〇飯島耕一の『白紵歌』(はくちょか)という小説を読んだ。2005年7月ミッドナイト・プレス刊。土方歳三好きの人というと、没後しばらく膨大な蔵書の隙間で行方不明になっていた草森森一がいるが、この本をめくっていくと、おしまいの方で飯島もだいぶ土方に心を寄せているのがわかる。当時放映していた大河ドラマの土方や近藤の姿がいただけないとも言っている。日野龍夫の荻生徂徠論に感心していて、このあたりはおもしろいのだろうけれども、私は不勉強のまま放ってある。話題に供せられるのは、其角と江戸漢詩と西鶴。忠臣蔵。柳沢吉保。其角については別に一書もある飯島らしい、自分の打ち込んでいるものに関する話題を詰め込んだやや長めの短編小説なのだが、若い頃の異性との思い出を織り交ぜながら、語られているのは、老年になって慕わしく感ぜられる性的なもの、自分とっての女性的なものへの感謝と慈しみの念である。古稀の年齢の人間が、性的な存在としてある人生の歳月をまるごと肯定して書いた、人生との和解の書とでも言おうか。末尾に突然出て来る問いかけ、「失われた天」という言葉には、詩人の現代の文明全体、それから現代日本の文明社会に対する根源的な批評が見えるのだが、それは酔っ払いの歓談と壮語の間にふわふわと漂うような思念として語られるのである。そこで孔子の言葉として、主人公と同じ酒場にいたアメリカ人の酔客のことばとして語られる字句を引いてみよう。
「孔子は〈治める〉と、(朋友を信じる)という二つの言葉を与えた。(死後の生活)についてはなにも言わなかった。(極端に走ることは誰にもできる。的を外して射るのはやさしい。まんなかに堅く立つことはむずかしい)と言った。(品性を欠いてはその楽器を奏でることはできない)。そしてこう言った。(杏の花は 東から西へと風に揺らぐ
わたしはそれが散らないようにつとめた)。泰山のごとくあれ、きみたちよ。天はすく真近にあると知れ。きみたちの中にあると心を尽くして知れ。」
「杏の花は 東から西へと風に揺らぐ わたしはそれが散らないようにつとめた」‥‥
美しいことばではないか。孔子の言葉としつつ、これは飯島訳の孔子の世界である。つまり飯島耕一の詩である。
〇それで思い出したのだが、私の出身中学の校歌は草野心平の作詞だったのだ。ここでも「天」がキーワードになっている。
日輪は 天にあまねく
見はるかす 丹沢箱根
その上に 堂々の富士
朋がらよ 眉上げよ
あの清さこそ われらが心
あの高さこそ われらが理想
長後 長後 われらが母校
おお かがやく未来
今調べたら、作曲は芥川也寸志である。驚いた。なんと豪華な校歌であったことよ。
ほるぷ出版刊で一冊本の『草野心平』という「日本の詩」のアンソロジーがむかし出ていて、その表紙に草野の描いた白い活火山の絵がみえる。それは太古の噴火する富士の姿ではないかと思うのだが、その噴煙は太い棒のような塊にえがかれており、天空には日輪が高くかかっている。草野の詩をそのまま絵にしたような、大柄で空無の力を秘めた絵である。
〇火山というと、梅原龍三郎の古い美術全集の箱に描かれている絵があるが、あれも私は好きだ。集英社の廉価普及版の「現代日本美術全集」で、いま見たいと思って探したのだが行方不明なので、検索してみたらあった、あった。噴煙がトナカイの角みたいにかいてある。大人の稚気満々という感じもするし、酔っぱらって「泰山を思え」と語る道人のような風格もある。
小林秀雄がその梅原を話題にした文章が『小林秀雄 美と出会う旅』という本に載せられている。新潮社のムックで、これは梅原を扱ったページにはのっていない。画廊主の吉井長三が書いた「最後のセザンヌ」というセザンヌを扱った章にあった。引いてみよう。
「浅間山を描く梅原先生のお供をした時の話をしたことがある。――浅間に向ってイーゼルを立てたが、先生のカンヴァスはいつまでたっても白いままである。空はすっかり晴れわたっている。今日はよく見えますね、と声をかけると、いや、あんまりまだ見えない、といわれる。翌日は曇っていたが、少し描かれた。今日は昨日よりぼんやりと、ぼけていますね、というと、梅原先生は、「いや、今日は実によく見える」――。小林先生は即座に「それが梅原のイデ(Idee)だ」といわれた。「見えるものではなく、見えてくるものを描く。それが梅原さんのイデなんだ。」それは、そのまま小林先生の “絵を見ること“ につながっているように思う。」同書60ページ
