何気なく頭の後に置いてある本を手に取ってみると、かーんと冷えた冬の夜気にふさわしい緊張感が、作品には漂っているように思われて、よし明日の朝はこれについて書こうと決めた。
『前川佐重郎歌集』には、1997年刊の第一歌集『彗星紀』全篇と、2002年刊の『天球論』の抄録が収められている。
冬雨の夜にながるる内ふかく群がるまなこ洗はれてゆく
「無言」と題した歌集巻頭の一連十一首の冒頭から。一首目。雨が「ながるる」というのは、地面や屋根の上をたくさん降った雨が伝い流れるイメージだ。「内ふかく群がるまなこ」というのは、何だろうか。これをそのまま他人のまなざしと言ってもいいし、自意識の分裂したもの、自己批評の刃のようなもの、と捉えてもいいだろう。眼は複数あるのだ。しかし、やはりここは他者、たとえば、昼のうち大勢の人と交わって今一人になって内観しているのだと読む。
私はまるで魂のみそぎをするかのように、流れる冬の雨の音を聞いている。今たまたま「みそぎ」という言葉を使ったが、ほとんど無意識のうちに、日本人の感性の祖型のようなもの、原型的なものが、一首めからせり出していることに驚く。おそらく作者自身そんなことを考えもしなかっただろう。そうして、「冬雨の夜にながるる内ふかく」と言う時に、二句目の「夜にながるる」がそこで切れずに、「ながるる」という言葉が、「内」にも掛かって「ながるる内」というように読めるところが和歌的であり、同時にそれが冬雨の景色を一気に〈冬雨のながるる内面=内部〉という暗喩に転換させていることに気付かせられる。続く二首目。
わが内に吹き込みやがて立ち去れる風に置かれし眼差ひとつ
「風に置かれし眼差ひとつ」というのは、「群がるまなこ」のうちのひとつが、わたくしを問い質し、または責め、追及してやまなかった、ということだろう。三首目。
竪穴のしづけきやみに堕ちゆくは一本の髪 こころ騒ぎぬ
ここで急に「竪穴」が出て来るあたり、どうしても作者の父親の佐美雄の歌に出てくる押入のことなどを連想してしまう。場所的なものへの感じ方が似ているのかもしれない。この竪穴は井戸だろうか。水を汲もうとして、髪の毛を一本落としてしまったというのだ。それは、汚してはならないものをよごしてしまった罪の感覚だろう。これも、清浄さをもとめる点において、潔癖な作者の感性のかたちをあらわに見せている歌である。四首目。
はじまりはシャツより白く羞みて山茶花の冬かさなりて落つ
※「羞」に「はにか」と振り仮名。
この歌も、自然の景色を内面の喩へと変換する手法が用いられている。たぶんそれは、日常から詩に向うために必然的に要請されているので、「はじまり」は何のはじまりなのか、手がかりはない。もしかしたら、山茶花の咲き始めなのかもしれない。最初の一輪は、どの木の花も恥じらっているようにみえる。でも、その八重の花弁は、咲いたと見る間に散ってしまったのだ。この一首はやや無理があると言うか、強引なところがあるので、それはどうしても一連の難解な印象につながっている。
ひたひたとあゆみのごとき冬の雨僧侶と盗賊ゆきかふみれば
この歌も難解なようだが、案外「あゆみのごとき」にヒントがあるのかもしれない。つまり、雨音が「僧侶と盗賊」が行き交う足音のように聞こえる、そのように聞きなしていると読むのである。しかし、これは、「ゆきかふ(と)みれば」と「と」を補った解釈なので、やはりここは「僧侶」や「盗賊」に見立てられるような実社会の現実の人々を想定して読むといいのだろう。「僧侶」は林達夫のような知識人かもしれないし、吉岡実の詩に出てくるような破戒坊主かもしれない。「盗賊」にあたる人々は、合法的なのも非合法的なのも含めいろいろとイメージできる。この時の作者は日本放送協会の職員である。もうひとつの解釈の線は、単純に上の句が、連想的に下句を呼び出したとみるものである。しかし、それはないだろう。
角砂糖崩るる速さながめつつわれ澄みて聴くものの跫音
「ものの跫音」は、やはり世情の物音と解釈してよいだろう。と言うより前の歌からの連想で、そういう想念の所に落着いたということだろう。「われ澄みて聴く」は歌僧西行以来の感じ方で、「澄む」ということは、ひとつの文化的な価値であるとともに、ひとりの時を黙想する作者の求めるものであるのだ。
