須田覚歌集『西ベンガルの月』2020年、書肆侃侃房刊 をめくる。インドに赴任して駐在員として働いている人の歌集である。
・合掌をすればかならず合掌すインドの民は僕を受けいれて
・笑顔には笑顔で返す歯を見せて言葉通じぬ作業員には
・罪のない技術者のまま死にたいと鉄を相手に過ごす一日
・「なぜここで生きているのか」目が覚めて生産遅延の対策を練る
・「我々にインド文化は変えられぬ。でも変えようよ工場5S」
※ 傍注に「5S」は「整理、整頓、清掃、清潔、躾」の頭文字で、工場改善活動の基礎とある。
同じ一連から引いた。ここには、異民族の中に入って懸命に生きる日本人技術者の友愛の感覚がうたわれている。貧富の格差が激しいインド社会ではあるけれど、この国に入ると絶対的な平等感覚が求められるところがあるのではないかと思う。その一方で、工場の現場では、一般の労働者と経営側の職制としての立場とは厳然として異なる。そういう同僚の姿も、それに連なる自分の姿も見えている。だから、三首めのような歌も作られる。
次に街を行く歌を引く。
・コインひとつ缶に落とせば騒ぎだす物乞いたちが集まってきた
・背は曲がり前足は伸び四つ足で歩く人間 近づいてくる
・手を叩き痩せたヒジュラが寄ってくるトールゲートがまた渋滞で
旅行でインドに来ているわけではないから、「しまった」とか、「またか」とか、日常のトラブルのひとつとしてインドの習俗が感じられる瞬間はあるだろう。けれども、ここに流れているのは、困った出来事を微苦笑しつつ受け止めている作者の姿である。それはインドに来て学んだ平等感覚から発するものである。そういうインドの文化への敬意と愛着のようなものが、次のようなスケッチにも滲んでいる。
・忙しくCAたちが行き来する残り香だけが僕の救いで
インドの国内線の飛行機の乗務員は、日本の航空会社のように完璧に装われれていない。とにかく皮膚感覚がまるでちがう。ここには表面的にだけでも好ましいCAなどというものは、存在しない。「残り香だけが僕の救いで」というのは、孤独なユーモアである。
ウクライナでの戦争のために、それ以前に出たこの歌集の中の戦争についての歌に目が行く。
・戦争に勝ち続けてる国のこと敬うように英語を話す
インドは国境線をめぐって一年中隣国と小競り合いをしている国である。
ここで英語を話しているのは、どこの国の人なのか。わからないが、英語を話すことに誇らしい気持を抱いている人物らしいことは、わかる。しかも、その人物は、自分が所属している国は「戦争に勝ち続けてる」と思っているらしい。アメリカはベトナムで負けているし、先のアフガニスタン撤退だって負けと言えばそう言えるかもしれない。イギリスは世界中で勝ったり負けたりする歴史を経つつやって来た国だ。しかし、括弧付きで「勝ち続けてる」「英語」の国と言えば、やはりアメリカ以外には思い当たらないような気もする。そういう「英語」に威力を感じる感性に対する違和感をもとにして一首が組み立てられているということは、わかる。そういう人の話す「英語」の調子に反応している作者がここには居る。しかしこれがインド人だとしたら、私にはよくわからない。おもしろいけれども、もう少し背景がわかる歌が両脇に置いてある方が良かったかもしれない。
・白地図に仮で描いた国境を挟んで人は殺し続ける
これは、よくわかる歌だ。この歌集についての話はここまでとする。
話はかわるが、たかが英語とは言いながら、東京都のスピーキング・テストをめぐる経緯を見ていると、うんざりした気持ちになる。そのうちスマホなどのアプリで会話ができるようになるはずだというのに、英語で話すことを入試の中で重視して、受験生に無用な負担を強いている。英語は道具なのだから、流暢に話すことを求められる専門家と、それ以外の専門分野に注力しなければならない人たちとを区別するべきである。すべての中学生に一定以上の英語の「スピーキング」の能力を求める必要など、ありはしない。これまでの記述式テストだけで十分に英語の能力は判定できていたのに、業者に利益誘導をするためとしか思えないスピーキングテストをどうして導入する必要があるのか。会話に時間を割くおかけで長文読解と文法の勉強のための時間が減ってしまって、かえって難しい英文を読む能力は下がっていくのではないだろうか。さらに、中学校の段階に加えて、小学校の段階でも問題が生じている。母語の獲得は十五歳までである。母語としての日本語が確かなものになる以前の小学生の段階から英語のスピーキングを教えてどうなるものでもない。それなのに低学年から英語の学習を必修とするという愚策を大々的に推し進めている。基本となる日本語の勉強の時間を減らしてしまえば、その結果は、総合的な学力と思考力の低下につながるであろう。英語をめぐる日本の教育行政は根本的に舵取りを誤っているし、亡国的な政策である。
