司修の『描けなかった風景』を見ていたら、次のような文言があった。絵の良し悪しについて、
「絵は一眼で全部を把握できるが、好き嫌いが一段階、良い悪いは何段階になるか。本当に決定的なものになるには最低一冊の本を読む位の時間が必要なのだと言いたかったが、…」
というのだ。
さて、今日は奥村晃作さんの新歌集『八十一の春』をめくる。
いつもの調子のもののなかに、突き抜けた歌がみえる。
人体は水の袋であるけれど健康体は水漏れしない
秋の田の刈穂の土にこぼれしを雀ら食べるチュンチュンと鳴きて
もろともにあはれと思え老い妻よわれ八十一きみ七十七
単純に、読んでおもしろいし、常識をこえているところがあると思う。「ただごと歌」には、どうしてこんなつまらないものを活字にするか、と思われるようなものもたくさんあるのだが、そこは長年押し切ってやり通して来た強さと自信が作者には備わっているのだ。
鉄板の上にちいさな山をなす母九十七の白骨見守る
※「見守る」に「まも(る)」と振り仮名。
これは簡単に作れるかというと、そう簡単に作れるものではない。似たような作品はすでに存在するかもしれない。けれども、やはり奥村晃作ならではの、死や悲しみ自体をまるごと「ただこと」としてつかみ、叙述しようとする愚直な意志のようなもの、苔の一念が凝って自動化した果てに出て来たニヒルの超克というような様相がここにはある。おそれいりました、というところなのだ。
一万歩越すや画面にヒト現われバンザイ、バンザイする万歩計
二百台以上の自転車現れし井の頭池の水抜き〈かいぼり〉
「カル君」が居ないと見たに池を出て公園の地面歩いてた
一首目のとなりに、御苑の鳥の数を数えながら歩いていたら一万歩になったという歌があるのだが、散文にしたらそれまで。おもしろくもなんともない報告だ。それが、なぜ「歌」なのか。…歌だからである。と言われれば、そうだなあ、と肯うしかない。われわれの健全な知性というものは、狂いのない日常感覚によって支えられている。その日常感覚をかっこに入れてそのまま提示してみると、ズレが生まれる。それをズレとして感受するかしないかのところに、「たたごと歌」の成立する余地がある。
「絵は一眼で全部を把握できるが、好き嫌いが一段階、良い悪いは何段階になるか。本当に決定的なものになるには最低一冊の本を読む位の時間が必要なのだと言いたかったが、…」
というのだ。
さて、今日は奥村晃作さんの新歌集『八十一の春』をめくる。
いつもの調子のもののなかに、突き抜けた歌がみえる。
人体は水の袋であるけれど健康体は水漏れしない
秋の田の刈穂の土にこぼれしを雀ら食べるチュンチュンと鳴きて
もろともにあはれと思え老い妻よわれ八十一きみ七十七
単純に、読んでおもしろいし、常識をこえているところがあると思う。「ただごと歌」には、どうしてこんなつまらないものを活字にするか、と思われるようなものもたくさんあるのだが、そこは長年押し切ってやり通して来た強さと自信が作者には備わっているのだ。
鉄板の上にちいさな山をなす母九十七の白骨見守る
※「見守る」に「まも(る)」と振り仮名。
これは簡単に作れるかというと、そう簡単に作れるものではない。似たような作品はすでに存在するかもしれない。けれども、やはり奥村晃作ならではの、死や悲しみ自体をまるごと「ただこと」としてつかみ、叙述しようとする愚直な意志のようなもの、苔の一念が凝って自動化した果てに出て来たニヒルの超克というような様相がここにはある。おそれいりました、というところなのだ。
一万歩越すや画面にヒト現われバンザイ、バンザイする万歩計
二百台以上の自転車現れし井の頭池の水抜き〈かいぼり〉
「カル君」が居ないと見たに池を出て公園の地面歩いてた
一首目のとなりに、御苑の鳥の数を数えながら歩いていたら一万歩になったという歌があるのだが、散文にしたらそれまで。おもしろくもなんともない報告だ。それが、なぜ「歌」なのか。…歌だからである。と言われれば、そうだなあ、と肯うしかない。われわれの健全な知性というものは、狂いのない日常感覚によって支えられている。その日常感覚をかっこに入れてそのまま提示してみると、ズレが生まれる。それをズレとして感受するかしないかのところに、「たたごと歌」の成立する余地がある。
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