まず、生活できる環境、社会的な整備が必要です。商店があり、公共設備が整う、学校、医療、交通機関などが復旧し、利用できる環境を整える。そのうえで、第二に、就労できる環境を作り出す。これこそ、行政と政府の仕事です。第三に、必要なことは被災地に住みたい、ここで生活したいという環境を整える。その支援が、行政、企業などに求められるのだと思います。この課題は、住みつづける人が感じ、前向きに生きることが必要です。こうやれば可能といえるようなマニュアルはありません。地域の状況を見ながら条件に応じた対応を繰り返し、繰り返し行うことがどうしても必要です。時間も手間も必要ですが地域を再生するうえではどうしても必要です。
<北海道新聞社説>東日本大震災から5年 早く「日常」取り戻したい
3410人。この5年間で息を引き取った震災関連死者の数だ。
長期化する避難生活。それに伴う、先行きが見えない不安や生きがいを失った絶望感。ストレスや疲労で持病が悪化し、亡くなった人が多いという。被災地では高台造成や防潮堤建設が進む。仮設住宅から災害公営住宅への転居も始まった。その一方で、昔ながらの地域社会が壊れ、つながりを失った高齢者の孤独死も目立っている。
政府は2020年度をめどに、岩手、宮城両県の復興を終える方針だ。だが、心の復興に終わりはない。息の長い支援を続けたい。
■居場所つくる試みを
仙台平野の中心部、宮城県岩沼市玉浦地区。木造平屋の古民家風一軒家に、週末は元気な「お母ちゃん」たちの声が飛び交う。
「家を失った人たちが集い、安らぐことのできる居場所づくりを」。東京在住の著名な建築家伊東豊雄さんらが提唱し、多くの個人や企業の寄付で東北各地に建てられた「みんなの家」だ。
玉浦地区は農業が盛んだったが、津波による塩害で、田畑は壊滅的な被害を受けた。
野菜作りが日々の楽しみだった地元のお母ちゃんたちは震災後、家に引きこもるばかり。それを救ったのが3年前に完成した「みんなの家」だった。
今は東京のIT会社インフォコムが管理・運営を一手に引き受け、平日の昼間はカフェ、そして毎週土曜日は野菜直売所などとして使われる。
並ぶのはもちろん、お母ちゃんたちが畑を耕し、育てた野菜だ。
「家にいても独りぼっち。みんなでわいわいおしゃべりできるのは楽しいのよ。ここができてから、畑仕事も始まったし…」。60代の女性はそう声を弾ませた。
復興といえばインフラ整備に目が行きがちである。しかし、それだけでは「復旧」にすぎない。たとえ街並みが元通りになっても、そこに暮らす人の息遣いや結びつきが失われては、真の復興とは呼べまい。玉浦地区の場合、その心のよりどころが「みんなの家」といっていい。
「みんなの家」がコミュニティーの復興なら、宮城県気仙沼市のニット製造・販売「気仙沼ニッティング」は、生きがいづくりの復興とみたい。
気仙沼は東北有数の漁港。昔から漁師が真冬の海上で着込むセーター作りが盛んだった。
それに目を付けたコピーライター糸井重里さんの提案で、東京出身の御手洗瑞子さんが震災の翌年に会社を興した。
仮設でもできる「復興支援」と銘打って4人で始めた。懸命に編み針を動かすことが被災者の心を癒やしてくれるようになり、今では編み手は60人に増えた。
「漁師町のセーター」と報道でも紹介され、全国から注文が相次ぐ。1着15万円。手作りで値は張るものの、品質の高さから、納品まで2年待ちの人気ぶりだ。
「気仙沼にお客が直接買いに来てくれる。お客さんが喜ぶからさらに質が上がる」。御手洗さんの言葉に自信がうかがえる。こうした試みをさらに広げたい。
■「絆」がやはり大事だ
厚生労働省の調査では、いまも宮城県の被災者の4割が心理的苦痛やストレスを感じているという。年々減少傾向にあるが、依然として全国平均より高い。
巨大な防潮堤や高台への住宅移転だけでは、被災者の心の傷を癒やすことはできない。
環境が整っても、生き生きとした人々の営みがよみがえるとは限らない。巨額の復興予算をインフラ整備に充てるのはもちろん、いまこそ被災者の「心の健康」に目を向けたい。
大事なのは人と人とのつながりだろう。使い古された言葉であっても「絆」が大切だ。