・合掌をすればかならず合掌すインドの民は僕を受けいれて
・笑顔には笑顔で返す歯を見せて言葉通じぬ作業員には
・罪のない技術者のまま死にたいと鉄を相手に過ごす一日
・「なぜここで生きているのか」目が覚めて生産遅延の対策を練る
・「我々にインド文化は変えられぬ。でも変えようよ工場5S」
※ 傍注に「5S」は「整理、整頓、清掃、清潔、躾」の頭文字で、工場改善活動の基礎とある。
同じ一連から引いた。ここには、異民族の中に入って懸命に生きる日本人技術者の友愛の感覚がうたわれている。貧富の格差が激しいインド社会ではあるけれど、この国に入ると絶対的な平等感覚が求められるところがあるのではないかと思う。その一方で、工場の現場では、一般の労働者と経営側の職制としての立場とは厳然として異なる。そういう同僚の姿も、それに連なる自分の姿も見えている。だから、三首めのような歌も作られる。
次に街を行く歌を引く。
・コインひとつ缶に落とせば騒ぎだす物乞いたちが集まってきた
・背は曲がり前足は伸び四つ足で歩く人間 近づいてくる
・手を叩き痩せたヒジュラが寄ってくるトールゲートがまた渋滞で
旅行でインドに来ているわけではないから、「しまった」とか、「またか」とか、日常のトラブルのひとつとしてインドの習俗が感じられる瞬間はあるだろう。けれども、ここに流れているのは、困った出来事を微苦笑しつつ受け止めている作者の姿である。それはインドに来て学んだ平等感覚から発するものである。そういうインドの文化への敬意と愛着のようなものが、次のようなスケッチにも滲んでいる。
・忙しくCAたちが行き来する残り香だけが僕の救いで
インドの国内線の飛行機の乗務員は、日本の航空会社のように完璧に装われれていない。とにかく皮膚感覚がまるでちがう。ここには表面的にだけでも好ましいCAなどというものは、存在しない。「残り香だけが僕の救いで」というのは、孤独なユーモアである。
ウクライナでの戦争のために、それ以前に出たこの歌集の中の戦争についての歌に目が行く。
・戦争に勝ち続けてる国のこと敬うように英語を話す
インドは国境線をめぐって一年中隣国と小競り合いをしている国である。
ここで英語を話しているのは、どこの国の人なのか。わからないが、英語を話すことに誇らしい気持を抱いている人物らしいことは、わかる。しかも、その人物は、自分が所属している国は「戦争に勝ち続けてる」と思っているらしい。アメリカはベトナムで負けているし、先のアフガニスタン撤退だって負けと言えばそう言えるかもしれない。イギリスは世界中で勝ったり負けたりする歴史を経つつやって来た国だ。しかし、括弧付きで「勝ち続けてる」「英語」の国と言えば、やはりアメリカ以外には思い当たらないような気もする。そういう「英語」に威力を感じる感性に対する違和感をもとにして一首が組み立てられているということは、わかる。そういう人の話す「英語」の調子に反応している作者がここには居る。しかしこれがインド人だとしたら、私にはよくわからない。おもしろいけれども、もう少し背景がわかる歌が両脇に置いてある方が良かったかもしれない。
・白地図に仮で描いた国境を挟んで人は殺し続ける
これは、よくわかる歌だ。この歌集についての話はここまでとする。
話はかわるが、たかが英語とは言いながら、東京都のスピーキング・テストをめぐる経緯を見ていると、うんざりした気持ちになる。そのうちスマホなどのアプリで会話ができるようになるはずだというのに、英語で話すことを入試の中で重視して、受験生に無用な負担を強いている。英語は道具なのだから、流暢に話すことを求められる専門家と、それ以外の専門分野に注力しなければならない人たちとを区別するべきである。すべての中学生に一定以上の英語の「スピーキング」の能力を求める必要など、ありはしない。これまでの記述式テストだけで十分に英語の能力は判定できていたのに、業者に利益誘導をするためとしか思えないスピーキングテストをどうして導入する必要があるのか。会話に時間を割くおかけで長文読解と文法の勉強のための時間が減ってしまって、かえって難しい英文を読む能力は下がっていくのではないだろうか。さらに、中学校の段階に加えて、小学校の段階でも問題が生じている。母語の獲得は十五歳までである。母語としての日本語が確かなものになる以前の小学生の段階から英語のスピーキングを教えてどうなるものでもない。それなのに低学年から英語の学習を必修とするという愚策を大々的に推し進めている。基本となる日本語の勉強の時間を減らしてしまえば、その結果は、総合的な学力と思考力の低下につながるであろう。英語をめぐる日本の教育行政は根本的に舵取りを誤っているし、亡国的な政策である。
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