時間のない日曜画家からすれば夢のような呑気なエピソードであるが、こういう行きかた、生き方というものが確かに存在したのだ。問題になっているのは、やはり、こころの位相なので、見る、見える、という言葉の使い分けのなかに、幾重にも錯綜し反照し合った洋の東西の芸術観の混淆とその独自な熟成がある。
梅原がはじめてルノアールの許を訪れて絵を見せたら「君はまるでスペイン人のような色を使う」と言って感心されたという(『天衣無縫』)。日本にいるうちから「白樺」などで紹介されている写真版のルノアールの絵のファンになっていた梅原ではあるが、君には色彩の感覚がある、と言ったルノアールは、やはり梅原の資質の根幹にあるものを正しくつかんでいたと言うべきだろう。小林秀雄が梅原のあの赤色、と言った赤。上野の美術館にある北京の天壇を描いた絵にしても、緑とともにあの赤の使い方が、人を芯から揺り動かすようなところがあって、有名な緑色の裸婦にしても、なんであんな絵が描けたのかがよくわからない。あれらの絵は、単なる意匠というようなものによってできたものではないと思う。
〇夏目漱石の『それから』に父親が床の間に掛けている軸に「誠は天の道なり」という言葉が書いてあって、主人公の代助はその言葉を嫌悪して毒づくのだけれども、江戸時代の思想を簡潔に一行で要約するとしたら、この言葉になるのではないだろうか。私は若い頃は作者の漱石と代助とをつい重ねて見てしまいがちであったが、漱石自身はこの言葉に単なる反発以上の思いを持っていたはずで、父祖のそういう思想に反発を抱く代助を十分な痛みを持ちつつ破滅させるように描く漱石には、知性の持つ残酷なまでの激しさというものがある。
〇草野心平にもどって、草野の詩において、天と日輪はセットになって存在するものとしてあった。
〇「人、人、人しかないこの現代日本に、果たして〈天〉は回復されるでしょうか。」(飯島耕一『白紵歌』)
〇近世の日本人が受け取った「天」を説いたのは朱子学である。私は『中庸』を読んで、これは一種の洗脳システムだなと思った。「天」を言う以上、宋学を避けて通ることはできないが、宋学には非合理と合理とをつなぐ不思議に詩的なレトリックがある。哲学思想と言うよりも詩的なファンタジーの側面があるようだ。
※ このあとの一段落分の文章を削除しました。 3月12日。
「孔子は〈治める〉と、(朋友を信じる)という二つの言葉を与えた。(死後の生活)についてはなにも言わなかった。(極端に走ることは誰にもできる。的を外して射るのはやさしい。まんなかに堅く立つことはむずかしい)と言った。(品性を欠いてはその楽器を奏でることはできない)。そしてこう言った。(杏の花は 東から西へと風に揺らぐ
わたしはそれが散らないようにつとめた)。泰山のごとくあれ、きみたちよ。天はすく真近にあると知れ。きみたちの中にあると心を尽くして知れ。」
「杏の花は 東から西へと風に揺らぐ わたしはそれが散らないようにつとめた」‥‥
美しいことばではないか。孔子の言葉としつつ、これは飯島訳の孔子の世界である。つまり飯島耕一の詩である。
〇それで思い出したのだが、私の出身中学の校歌は草野心平の作詞だったのだ。ここでも「天」がキーワードになっている。
日輪は 天にあまねく
見はるかす 丹沢箱根
その上に 堂々の富士
朋がらよ 眉上げよ
あの清さこそ われらが心
あの高さこそ われらが理想
長後 長後 われらが母校
おお かがやく未来
今調べたら、作曲は芥川也寸志である。驚いた。なんと豪華な校歌であったことよ。
