8月7日
今日は朝から薄雲が掛かって少しすずしい。
63年前の6日の夜から7日まで・・
原爆の投下された日の夕暮れ、逃げていった町内会では炊き出しが始まった。白いお米に大豆がたくさん入った大きなにぎりめしだった。
一つず貰ったが、食べたい感覚はなく持っていたら、「あっ あんた達はこの町内会ではないね・・悪いけど人数分しかないのでもどして・・」と取り上げられてしまった・ 幸いにも私たち三人はあの衝撃で無感覚だったのか、食べたいとも思わなかった。
暗闇の壕の中は避難してきた人で一杯だった。 みんな膝を抱えて座るだけの場所しかなかった。 外に出て見ると西の空はあかね色に染まっている、遠くから言葉ではない色々な声が寄せては返し、寄せては返し・・まるで暗闇の彼方から、冥界からの声の様に、ずーと夜明けまで続いていた。
夜が明けて壕から這い出した。 あの日も真っ青に晴れ渡った日だった。
なす事もなくブラブラと歩いていたら干からびたようなトマトが成っていた、初めて口にした食べ物だったが・・味もなく・・口にしただけの感覚だった。
それから、翌朝までは記憶に何も残っていない。
今日は朝から薄雲が掛かって少しすずしい。
63年前の6日の夜から7日まで・・
原爆の投下された日の夕暮れ、逃げていった町内会では炊き出しが始まった。白いお米に大豆がたくさん入った大きなにぎりめしだった。
一つず貰ったが、食べたい感覚はなく持っていたら、「あっ あんた達はこの町内会ではないね・・悪いけど人数分しかないのでもどして・・」と取り上げられてしまった・ 幸いにも私たち三人はあの衝撃で無感覚だったのか、食べたいとも思わなかった。
暗闇の壕の中は避難してきた人で一杯だった。 みんな膝を抱えて座るだけの場所しかなかった。 外に出て見ると西の空はあかね色に染まっている、遠くから言葉ではない色々な声が寄せては返し、寄せては返し・・まるで暗闇の彼方から、冥界からの声の様に、ずーと夜明けまで続いていた。
夜が明けて壕から這い出した。 あの日も真っ青に晴れ渡った日だった。
なす事もなくブラブラと歩いていたら干からびたようなトマトが成っていた、初めて口にした食べ物だったが・・味もなく・・口にしただけの感覚だった。
それから、翌朝までは記憶に何も残っていない。
ジョー・オダネル氏は、原爆投下直後の長崎を訪れ、軍命令で、焼け野原になった長崎を撮影していたそうです。
撮影された、写真の中で、オダネル氏がもっとも気になっていた写真は、「焼き場の少年」と題された写真でした。
その写真には、死んだ幼子を背負っている少年が、火葬場の前で直立している姿が写っていました。
少年の表情や姿からは、悲しみに耐えているような強い意志が感じられました。原爆で1番苦しみ悲しんでいるのは子供達だと思いました。
自分は、母国の人々から批判されても、最後まで、自分が見て聞いてきた、原爆の悲惨さを訴えた米国人カメラマン、ジョー・オダネル氏を尊敬します。
レスが遅くなってご免なさい
未熟なものでなかなか登校できませんでした。