『前川佐重郎歌集』には、1997年刊の第一歌集『彗星紀』全篇と、2002年刊の『天球論』の抄録が収められている。
冬雨の夜にながるる内ふかく群がるまなこ洗はれてゆく
「無言」と題した歌集巻頭の一連十一首の冒頭から。一首目。雨が「ながるる」というのは、地面や屋根の上をたくさん降った雨が伝い流れるイメージだ。「内ふかく群がるまなこ」というのは、何だろうか。これをそのまま他人のまなざしと言ってもいいし、自意識の分裂したもの、自己批評の刃のようなもの、と捉えてもいいだろう。眼は複数あるのだ。しかし、やはりここは他者、たとえば、昼のうち大勢の人と交わって今一人になって内観しているのだと読む。
私はまるで魂のみそぎをするかのように、流れる冬の雨の音を聞いている。今たまたま「みそぎ」という言葉を使ったが、ほとんど無意識のうちに、日本人の感性の祖型のようなもの、原型的なものが、一首めからせり出していることに驚く。おそらく作者自身そんなことを考えもしなかっただろう。そうして、「冬雨の夜にながるる内ふかく」と言う時に、二句目の「夜にながるる」がそこで切れずに、「ながるる」という言葉が、「内」にも掛かって「ながるる内」というように読めるところが和歌的であり、同時にそれが冬雨の景色を一気に〈冬雨のながるる内面=内部〉という暗喩に転換させていることに気付かせられる。続く二首目。
わが内に吹き込みやがて立ち去れる風に置かれし眼差ひとつ
「風に置かれし眼差ひとつ」というのは、「群がるまなこ」のうちのひとつが、わたくしを問い質し、または責め、追及してやまなかった、ということだろう。三首目。
竪穴のしづけきやみに堕ちゆくは一本の髪 こころ騒ぎぬ
ここで急に「竪穴」が出て来るあたり、どうしても作者の父親の佐美雄の歌に出てくる押入のことなどを連想してしまう。場所的なものへの感じ方が似ているのかもしれない。この竪穴は井戸だろうか。水を汲もうとして、髪の毛を一本落としてしまったというのだ。それは、汚してはならないものをよごしてしまった罪の感覚だろう。これも、清浄さをもとめる点において、潔癖な作者の感性のかたちをあらわに見せている歌である。四首目。
はじまりはシャツより白く羞みて山茶花の冬かさなりて落つ
※「羞」に「はにか」と振り仮名。
この歌も、自然の景色を内面の喩へと変換する手法が用いられている。たぶんそれは、日常から詩に向うために必然的に要請されているので、「はじまり」は何のはじまりなのか、手がかりはない。もしかしたら、山茶花の咲き始めなのかもしれない。最初の一輪は、どの木の花も恥じらっているようにみえる。でも、その八重の花弁は、咲いたと見る間に散ってしまったのだ。この一首はやや無理があると言うか、強引なところがあるので、それはどうしても一連の難解な印象につながっている。
ひたひたとあゆみのごとき冬の雨僧侶と盗賊ゆきかふみれば
この歌も難解なようだが、案外「あゆみのごとき」にヒントがあるのかもしれない。つまり、雨音が「僧侶と盗賊」が行き交う足音のように聞こえる、そのように聞きなしていると読むのである。しかし、これは、「ゆきかふ(と)みれば」と「と」を補った解釈なので、やはりここは「僧侶」や「盗賊」に見立てられるような実社会の現実の人々を想定して読むといいのだろう。「僧侶」は林達夫のような知識人かもしれないし、吉岡実の詩に出てくるような破戒坊主かもしれない。「盗賊」にあたる人々は、合法的なのも非合法的なのも含めいろいろとイメージできる。この時の作者は日本放送協会の職員である。もうひとつの解釈の線は、単純に上の句が、連想的に下句を呼び出したとみるものである。しかし、それはないだろう。
角砂糖崩るる速さながめつつわれ澄みて聴くものの跫音
「ものの跫音」は、やはり世情の物音と解釈してよいだろう。と言うより前の歌からの連想で、そういう想念の所に落着いたということだろう。「われ澄みて聴く」は歌僧西行以来の感じ方で、「澄む」ということは、ひとつの文化的な価値であるとともに、ひとりの時を黙想する作者の求めるものであるのだ。
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