ほるぷ出版刊で一冊本の『草野心平』という「日本の詩」のアンソロジーがむかし出ていて、その表紙に草野の描いた白い活火山の絵がみえる。それは太古の噴火する富士の姿ではないかと思うのだが、その噴煙は太い棒のような塊にえがかれており、天空には日輪が高くかかっている。草野の詩をそのまま絵にしたような、大柄で空無の力を秘めた絵である。
〇火山というと、梅原龍三郎の古い美術全集の箱に描かれている絵があるが、あれも私は好きだ。集英社の廉価普及版の「現代日本美術全集」で、いま見たいと思って探したのだが行方不明なので、検索してみたらあった、あった。噴煙がトナカイの角みたいにかいてある。大人の稚気満々という感じもするし、酔っぱらって「泰山を思え」と語る道人のような風格もある。
小林秀雄がその梅原を話題にした文章が『小林秀雄 美と出会う旅』という本に載せられている。新潮社のムックで、これは梅原を扱ったページにはのっていない。画廊主の吉井長三が書いた「最後のセザンヌ」というセザンヌを扱った章にあった。引いてみよう。
「浅間山を描く梅原先生のお供をした時の話をしたことがある。――浅間に向ってイーゼルを立てたが、先生のカンヴァスはいつまでたっても白いままである。空はすっかり晴れわたっている。今日はよく見えますね、と声をかけると、いや、あんまりまだ見えない、といわれる。翌日は曇っていたが、少し描かれた。今日は昨日よりぼんやりと、ぼけていますね、というと、梅原先生は、「いや、今日は実によく見える」――。小林先生は即座に「それが梅原のイデ(Idee)だ」といわれた。「見えるものではなく、見えてくるものを描く。それが梅原さんのイデなんだ。」それは、そのまま小林先生の “絵を見ること“ につながっているように思う。」同書60ページ
時間のない日曜画家からすれば夢のような呑気なエピソードであるが、こういう行きかた、生き方というものが確かに存在したのだ。問題になっているのは、やはり、こころの位相なので、見る、見える、という言葉の使い分けのなかに、幾重にも錯綜し反照し合った洋の東西の芸術観の混淆とその独自な熟成がある。
梅原がはじめてルノアールの許を訪れて絵を見せたら「君はまるでスペイン人のような色を使う」と言って感心されたという(『天衣無縫』)。日本にいるうちから「白樺」などで紹介されている写真版のルノアールの絵のファンになっていた梅原ではあるが、君には色彩の感覚がある、と言ったルノアールは、やはり梅原の資質の根幹にあるものを正しくつかんでいたと言うべきだろう。小林秀雄が梅原のあの赤色、と言った赤。上野の美術館にある北京の天壇を描いた絵にしても、緑とともにあの赤の使い方が、人を芯から揺り動かすようなところがあって、有名な緑色の裸婦にしても、なんであんな絵が描けたのかがよくわからない。あれらの絵は、単なる意匠というようなものによってできたものではないと思う。
〇夏目漱石の『それから』に父親が床の間に掛けている軸に「誠は天の道なり」という言葉が書いてあって、主人公の代助はその言葉を嫌悪して毒づくのだけれども、江戸時代の思想を簡潔に一行で要約するとしたら、この言葉になるのではないだろうか。私は若い頃は作者の漱石と代助とをつい重ねて見てしまいがちであったが、漱石自身はこの言葉に単なる反発以上の思いを持っていたはずで、父祖のそういう思想に反発を抱く代助を十分な痛みを持ちつつ破滅させるように描く漱石には、知性の持つ残酷なまでの激しさというものがある。
〇草野心平にもどって、草野の詩において、天と日輪はセットになって存在するものとしてあった。
〇「人、人、人しかないこの現代日本に、果たして〈天〉は回復されるでしょうか。」(飯島耕一『白紵歌』)
〇近世の日本人が受け取った「天」を説いたのは朱子学である。私は『中庸』を読んで、これは一種の洗脳システムだなと思った。「天」を言う以上、宋学を避けて通ることはできないが、宋学には非合理と合理とをつなぐ不思議に詩的なレトリックがある。哲学思想と言うよりも詩的なファンタジーの側面があるようだ。
※ このあとの一段落分の文章を削除しました。 3月12日。
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