4月29日
今日の散歩途中デパートで焼き物展がありのぞいてみた。
昨秋も見に行った記憶がある
作品はどんどん進化・・といっていいのか・・・飾り立てられた、派手やかな焼き物が多くなっていた。
今、比治山の現代美術館では、用の美を唱えた「やなぎ そうり」展がある。
焼き物・・は飾り物より掌に暖かさが感じられるものこそ「用の美」ではないかとおもうのだが。
考えてみると進化とゆうことは昔を置き去りにして進むことなんだろうか?
疑問に思う。 昔からずーっと続いて今なのではないのだろうか。
昔も焼き物の飾り物もあったと思う、 私自身難しいことは判らないけど・・置物ももっと暖かいものだったような気がする。
作家さんの作られた置物は、きらびやかで、キラキラ光っている。
自分を声高に宣伝しているように思った。
部屋の片隅ではなく特等席でないと承知出来ないようだ・・。
今日の散歩途中デパートで焼き物展がありのぞいてみた。
昨秋も見に行った記憶がある
作品はどんどん進化・・といっていいのか・・・飾り立てられた、派手やかな焼き物が多くなっていた。
今、比治山の現代美術館では、用の美を唱えた「やなぎ そうり」展がある。
焼き物・・は飾り物より掌に暖かさが感じられるものこそ「用の美」ではないかとおもうのだが。
考えてみると進化とゆうことは昔を置き去りにして進むことなんだろうか?
疑問に思う。 昔からずーっと続いて今なのではないのだろうか。
昔も焼き物の飾り物もあったと思う、 私自身難しいことは判らないけど・・置物ももっと暖かいものだったような気がする。
作家さんの作られた置物は、きらびやかで、キラキラ光っている。
自分を声高に宣伝しているように思った。
部屋の片隅ではなく特等席でないと承知出来ないようだ・・。
4月27日
昨日のこと日課にしているウオーキング、昼食を済ませて「今日もずぼらで・・」と電車に乗った。
昼下がりだったので乗客はそれ相当の年寄りばかり、あいにく座席は一杯だったのでつり革にぶら下がった。
前に座っているご婦人がもじもじしている。
その方は自分の手元を見たり、立っている私を意識したり・・ 暫くしてやおら立ち上がって、「どうぞ・・」と声を掛けられた。
私は何となく不思議に思って瞬時「エッわたし?・・」とゆう顔をした。 重ねて「どうぞ・・」
私は「有り難う御座います。」と・・座らせて頂いた。
その方は二つ目で下車した私より離れた場所に座って本を見ていらっしゃった。
あの方のモジモジと私のなんで?は何を意味するのかな??
街を歩いている私は何か割り切れないおかしさを抱えて散歩した。
昨日のこと日課にしているウオーキング、昼食を済ませて「今日もずぼらで・・」と電車に乗った。
昼下がりだったので乗客はそれ相当の年寄りばかり、あいにく座席は一杯だったのでつり革にぶら下がった。
前に座っているご婦人がもじもじしている。
その方は自分の手元を見たり、立っている私を意識したり・・ 暫くしてやおら立ち上がって、「どうぞ・・」と声を掛けられた。
私は何となく不思議に思って瞬時「エッわたし?・・」とゆう顔をした。 重ねて「どうぞ・・」
私は「有り難う御座います。」と・・座らせて頂いた。
その方は二つ目で下車した私より離れた場所に座って本を見ていらっしゃった。
あの方のモジモジと私のなんで?は何を意味するのかな??
