百々登美子の歌集『天牛』を取り出す。一九八九年砂子屋書房刊。知る人ぞ知るすぐれた歌人であるが、もう少し読者が増えてほしいような気がする。私の若い友人たちはあまり読んだことがないだろう。やはり季節の歌を引いてみたい。
いづ方も堪へてあるべし暮るる日の誘ひに見し三分の桜
三分咲きの桜は、まだ寒さをこらえて咲いているようなところがある。いづ方も、はどの桜の木も、というような意味だが、用事で訪れていた場所の近くに有名な庭があったのかもしれない。夕暮れ時の桜の花である。まだ早いけれども、と言って見るように誘われた。
汚れより身を引き離すごとくして立春の階の高みへのぼる
小高い公園や寺院の奥の院を目指して階段を上っていくのだろう。俗塵から身を「引き離す」かのように。すがすがしい春の気分と、潔い、清新なものを好むらしい作者の心が伝わる歌だ。
水泥より翔ちし小鷺の白をもて身の慄へとす浅春の夕ぐれ
「浅春」に「はる」と振り仮名。水泥は、最初スイデイと読んでいたが、全体に固い印象になってしまうので、「みどろ」と読むことを思いついた。小鷺の歌を私は作ったことがないが、四句目の「身の慄へとす」という言葉の斡旋は、凡庸でない。いわゆる身体感覚に引き付けているのだろうが、そうすると「小鷺の/白をもて」の「白をもて」が、それだけではない含みを持っているようだ。この白さは、感動にふるえる、はっとおどろく、というような気分を呼び起こしつつ、一首前に引いた「汚れより身を引き離す」心意にかかわる。初句に戻って、水泥は塵労の現実世界である。汚泥ということばもある。中世和歌に通じていた安田章生がほめそうな歌だ。
全体に求心的かつ観念的な歌風で、後記に斎藤史や原田禹雄への感謝の言葉がみえる。
いづ方も堪へてあるべし暮るる日の誘ひに見し三分の桜
三分咲きの桜は、まだ寒さをこらえて咲いているようなところがある。いづ方も、はどの桜の木も、というような意味だが、用事で訪れていた場所の近くに有名な庭があったのかもしれない。夕暮れ時の桜の花である。まだ早いけれども、と言って見るように誘われた。
汚れより身を引き離すごとくして立春の階の高みへのぼる
小高い公園や寺院の奥の院を目指して階段を上っていくのだろう。俗塵から身を「引き離す」かのように。すがすがしい春の気分と、潔い、清新なものを好むらしい作者の心が伝わる歌だ。
水泥より翔ちし小鷺の白をもて身の慄へとす浅春の夕ぐれ
「浅春」に「はる」と振り仮名。水泥は、最初スイデイと読んでいたが、全体に固い印象になってしまうので、「みどろ」と読むことを思いついた。小鷺の歌を私は作ったことがないが、四句目の「身の慄へとす」という言葉の斡旋は、凡庸でない。いわゆる身体感覚に引き付けているのだろうが、そうすると「小鷺の/白をもて」の「白をもて」が、それだけではない含みを持っているようだ。この白さは、感動にふるえる、はっとおどろく、というような気分を呼び起こしつつ、一首前に引いた「汚れより身を引き離す」心意にかかわる。初句に戻って、水泥は塵労の現実世界である。汚泥ということばもある。中世和歌に通じていた安田章生がほめそうな歌だ。
全体に求心的かつ観念的な歌風で、後記に斎藤史や原田禹雄への感謝の言葉がみえる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます