ボケ爺ですから、どうか記憶違いはご容赦を願います。
戦後、焼け野原の日本にプロ野球が復活した当時は今のようにセとパに分かれての12球団では無くて確か8球団だったと記憶しているのですが・・
当時、一番強かったのが東京の巨人と大阪の阪神でしたね。
名前も今と変わらずジャイアンツとタイガースですから矢張り伝統が有るんですね~
当時、弱小球団だった東急フライヤーズに4番大下弘外野手がいました。
読売ジャイアンツ東急フライヤーズも東京です。
国民学校4年生の私も後楽園には親しい大人に連れて行って貰った記憶が有ります。
高田馬場の地元で靴店を営んでいたK君のお兄さんが作った靴を選手に履いて貰ったお返しに後楽園のネット裏の席で巨人阪神戦を観戦させてもらった時のことは今でも覚えています。
観戦中に隣の席で友人の話「今日は川上がホームランを打つってよ・・それも2本だって・・」
川上はその通り2本打ったけど・・ネット裏から見るホームランはダイヤモンドを回る川上選手の動き、観客席の歓声でしか判断できない・・それでも少年は大満足の野球見物だった記憶がございます。
赤バットの川上、青バットの大下・・両雄ですが常に赤バットがだった。
赤バットの川上は引退後巨人軍の監督として日本シリーズ9連覇を成し遂げたのは未だ記憶に残っています。
青バットの大下選手は引退後どうなったか・・私の記憶には何も残っていません。
二人が毎年のようにホームラン争いをして野球少年の胸をワクワクさせてくれた時代が有ったのです。
年寄りの記憶の中に野球の神様巨人の川上の赤バット、東急フライヤーズ大下の青バット、今のヤンキースのジャッジ選手とエンゼルス大谷選手の姿がダブります。
大下選手が私の記憶から消えた頃に赤バットの川上、青バットの青田が同じ巨人のラインナップ3番、4番で打順を組むようになったのはそれ以後の事だと思います。
エンゼルスと東急フライヤーズ、大谷翔平選手と大下弘選手、無理やり関連付ける気は有りません。
今季のエンゼルス、残念ながらボケ爺の予想が当たって仕舞ったようです。
トラウト選手の長期故障が大谷選手の打席での孤立化を強いられたのは勿論の事です。
最近はチャンスにタイムリーが殆んど出なくなりました。
誰より焦っているのは大谷翔平選手自身だと思いますが・・ベンチで自分のゴミでもない紙コップのごみを蹴とばしながら片付けているのがその証拠だと思うのは穿ち過ぎでしょうか。
ポストシーズン目掛けて急遽補強を図っても殆ど効果は上がりませんでした。
エンゼルス監督の悲痛な思い・・「未だ諦めていない・・」は皆の思いです。
「お父さん、TV見ていない方が大谷選手は良くホームランが出てるって言ったね」
「うん???だったら当分見ないことにするか・・でもな~・・最近は日本のプロ野球も見なくなったし・・」
朝4時起きで散歩に出掛けちゃうのが日課になっているから夜も8時になるとTVも長くは見ていられないボケ爺です。
戴いた黄色いスイカで辛うじて投稿記事を書いています・・ゴチソウサマ