バーバの極楽トンボ

さー傘壽を超えた・・今からももうひと飛び

あの阪神大震災に遭遇した。

2010-01-17 09:00:54 | 原爆孤老のつぶやき・・
1月17
日 たりたり
この二、三日粉雪が舞う・・・
雪山に遊びに行っているときはこれも又、楽しいが、日常の生活の中でチラチラ降っているのは何とも、「アー寒そう・・」と首を縮めてしまう。

テレビも15年前の阪神大震災に関する報道が多い。

私はあの時母、叔母と三人でボートアイランドのホテルの12階に滞在していた。
夜明け前、未だ夢うつつに激しい上下の揺れで飛び起きた。・・・とゆうよりベッドからほり投げられた。  その瞬間トリプルルームにあったあらゆる調度品が頭上を飛び交っている。
考える閑もなく高齢の二人を捜したらベッドの間に落とされて飛び交う物にも当たらず身をちぢ込ませていた。
一瞬室内は停電したがホテルの自家発電で何時も通り点灯していた。

何があったか・・判らないが、原爆を体験していた三人は、一大事であることは理解でき、比較的冷静に考えることは出来た。
ホットする間もなく激しい横揺れで動き回るベッドの足に身を寄せあって何分だったか、何秒だったか、ジッとしていた。
暫くして、我に返った私たちは兎に角ここから脱出しなければと、衣服を整え貴重品を身につけた、、「大丈夫ですかァ・・」「大丈夫ですかア支配人でーす・・」の連呼のこえとドアーを激しく叩く音に慌てて施錠をはずした。・・・
幸いなことに力任せの男性の力も、それほど力はいらず廊下に出ることが出来た。
そこから一階まで非常階段の冷たい手すりにつかまり余震を感じながら支配人の誘導で下りていった。

その頃はスッカリ夜も明けていた。  
一階のロビーに、多分最後に下りてきただろう私たち三人も、不安そうな宿泊客の顔に顔を並べた。

「これで、宿泊の皆さん全員ですね・・」の支配人のこえではじめて全員の顔に安堵の色が出た。
それから、何となくみんなに連帯感が生まれ、手持ちのお菓子や飲み物を分け合った。   午前が過ぎ午後が過ぎロビーから見える外は尋常でない顔の人の行き交う姿が右往左往して見える。

やがて夜の帳が落ち始めると「大きな余震がくる・・」と誰ゆうと無く話題に上り始めた。  その頃は宿泊者だけでなく外部から人が大勢出入りしてきた。   昼食と夕食は私たちの口に些かなりとも入ったが、水も光熱も止まってしまい、 翌日からはジュースとカンパンになった。 宿泊者と外部の人との区別はつかず、ホテルでは対応しきれず食事は有る物だけ・・も無くなった。

一寸先にコンビニがあると知らされ行ってみたが、もう、手に入れることも出来ず水物だけでその日は暮れた。

余震があるたびにロビーの大きなシャンデリアがグルグル回て・・・恐怖を感じた。   

このアイランドと対岸の三ノ宮とは一本の橋で繋がっていて、その橋が重量に耐えきれず車の往来も制限されているので充分な補給が出来ないのだとゆうことであった。

今朝はテレビも5時46分からその時の映像を映している。
そして、愛する人を失ってその空洞をヤット15年たった今再び思い起こすことが出来た。・・・

私も、一瞬に死体すらない友の死を何年かかっただろうか・・いや、未だに認識しえていないような気がする。
人は必ず死ぬ・・と判っていても・・・何故?どうして?・・・

今朝早くから流れてくるメールやFXの言葉・・・そのラジオを聞いていると「人間の本質は善なのだと・・」
二度も予期せぬ事に会ったとき自分を含めて「みんな家族なんだ・・」と手を取り合い話し合い分け合った三日間で素直に信じることが出来た。

私にはもう一つ「運命は自分で切り開くのではない、生まれたときから自分の歩いていく道は出来ているのだ・・」と信じざるをえないことが有った。

原爆後父母と三人で一日掛けて逃げていった祖母達の避難先、私はもう立ち上がることも出来ずそのまま伏してしまっていた。
15日の終戦も知らず微かながら意識はあったのだろう、

栄養失調で少しの水しか受け付けなかったにも関わらず生きていたのだろうか・・

ある朝、口の中に肉の塊が出てきた。 母にやせ細った手で口の中をさしたとき母が「アッこれが食道を塞いだら死んでしままう」と手を突っ込んでむしり取った・・と表現すべきだったと思う。

もう、その時の私は家族も医者も(といっても村の年老いた)死ぬだろうと思っていた状態だったらしい。

でも、私は死ぬなんて夢にも思って無くてただ息を吸って吐いてだけを意識していたように思う

その口一杯にあった肉片が無くなってから食物も喉を通り食欲も出て9月中頃にはフラフラしながらも布団上に座ることが出来た。

そして、立って歩きたい、歩いて外え出てみたい・・・とタンスにつかまり柱につかまり・・やせ細った体だったが、こんなに体は重たい物なのかと・・四つん這いですら、重心が取れず布団の上に何度倒れたことか・・一ヶ月程掛かって母につかまりながら歩くことが出た。

、いままで無かった口の中の肉片が何故、あの日出てきたのだろか・・
自分ではその間中何にも考えず横たわっていただけだった・・
でも、不思議と自分は死ぬのでは?なんて考えは一度も無かった。
13才とゆう年齢だからだろうか・・・

今でもその二ヶ月間の出来事は理解できない。

あんな、こんなで現在生きている私、「人はチャンと引かれた一本道を歩いているのだ。」とゆうことを心に刻んで感謝して歩きたいと思う。


  

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