札幌は曇り空です。時折、霙も降る天候です。昨日までの風雨で積雪はだいぶ減りました。住宅街の生活道路もかなり広くなりました。我が家の庭も土が見えるようになってきました。庭木は雪の重みでずたずたに折れています。雪囲いをしても竹の強度では守ることができませんでした。
11年3月11日から2年がたち、3年目に入りました。山口教授が述べるように、つらい経験、記憶を忘れたいと考える感情は普通かもしれません。しかし、巨大地震は別の地域で必ず、近い将来起きると予測され、歴史的には繰り返し、日本における巨大災害は定期的に発生をしてきました。地震を防ぐことは不可能であり、予知することは難しいことですが、地震災害を最小化する努力は可能です。そのためにも、災害による人災、原子力災害は防止することが日本社会にとっては不可欠のことと思います。
福島第一事故の原因調査は国会、政府、東京電力、民間と4つの組織によって行われました。しかし、その調査をまともに議論し、調査で解明されたこと、解明できなかった点、追加調査などは行われていません。また、この調査によって、原子力行政が抜本的に見直されてもいません。民主党野田政権が「事故収束宣言」を出したことで、関西電力の再稼動に突き進みました。そして、福島第一原発では冷却停止事故が繰り返しおき、冷却水の貯蔵における事故は繰り返し、発生しています。そのたびに、海洋の汚染、地下水の汚染が発生していますが、政権、他の電力会社、マスコミ、原子力村科学者は黙して語らずを決め込んでいます。なぜでしょうか?
教授がいうように暗く、忌まわしい記憶は忘れたい、考えたくない。早くその現実から逃れたい。だから、話題にしたくない。
現在、中国、韓国などと戦争責任、戦争の歴史認識をめぐって、争っている外交関係と同じ構図が浮かんできます。いやなことを「あいまい」にして放置する。そのために、何年たっても歴史上の事実が決着できずに、曖昧模糊として解釈によっては白と黒くらいの評価の違いが発生する状況が現実政治の中で存続し続ける。そのことがアジア、日本にとって前向きに問題処理、関係を作ることになればよいのですが。そのようなことは国際的にも、歴史的にもありえないことは誰もが認識できることです。しかし、あいまいにしている。
福島第一原発事故の調査に基づく、刑事責任を追及すること。また、東京電力の自己責任を徹底して追及すること。東京電力に事故の賠償責任を負わせること。それらを政治が監視すること。そのためには、私たち国民が震災、事故に関する記憶、その原因追跡、判明した事実を現実の政治経済、地域社会、自治体行政に反映させることが求められているのだと思います。
<山口 二郎教授の考察>
今月(3月)11日の前後には震災や原発事故に関する様々な報道があふれていた。しかし、しだいに多くの日本人は災害や原発事故という暗い記憶を消し去りたいと願っているように思える。アベノミクスへの熱狂や、安倍政権への支持率の上昇は、そうした心性の現れであろう。
安倍政権は、原発の再稼働を明言している。それに対する世論の反発はあまり強いものではない。除染作業をめぐる不正や東京電力が虚言を弄して国会事故調査委員会の現地調査を妨害したことなどが明らかになっても、世論は沸騰しない。
何より不思議なのは、原発事故の全体像を解明する作業が2年たった今でも中途半端で放置されていることである。塩谷喜雄『「原発事故報告書」の真実とウソ』(文春新書)は、各種の報告書を精査し、問題点を洗い出した労作である。この本が指摘するように、原子炉冷却システムが、地震で壊されたのか、東電などが主張するように想定外の津波で壊されたのかという、もっとも基本的な因果関係さえ、十分に解明されていない。
つらい経験や悲惨な事故を論じることは、うれしいことではない。しかし、少なくとも報道や学問を職業とする者は、一般人に代わって論じ続けなければならない。真相究明もなしに原発を再稼働することは、人類と歴史に対する犯罪である。