団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

お疲れさん達のクラス会5

2015-01-19 21:34:36 | 日記
80才14人のクラス会始まって間もなくK君が用が出来て帰ると言うので、宴途中でT君愛用のカメラで集合写真を撮って貰う事にして皆が片側に移動、良いカメラなので3m位の距離で全員OK、セルフタイマー10秒、いざシャッターを押す、寸前私が「T~(て~)横の襖イッパイに開けないと!」その儘戻ろうとすれば、三脚に足を取られて(足を三脚に取られるケースも?)カメラもT君も、もんどり打って転倒てな事も・・皆も納得して無事集合写真撮影終了。全員80才の写真が早速今日私にも届いた、流石に早いと感心する、皆元気写って何よりだ、おまけに写真に合わせて各自の名前入りのT君のコピー手紙によれば「芳名図」と言うそうだ、それが付いてて、昔を知ってる妻が「へ~!誰々さんこんなに頭が?これがあの誰々さん?老けたわね~!」「当たり前だよ皆80才なんだからショウガナイだろう」私?毎日顔を合わせてるから女房も気が付かないのだろうが手術で両目の脂肪を取って少しは若返ったから良いとするか、そう云えば我が女房殿、改めてお年寄りを実感、第一背中が曲がって来たぞ!元気は口ばっかり」オッとコレは禁句だ、クワバラクワバラ・・・

お疲れさん達のクラス会4

2015-01-13 18:30:34 | 日記
今年もクラスの友等に乾燥芋のお裾分けしながら思いました。戦後も続いた配給制度、都会の人々は皆貧しかった、只生きるのが精いっぱいの毎日だった、食べ物が絶対に足りないから闇で買う食品が多かったが、仮に今の時代なら闇市場で手に入れる物と言ったら人体に危険な代物が連想されそうだが、当時はそんな危険と思われる物は少なかった、何故なら米とか麦とか芋まで皆統制品で配給では足りない分、例えば普通の大人達が農家から買い出しで、近隣の農家から横流ししてくれる食料を買って(当時農家は農地解放で貧乏農家から一変、米、麦、芋等を求めて都会の人達はペコペコ頭を下げて農家に食料を分けて貰う時代、勿論そんな農家ばかりじゃ無かっただろうが・・)代金は、なけなしのお金で払ったり、大事な着物と交換だったり、何れにしても如何わしい?物ではなく寧ろさつま芋等は、政府向けの供出には沖縄芋(菊芋とも言って只収穫量が多いので供出用として)自分達が闇で売るのは金時とか紅赤とかホクホクのさつま芋だ。でもそんな配給の不味い沖縄芋だって母が蒸かしてくれた奴を自分で包丁で切って板切れに並べて半日も天日で干せば少しばかり甘くなる。只空腹に耐えられない食べ盛りの悲しさ、並べる傍から一切れ一切れ口に入れるから干し上がる頃には、二三枚しか残らない・・姪っ子が暮に送ってくれる茨城の乾燥芋、こんな旨い芋を毎年沢山食べられる幸せ、今の子供達にも乾燥芋は沢山食べて欲しい、何しろ添加物無しの自然食品だ、沢山食べて芋にオナラは自然現象、それも健康の証拠、遠慮は要らないブッ~とヤレ!年寄りにも良い、餅と違って喉に詰まる危険もない。暮から正月、乾燥芋と愛媛真穴ミカンで自分の腹具合は頗る快調(快腸)元気イッパイ!サ~ッ 未来一杯の今の子供達、元気にスクスク成長する様、ヤッパリお母さんが自然の食品で手作りの食事で愛情込めて、手抜きはイカン、幸い日本には今も体に良い食べ物が沢山有ると思ってます。

お疲れさん達のクラス会3

2015-01-13 13:13:36 | 日記
今食べ盛りの10代の子供等と今歳80才の私達とどちらが良い食べ物を口にしてたか?と云えば当然現代っ子の方が恵まれているかと思われるが・・いや待てよ?若しかすると・・当時の私達の貧しき食生活が、どんなだったか思い出して何回かお話ししたいと思います。群馬県草津町で1年半の集団疎開、この地の食事も衛生状況も次第に悪化して栄養失調で町の医者から現地赴任の先生へ、そして東京淀橋区戸塚町3丁目の両親に連絡がされたらしく、父親が草津まで連れ戻しに来て、私と2歳下の弟と3人で終戦1か月前焼け野原の東京へ、高田馬場駅近くのバラックに(親達の家の焼け跡に焼けトタン屋根で親達が作った住居、バラック生活については又別の機会に・・)辿り着いた。その日から終戦迄の数週間の配給生活に加えて、終戦玉音放送の日から間もなく始まった米国の援助によるララ物資戦後の極貧生活が続きます。私達兄弟5人(現在元気)に6人目の弟は生まれて間もなく栄養不足の母の乳が出ず、粉ミルクも(森永粉ミルク事件は寧ろ今日の複雑な食生活の始まりかも知れません)配給で不足して栄養失調で失くしました。末っ子の死、残酷な様ですが10歳の私には悲しいさと同時に「仕方が無い・・諦める・・」だった気がします。でも両親は違ってた、この末っ子のお葬式、終戦直後の事、霊柩車も無かった、確か誰かが用意した台八荷車で親達親戚達が火葬場へ運んで行って、その後バラック家の中で通夜をしてるのを憶えてます。何日か過ぎてある日狭い家の中、偶々私が傍に居た時、父親が10才下の母に小さな低い声で呻く様に「お前が殺した・・」母は俯いて無言でした・・父と母の子供への愛情・・・父は私達5人を厳しく、遠くから優しく見守るように導き夫々高校大学迄出して呉れて65才の若さで脳軟化症で亡くなり、母はその後5人を育てて食べさせて83才で苦労の生涯を全うされました。改めて両親に今の自分が元気で居られる事に感謝して、謹んで冥福を祈るものです。