街を歩いている私は何か割り切れないおかしさを抱えて散歩した。
先日のこと外出先から帰ってパソコンで遊んでいたら原爆のブログにゆきあたった。
長崎の被爆者もマッタク広島と区別無く同じ苦しみを背負っている。
私も63年前の記憶が蘇ってくる。
被爆後の2年間、九州の宮崎県と鹿児島県の県境の鄙びた五十市とゆう所にいた。
そこは戦中日本軍の航空基地あったとかで、終戦すぐ米軍が進駐してきていた。
その小さな町の女性達はアメリカ兵の姿が怖く、まだ平和な気分にはなれなかった。
そんなある日女学生だった私は「ここは危険だから・・」と女学校のある都城に部屋を借りて母と二人で住むことになった。
それでも女の子は素顔は駄目・・と外もあまり出れなかった。
そんな夏の日のある日、この町で唯一のメインストリートをうつむき加減で母に抱えられるようにして歩いていた。
人気のない通りで目ばっかりギョロギョロした大柄な男とヒョロヒョロのひ弱な少年が大きなずだ袋を背負って歩いてくる。 私は怖いもの見たさですれ違うとき、ソーと顔をあげてその二人を見た。 向こうも変な二人ずれをスーとみて、歩を止めることもなく行き過ぎた。
その時私は「あの人、神戸のおじちゃんとMぼんによう似てたね・・」と母に・・私たち二人は振り返ってみた。・・
そのガリガリの亡者みたいな二人も歩を止めて振り返った・・
その瞬間、一瞬の間をおいて、探り合う様な視線が流れ・・四人の叫声が上がった。
飛ぶような仕草で駆け寄った四人は驚きの声と涙で抱き合った。
両方からのわめき声をあげながらひとまず私たちの間借り部屋にかけこんだ、
それからの大人二人の話は本当に神様の仕業としか思えないものだった
叔父の話では、「神戸で戦火に遭い何とか家族全員で近くに建てた掘っ立て小屋で終戦を迎えた。 私たち一族は都会育ちで田舎を持たず、この食糧難では何とかしなければ・・・と偶然下車して歩いていた・・・」と。
お互いの消息は戦時中を境に不明のまま、この瞬間を迎えたのであった。
その時の私たちの喜びはただただ神様に感謝するのみであった。
私は自分が何度も死線を超えて生かされているとゆうことに、不思議な何かを感じた。
生きるべき時は生きるのだ・・・と。自分の運命なんて自分で決めることは出来ないのだと。 そう素直に信じることが出来た。
人はこの世ではすでに決められている道を素直に日々、感謝して生きていけばいい・・死を迎える日もすでに決まっているのだと・・ だから一日一日を大切に充実して過ごそうと・・ 神様に感謝して・・・
合掌
長崎の被爆者もマッタク広島と区別無く同じ苦しみを背負っている。
私も63年前の記憶が蘇ってくる。
被爆後の2年間、九州の宮崎県と鹿児島県の県境の鄙びた五十市とゆう所にいた。
そこは戦中日本軍の航空基地あったとかで、終戦すぐ米軍が進駐してきていた。
その小さな町の女性達はアメリカ兵の姿が怖く、まだ平和な気分にはなれなかった。
そんなある日女学生だった私は「ここは危険だから・・」と女学校のある都城に部屋を借りて母と二人で住むことになった。
それでも女の子は素顔は駄目・・と外もあまり出れなかった。
そんな夏の日のある日、この町で唯一のメインストリートをうつむき加減で母に抱えられるようにして歩いていた。
人気のない通りで目ばっかりギョロギョロした大柄な男とヒョロヒョロのひ弱な少年が大きなずだ袋を背負って歩いてくる。 私は怖いもの見たさですれ違うとき、ソーと顔をあげてその二人を見た。 向こうも変な二人ずれをスーとみて、歩を止めることもなく行き過ぎた。
その時私は「あの人、神戸のおじちゃんとMぼんによう似てたね・・」と母に・・私たち二人は振り返ってみた。・・
そのガリガリの亡者みたいな二人も歩を止めて振り返った・・
その瞬間、一瞬の間をおいて、探り合う様な視線が流れ・・四人の叫声が上がった。
飛ぶような仕草で駆け寄った四人は驚きの声と涙で抱き合った。
両方からのわめき声をあげながらひとまず私たちの間借り部屋にかけこんだ、
それからの大人二人の話は本当に神様の仕業としか思えないものだった
叔父の話では、「神戸で戦火に遭い何とか家族全員で近くに建てた掘っ立て小屋で終戦を迎えた。 私たち一族は都会育ちで田舎を持たず、この食糧難では何とかしなければ・・・と偶然下車して歩いていた・・・」と。
お互いの消息は戦時中を境に不明のまま、この瞬間を迎えたのであった。
その時の私たちの喜びはただただ神様に感謝するのみであった。
私は自分が何度も死線を超えて生かされているとゆうことに、不思議な何かを感じた。
生きるべき時は生きるのだ・・・と。自分の運命なんて自分で決めることは出来ないのだと。 そう素直に信じることが出来た。
人はこの世ではすでに決められている道を素直に日々、感謝して生きていけばいい・・死を迎える日もすでに決まっているのだと・・ だから一日一日を大切に充実して過ごそうと・・ 神様に感謝して・・・
合掌
4月22日
お向かいのYさん宅におよばれに行った。
