戦後復興が目覚ましい東京高田馬場周辺ではサラリーマンや学生相手の飲食店が沢山出来ていました。
その中の1軒、高田馬場駅横町の有る中華そばの大成軒迄は家から500m位です。
私が話をしたので興味を持ったのか、或る日初めて母と中華そばを食べに大成軒へ行きました。
店内は混雑の時間を外したお蔭でカウンター中央に二人並んで座ることが出来ました。
お店の調理場はL字型のカウンターの前に遮るものは無く、年配のマスターが中央に構えて湯気が濛々と立ち込めるオープンな雰囲気です。
注文を聞いてマスターが中で動き始めた時です。
いきなり母が席から身を乗り出してマスターの手元を覗き込んだのです。中をジッと見つめていましたが、安心したように、又腰を座席に下ろしました。
私も改めて中を覗き込んだのですが、マスターの右側には私には見慣れた大釜の8分目程迄黒っぽい液体の中に、白い根っこの付いたネギと青いネギの葉っぱが浮かんでいるのが見えました。
きっと黒い大釜鍋の底には秘伝のラーメンスープのエキスが一杯溜っているのでしょう。
マスターが定番の器にお玉で大鍋から赤みを帯びたスープを注ぎ、二度三度湯切りした麺を器の真ん中に置いて、その上にチャーシュー、メンマを乗せれば出来上がりです。
私達二人は看板娘の運んで来た中華そばを美味しく頂いたのは間違い有りませんが・・私は何時も食べているから・・横で黙々と食べている母の方が気になって、確か「どう?・・」「ウン美味しいね・・」言ってくれたのが嬉しくてニッコリとして・・又麺を啜りスープを飲みつくして・・そのあとの事は覚えていないのです。勿論勘定は私が払ったのだと思いますが・・親子が対等で食べた最初で最後の中華そばだったのかも知れません。
若しかして母が身を乗り出してマスターの手元を覗いたのは「中華そばってどうやって作るのだろうか・・」と考えたからだと思います。と言うのは・・
小学校のPTAで何人かの女友達と地元の蕎麦屋さんに行って親子丼の作り方を教わり、私達兄弟に食べさせてくれたあの時は、親子丼を何度か繰り返して作り直して、遂には私の友達に迄、親子丼を作ってご馳走した際には「おばさんコレ旨いよ、お店でも充分お金戴けますよ」と言われて「Kさんはお世辞がうまいからね~・・」と恥ずかしそうでしたが、嬉しそうでもあった母です。近所で独り暮らし下宿していたK君は我が家の賑やかな家族の日常生活に、きっと自分の故郷新潟柏崎の事を思い出していたのでしょう。
明治生まれの母が東京の下町育ちという事は解っているのですが詳しい生い立ちを語る事は生涯有りませんでした。戦後の貧困生活を乗り越えて両親と5人兄弟、父は65才で母に先立ち、10才年下の母は87才で無くなりましたが、父無きあと30年余りの年月、例え自分は食べなくとも子供達兄弟5人のすきっ腹を満たして育ててくれた母、私達の両親に感謝と尊敬の言葉を贈る兄弟とお互いの連れ合いは、現在年は取っても現役人生で平成最後の1年を平和の内に過ごしているのです。
それにしても私の食いしん坊も若しかすると母親譲りなのかも知れません。
この十年、私達夫婦にとっては行き付けのラーメン屋さんが再開の芽もなく、次々と閉店に追い込まれて往きました。時代とは言え寂しい限りです。
いつか近所でラーメン屋さんが新規開店したら、若しかして新装開店したなら、ラーメン大盛りを注文して、、、ラーメンスープを全~んぶ飲み干して・・「ゴチソウサマ~」って言いたい私達です。
血液サラサラ、サラダ玉葱のサラダです。ホントに甘いです、かつお節掛けたら最高に美味しいです。ゴチソウサマ