉文なのである。

陳述について 

  ①「がある」と「である」

 回り道になるが、先に「描写と説明について①自己分析のてだて」の節で言及した「ことわり」という用語の意義について、私なりに、ここでは和辻哲郎の言葉を引きながら理解を深めてみたいと思う。「ことわり」というのは、筆者が、提示された事実について、その「わけ」を説明する文章をそう呼ぶ。基本的に自分が「分か」っていることを、説明するのが「ことわり」の文章である。さて、
 「我々の国語によれば、理解を云ひ表はす語は『分かる』であり、理解せられた『こと』は『ことわり』であり、理解し易く話すのは、『ことを分けて話す』のである。(略)理解せられる以前にはそれはまだ分かつてはゐない。だから『わけ』は分かるべき構造を持つた統一である。(略)『分かる』のは統一の自覚である。従つて分離自身に本来の統一が現はれる。その明白な云ひ現はしが『である』である。SはPであると云はれるとき、SとPとに分けることが既に両者の本来の統一の自覚であるが故に、両者は『である』によつて結合せられるのである。」     (『人間の学としての倫理学』第二章、十四)
 これに対して、「がある」の場合は、右のようなことわりを必要としない。「がある」には、漢語の「有」が該当する。
 「(略)有るところのものとは手の前にあつて使へるものの謂に他ならぬ。(略)有の根底には必ず人間が見出される。金が有るとは人間が金を有つのであり、従つて金は所有物である。」                            (第一章、四)
 「例えば『Sがある』といふのはSについて陳述しつゝ人間がSを持つことを云ひ現はすのである。だから、陳述に於ては、人間の存在はすでに先立つて与へられてゐる。陳述とはこの存在をのべひろげて云ひ現はすことである。のべひろげるに当つてそれはさまざまの言葉に分けられ、さうしてその分けられた言葉が結合せられる。」 (第二章、十四)
つまり、「Sがある」という物事を、「SはPである」と「事(言)分け」することが、「わかる」ということなのだ。和辻は、「がある」を「である」と区別して思考を展開しながら、西洋の諸学を日本語で咀嚼してみせた。この「がある」と「である」という用語の区別は、現代の論理学の概説書でも触れられていることだ。和辻の説明から、私は文章論における〈描写〉と〈説明〉という用語の対立の構造を浮き彫りにしながら考えるヒントを得た。
・「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる。」
・「陳述とは人間の存在の表現に他ならなかった。然るに人間存在とは、間柄に於ける行為的連関である。」
・「『云ひ現はし』即ち陳述は根源的には間柄の表現である。(略)間柄の表現に於ては、身振りや動作の場合でさへも、その間柄がすでに先立つて与へられてゐる。」 ここで右の引用の「陳述」を、「書くこと」とか、「作歌行為」というように置き換えて読んでみる時、にわかに和辻哲郎の言っていることの意味が生動してくる。「間柄」というのは、和辻によれば「生ける動的な間であり、従つて自由な創造を意味する」ものである。
                                 (第一章、三)
文章も作品も、「間」において書かれ、発表される。それは間柄に於ける行為的連関であり、また、それを書いたり、発表したりする話者の「存在の構造を」「そのまゝ」「映し取つてゐる」。この「映し取」るという言い方が、なかなか魅力的ではないかと、私は思うのである。

  ②日本語による陳述とは

 前回の和辻哲郎の引用から、さらに一歩を進めて考えてみる。和辻によれば、「陳述は、だから、人間存在を言葉に於て云ひ現はすときに、その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」のである。これを少々強引にだが、以下に敷延してみよう。
 ここでいう「陳述」を、近代短歌における「写生」という用語に置き換えて考えてみたい。われわれが今ここで、花なら花を「写生」するとしよう。そこでは「写生」をすること自体が、すなわち「われわれ」の「その存在の構造をそのまゝ映し取つてゐる」ことになっているのだ。つまり、「描く」ことによって、「間柄に於ける行為的連関である」私の姿は、無条件にあらわれてしまうということなのだ。それも日本語という母語を用いて、同じ社会の圏内に住む者として、そうあらしめられるのだ。もちろんこの先に、どう描くのか、という問題があらわれて来るのだが、それにしても、描いてしまった時点で、それが、すでに「間柄の表現」として成立しているという認識は、「個性」的なものを重んずる近代的なものの言い方に対して、なにほどかの批評をはらむはずである。もっとも右のような言語・社会の理解の仕方は、和辻の『倫理学』が人間の本源的な善意の成立への信頼に立脚するものであることに由来するように私には思われるが、そのことから必然的に、和辻は楽観的にすぎると言う見方も出て来るのかもしれない。ただ、もう少し砕いて言うと、「陳述」の際に、われわれはもっと「陳述」そのものを信じていいのだ。私は和辻の哲学をそんなふうに、この日本社会に生きる者への励ましとして読むことを薦めたい。
 さらに和辻の言ったことを思い出して考えてみよう。われわれ(日本語を母語として用いる者の)の、モノの述べ方(認識のありかた)には、「がある」と「である」がある、と和辻は言っていた。大きく言うと、短歌作品においても、
 S(主題となっているもの)がある。
という歌と
 Sは、P(述語的要素)である。
という歌との区別が可能であるように私は思う。この作者には「がある」の作品が多いな、とか、この作者は「である」ばかり言っているな、というように当たりをつけることから始まって、自分自身の作品の自己批評に、この考え方が応用できはしないかと私は思うのである。一つのS(歌にしたいもの)を、「それがありましたよ」と言う歌と、一つのSを、「そのSを私はこういうものとしてとらえますよ」と言うこととは、感情的存在である人間にとって、同時的で切り離せないものなのだが、これを文として言いあらわす場合には、この二つの間には、大きな構造的な違いがある。そうして、日本語の大きな特徴は、もちろんイットを用いることなく、「Sがある」と言い得るところにあるのであって、たとえば日本語の文芸の世界における最大の「S」は、季語であろう。これに歌枕なども加えてみてもいいかもしれないが、それはさておき、或る季題「S」を「言分け」「事分け」るのが、有季俳句である。そこで「SはPである」と「ヒネる」ことになる。何よりもまず、季節の王様とお姫様Sが、先立って大切なものなのであって、それに凡百の人間が何かを付け加えるのは、恐れ多いことだ。僭越なはからいごとだ。だから、自分を卑下して「ヒネ」るなどと言ってみせる。その根底には季節への敬意があるのだ。



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