彼女が主催している「たつじんくらぶ」
すなわち年寄り(達人)から若者に伝えていかなければならない大切なことを伝承していく手助けをする倶楽部だ。
今日の食事会は旬のものを使っての献立であった
今の若い母親は共稼ぎでつい、出来合のもので子供の食事をすましている。そんなことでは大変なことになる、
そんなことから、伝えていかなければとの思いからこの食事会を開催したしとゆう。
教えてくださったのは正に達人・・2時間ほどでこれだけの手作りの料理をこなされた。
勿論、他の人たちの手伝いもあってだったが。
食事中もいろいろと面白い話題も出た。
私を入れて9人、熟年、ヤングであった。
昔の子供の食事事情・・ヤングからは現代の食事事情・・などなど ・・
その合間に野菜の旬の話、調味料の合わせ方など気になる話もいろいろあった。
一人住まいの私には耳が痛い。
もっと自分の食事を大切に考えなければいけないと感じた。
「年寄りは後が短いから、好き勝手に生きて良い・・」なんて僻んでいる場合ではない、生きている間に知っていること、大切なことをしっかり伝える手助けをしなければと、しみじみ感じた一日であった。
お向かいのYさん宅におよばれに行った。
彼女が主催している「たつじんくらぶ」
すなわち年寄り(達人)から若者に伝えていかなければならない大切なことを伝承していく手助けをする倶楽部だ。
今日の食事会は旬のものを使っての献立であった
今の若い母親は共稼ぎでつい、出来合のもので子供の食事をすましている。そんなことでは大変なことになる、
そんなことから、伝えていかなければとの思いからこの食事会を開催したしとゆう。
教えてくださったのは正に達人・・2時間ほどでこれだけの手作りの料理をこなされた。
勿論、他の人たちの手伝いもあってだったが。
食事中もいろいろと面白い話題も出た。
私を入れて9人、熟年、ヤングであった。
昔の子供の食事事情・・ヤングからは現代の食事事情・・などなど ・・
その合間に野菜の旬の話、調味料の合わせ方など気になる話もいろいろあった。
一人住まいの私には耳が痛い。
もっと自分の食事を大切に考えなければいけないと感じた。
「年寄りは後が短いから、好き勝手に生きて良い・・」なんて僻んでいる場合ではない、生きている間に知っていること、大切なことをしっかり伝える手助けをしなければと、しみじみ感じた一日であった。
4月21日
この 二、三日 日中の気温は24度を超えている。
春を飛び越えて夏日なんて・・
そんなに急ぐこともないのに・・とぐちっても仕方がない。
さすがにタフな自分、と自負していても思う様には動いてはくれない。
こんな時は自宅待機が健明だ。
ぼつぼつ、広島もフラワーフェスティバルに向けての準備で
躑躅の香りが匂ってくるようだ。
昨日 Mさんから夕暮れの写真が届いていた。
さて、頑張らなくちゃー
、
この 二、三日 日中の気温は24度を超えている。
春を飛び越えて夏日なんて・・
そんなに急ぐこともないのに・・とぐちっても仕方がない。
さすがにタフな自分、と自負していても思う様には動いてはくれない。
こんな時は自宅待機が健明だ。
ぼつぼつ、広島もフラワーフェスティバルに向けての準備で
躑躅の香りが匂ってくるようだ。
昨日 Mさんから夕暮れの写真が届いていた。
さて、頑張らなくちゃー
、
4月18日
スーパーの店頭に筍がズラリと並んでいる。
一週間前は豆ご飯にした・・
今度は筍ご飯にしよう。
子供の頃・・昭和一桁の私は母の作ってくれた
旬の味を味わうこともなくパクパク食べていた
だけだったが、 今になってその味を食べた
いと苦心して追い求めている・
あれこれとチャレンジしてみるけど、一寸違う
何が違うのだろうか・・?
親から子え、子から孫え・・食べ物だけではない
様な気がする。
自分たちが育てた50代40代、それが育てた
30代の人たち・・
毎日起こっている事件・・
もう、手遅れなのだろうか?
でも、10代の子供達をみていると・・いやいや、
この子達はまだ白紙の部分が沢山残っている。
希望は残っている・・この白紙の部分が何色に
染まっていくのだろうか・・
大人達がシッカリしなければ・・年寄りもだ・・・
スーパーの店頭に筍がズラリと並んでいる。
一週間前は豆ご飯にした・・
今度は筍ご飯にしよう。
子供の頃・・昭和一桁の私は母の作ってくれた
旬の味を味わうこともなくパクパク食べていた
だけだったが、 今になってその味を食べた
いと苦心して追い求めている・
あれこれとチャレンジしてみるけど、一寸違う
何が違うのだろうか・・?
親から子え、子から孫え・・食べ物だけではない
様な気がする。
自分たちが育てた50代40代、それが育てた
30代の人たち・・
毎日起こっている事件・・
もう、手遅れなのだろうか?
でも、10代の子供達をみていると・・いやいや、
この子達はまだ白紙の部分が沢山残っている。
希望は残っている・・この白紙の部分が何色に
染まっていくのだろうか・・
大人達がシッカリしなければ・・年寄りもだ・・・